どちらかといえば「ことばや名前」かもしれないが、本カテで投下。月始めにはなにか投下しないとおちつかない。前から書いておいたものをこの際すませる。
アイスランドのアーナルデュル・インドリダソンの『印(サイン)』から二か所引用。
「何という名前でした?」「マリアは姓は言わず、 名前だけ言いました、マグダレーナと」
「カロリーナ・フランクリンのことを少し調べてみた。 家族名はフランクリンスドッティルというのだが、 彼女は父親の名前のフランクリンを名字にしていた」
引用終わり。
え?アイスランド人には現代でもファミリーネームはなく、名前のあとの○○ソン、○○ドーティルは「父称」で〇〇の息子、娘の意味(ロシア人の〇〇ヴィッチ)。
この作家も、図書館で「イ」で並べられているのがひっかかってしかたない。あまり馴染みのない文化圏の人の名前について正確に扱うことは難しいものだ。
しかし上記の文章はなんなんだ?
翻訳者はスウェーデン語の人で、邦訳は重訳である。これまでは疑問に思ったことはないのだが、重訳ゆえの不自然さなのだろうか。いま図書館のHPでこの作家を検索したら英訳本もあって、その表紙には「インドリダソン」のほうが大きい文字で書かれている。デンマークのミステリーでも、チョイ役のアイスランド人の女を○○ドッティルと書いていたことがある。アイスランドのミステリー『魔女遊戯』でも、ドイツから来た刑事が主人公を「フラウ・〇〇ドッティル」と呼んで彼女はそれを訂正もしなかった。姓がないことは外国で知られておらず、あきらめているということだろうか?
もう一つ、日暮雅通『シャーロック・ホームズ・バイブル』から。私がくいつく内容なのでメモしておいた。
ただし、題名はー-特に書籍の題名はー- いわば商品名なのだから、「正しい意味」だけにこだわると、 魅力を失うことも確かである。そこは洋画の邦題を考えれば、 よくわかるだろう。 昨今は原題をそのままカタカナにしてしまうやり方が横行している が、英語が日常生活に溶け込んできたとはいえ、 手抜きのそしりを免れないものも多いのではないだろうか。 無理に訳してもニュアンスが通じないから英語のままのほうが通じ るだろう・・・・・・というのは、 努力不足のような気がしてならない。
原題名から離れても、 その映画の内容や雰囲気をうまく伝えていれば、 意訳と同じで許されるはずだ。昔はそういうみごとな” 原題からの逸脱”があった。
引用終わり。清水義範が何度もネタにしていること。私もたびたび怒りを感じていること。
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