ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

馬鹿ですね

2009年07月13日 | ノンジャンル
6月の光の見えない懊悩の闇から、少しあかりて、
落ち着いてから、近況を連絡した。

返ってきた言葉は、「馬鹿ですね。」

何かがスーッと心から抜けていき、思わず涙ぐんだ。

息も出来ぬほど苦しい胸の上に、そっと手を伸べられて、
痛みが和らぐように。
我慢に我慢をして、壊れそうな時に、ぽんと肩を
叩かれるように。

その言葉で、救われた。

「逃げてもいいんですよ。」

「甘えてもいいんですよ。」

いつも、そうしてはいけない、そんなことではだめだと、
自分を追い詰めてしまう私に、その人は言いました。

「馬鹿ですね。」 と。。。

ありがとう。 本当にありがとう。

あなたのおかげで、また一日を私なりに生きていきます。

ありがとう。 私は元気です。



心神喪失

2009年07月11日 | ノンジャンル
掲示板で少し触れたが、心神喪失については仮に責任能力が
なかったとして減刑、あるいは無罪となったとしても、それは
社会的判断であって、その人が犯した罪は消えることはない。

等価交換、或いは因果律から考えれば、いずれ自ら何がしかの
形であがなうべき時が必ず来る。

さて、人は過ちを犯すものであるということを大前提にした
考え方がフェイルセーフである。
ミスを犯してはならないという状況にあるほど、
心的ストレスからミスを犯しやすいことを考えれば、
ミスを避けられない事として対策をする方が得策である。
これは、「フェイルセーフ」で述べた。

死刑についても、執行はともかく、制度としては存続させる
べきと考えているのは変わらない。
これも「死刑について」で述べた。

問題なのは、心神喪失、心身耗弱による、無罪、減刑の
判例が多く出るようになり、加害者の弁護側も、
何とかこの状況を適用して、減刑に持ち込もうとする傾向が
強くなってきた気がする。
これは全く本末転倒であり、司法の原理原則を
危うくしてしまう。

ただ、我々はまた、独立した司法に完璧さを求めがちであるが
それもまた人の為す事である以上、過ちは避けられないことを
認識しておく必要がある。

「お上のすることに間違いはない」で済む時代ではない。

心神喪失、裁判員制度、審理期間短縮による誤謬の増加。
司法も混迷期を迎えたようである。



等価交換

2009年07月10日 | ノンジャンル
オー・ヘンリーの短編は、原文を学生時代の英語の授業で
勉強した覚えがある。
ストーリーはどの編も単純なのだが、やたらと表現が
回りくどい面があって、和訳するのに苦労したことを
覚えている。

あの最後の一枚の葉が散るとき、私は死ぬという物語を
ご存知の方も多いであろう。

病床の彼女の友人はその話を老画家にする。
老画家は馬鹿げた話だと憤慨するが、葉の絵を書き、
それを枝にくくりつけ、人知れず病床の彼女を励ました。

それは嵐のさなかであった為、老画家はまもなく肺炎で
死ぬが、彼女はその最後の一葉に勇気付けられ、奇跡的に
全快する。老画家の命と、彼女の命の等価交換といえる。

ある貧しい夫婦の話。互いにクリスマスプレゼントを相手に
贈ろうと、それぞれが大切にしているものを売ってしまう。
夫は金時計を、妻はその豊かで美しい髪を。
それぞれが買ったものは、金時計をつるす鎖と、櫛であった。

その時点で、プレゼントは無駄になってしまったようだが、
等価交換からいえば元のままということになる。

冬を越す金もない男が刑務所で過ごすことをたくらんだ話。
無銭飲食をしても、ショーウインドウのガラスを石で
割っても、傘を盗もうとしても、通りで騒いでも、
逮捕されることなく途方にくれる。

やがて、教会の賛美歌に魂を奪われ、自身を立て直して、
仕事を探し、まっとうに生きていこうと喜びとともに
心に決めたとき、挙動不審だか、敷地への不法侵入だか、
あっさりと逮捕されてしまう。
わざと犯した罪の等価を、何も罪は無いときに
交換しただけである。

様々な彼の短編には、人生の皮肉や、悲哀が多く見られるが、
その中に等価交換という冷厳な視点があるとともに、人間の
関わり合いの中には、物質面、精神面を含め、
エネルギー保存則と同様、その交換が常に平衡を維持しようと
行われていることを示唆している。

例えば、母親の無償の愛はこの原理とは無縁のようであるが、
子供の笑顔に無上の喜びを感じるとき、彼女自身の
「生きる力」を、少なくとも与える愛情と同等に
得ているのである。

自身の努力、貢献、協力、尽力、奮闘に対して、報われる
ことが少ないという人も多いが、それは大きな誤解か
無自覚で、物質面か、精神面か、あるいはまた別の形で、
相応に報われているはずなのである。

それを知るか知らないかで、愚痴の人生か、感謝の人生かを
自身が決めてしまうことになるのである。



ひとり

2009年07月09日 | ノンジャンル
人間、誰しもひとりになってしまうことを恐れる。

何かに属していたい、何かに繋がっていたい、いや、
自分以外の人と繋がっていたいのである。

それは本能的にひとりでは生きていけないことを
知るからであり、それはほとんどの場合、精神的なものである。

都会に暮らし、毎日何万人という人と行き交いながら、
孤独な自分に底知れぬ淋しさを感じながら、懸命に人は
生きている。人の密度が高くなればなるほど、一人一人が
感じる孤独は深くなるようだ。

反対に過疎の田舎で、人の関わり合いという濃度が高くなると
疎ましく、煩わしくさえある。
人の密度が低くなるほど、干渉の濃度が高くなるようだ。

こうしてみれば、その人の置かれている環境というよりは
その人の心次第で、どこにあっても孤独になることは
ないようにも思える。

ひとりオフィスであくせく働いて、夜中の風に吹かれて
一服している時など、何とも言えない寂しさがあるが、
ふと向かいのビルを見れば、同じように頑張っている
人がいる。自分だけではないんだ、もう一頑張りするかと
励まされ、逆にその人を励ましたくもなる。
その時点で、すでに孤独感は消えている。

果てしない空、無限とも思える海、広がる大地。その中に
一人立つ時、点にもならない小さな自分の存在に
どんな思いを馳せるのか。
押し寄せる孤独感に呑まれてしまうのだろうか。
いや、小さな小さな自分が、その無限の中の一塵であると
自覚したとき、その一塵は無限と一体となり、
生命の一滴としての存在であることに歓喜するのではないか。

今度の内蒙古への出張は、そんな経験を期待させてくれる。
ゴビ砂漠に立ち、砂の一粒たる自分を思って、
何を感じるのか。今から楽しみにしている。




TO YOU

2009年07月07日 | ノンジャンル
挨拶というのは、他人、つまり相手に対してするもので、
実は相手のためを思っての言葉である。

おはよう

こんにちは

こんばんは

おやすみなさい

相手のためなどと言葉にすると、少し大仰なようだが、
個人の尊重を重視する西欧の表現においてわかりやすい。

GOOD MORNING

GOOD AFTERNOON

GOOD EVENING

GOOD NIGHT

いずれもGOODがつく。
自分にも、他人にも良い日もあれば悪い日もある。
だが挨拶では常にGOODである。

これは、後に「TO YOU」がついているのが
省略されているだけなのである。
つまり、相手に対し、貴方にとって良い朝、良い午後、
良い夕べ、良い夜でありますようにという挨拶なのである。

日本の挨拶で最もわかりやすいのが、年末に交わされる、
「どうぞ良いお年を」という挨拶であろう。

普段、あまり意識しないで挨拶を交わしているが、
相手にとって良いことを願うということを、少し頭に
おいておけば、自身にとっても気持ちの良いものに
なるだろう。

皆が相手に向けて、良き時を願うというのは、すばらしい。
挨拶ができないのは、人のことを想えないからだとすれば、
人として恥ずかしいことではないか。
習慣として、させられる挨拶ではなく、自ら声をかけていく
挨拶でありたいと思っている。

今宵、様々な願いを胸に七夕を迎えられる皆様に、
良きひと時を過ごされん事をお祈りします。