レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

マグダラのマリア、聖母マリア

2006-06-12 12:15:48 | 歴史
 岡田温司『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』中公新書(2005)
この本によると、「福音書」でのマグダラのマリアは、イエスの処刑・埋葬・復活の場面に登場してはいるが、「回心した娼婦」という記述はないという。使徒達の中でも重要な立場を占めていて、特にペテロがそれに敵意を示している。彼女はイエスによって「7つの悪霊を追い出してもらった」女と書かれているが、6-7世紀の教皇大グレゴリウスが、彼女をルカに登場する「罪深い女」(そしてヨハネの書いた、ラザロとマルタの姉妹であるマリア)と同一人物であると見做したことからその変貌は始まり、やがて娼婦たちのアイドルとなっていく。
 いま評判の『ダ・ヴィンチコード』にも、イエスと彼女が夫婦あるいはそれに近い関係だったという説が書かれている(そして「娼婦」がウソであることも)。正直なところ私は、こういうのも好きではないのだが。重要な弟子、そのほうがかっこいい。そこに男女の仲まで加わるのは嬉しくない。冒涜とかいうレベルで言ってるのではない。
 原初は伝道師としての役目を担っていたマグダラのマリアが、ある意味極端に女らしい意味つけをされてしまったことは腹立たしい。しかし、気丈な指導者の一人として描かれ続けていたら、こうもポピュラーなキャラクターにはならなかったかもしれない。やはり、官能性を付与することのできる役づけのほうが受容されやすかったろう。
(伝道者としてのマグダラのマリア、市川ジュンあたりが描いたらいいのに。)

 この本から、マンガ好きとしての関心をひいた部分を引用。
「頭髪、とりわけ女性の頭髪は、感情を表出する役目を果たすとともに、エロティックな潜在性をもつものとしても作用する。」
「きちんと結わえた髪と、無造作になびかせた髪とでは、どちらが女性をより美しく見せるかは、ペトラルカ以来、文学のテーマとして好んで取り上げられてきたものだった。」
 髪の毛の表現が大事だという点は、少女マンガの伝統にもしっかりと受けつがれているのだな。アニメの技術が進化しても、髪はやはりマンガ絵にかなわないと思う。
 

 同じ時期に読んだ『聖母マリア伝承』中丸明 文春新書 1999.
 こちらのマリアは逆に、あとから地位があげられている。聖書の記述はごくわずかで、処女懐胎に触れているのもマタイとルカのみだという。著者は、ヘロデ王による嬰児虐殺は、年代記にもほかの使徒にもなく、マタイによる捏造だと解釈している。
 ユダヤのヨセフスの史書には、ピラトや洗礼者ヨハネの名はあっても、イエスやマリアの名はないという。
 431年、エフェソスの宗教会議でマリア崇拝が公認されたが、ここはアルテミス信仰の強い地域だということで、マリアとアルテミスはイメージが裏腹で奇妙に思える(アルテミスもかなりの変化を遂げているのだが)。人々の心の底の「大地母神」信仰、母性的要素をどうしても求める気持ち、王権による利用など、いろいろな要素が絡まって聖母マリア信仰は強まっていく。

 マリアの「出現」の伝説として最も古いものとして、以下のようなことが載っていた。
「ローマ皇帝アウグストゥスが、元老院からプリンケプス、ついでアウグストゥスとの称号を受け、みずからの存在が神格化されてゆくのをどうしたものか、と巫女に相談したとき、にわかに強い光がふたりに射しこみ、太陽が現して見せたのは、腕に幼な子を抱いた母子像であった。
 つづいて天から声が降ってき、(略)「この女性は天の祭壇である」といったという。「聖母マリア」のイメージがすでにここに見られるが、これはどういってもおかしい。というのも、彼女はラテン語などまったく知らなかった無教養なナザレの女であったし、この時点ではまだ存命しているからだ。」

 ・・・・・・存命どころか、生まれてなかったかもしれんよ。
コメント (2)
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