ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

黄砂に吹かれて

2009年07月22日 | ノンジャンル
連休明けの朝の大阪は曇り空。

空港へ着くと、黒い雲に覆われ、バケツをひっくり返した
ような土砂降り。
視界も悪く、飛行機が遅れるかもと心配したが、定刻出発。
大したものだ、ボーイング。

北京で乗り継ぎに5時間待ち。大して時間を潰せる施設もなく、
あまりの人の多さに閉口したが、お客さんと無事合流し、
包頭へ。

離陸後、北京の空を見て驚いた。水平線でもない、
地平線でもない、が、何かはっきりと大気を割る一線が見える。
汚染された地表の空気と、上空の澄んだ空気の層との
境目である。その境目は不気味にはっきりと輝いていた。

それまで田園区画のはっきりした緑の地表が、徐々に灰色へと
変わっていく。
やがて紙を皺くちゃにして置いたような、峻嶮な山並みが
ジオラマのように眼下に広がる。

日本の緑の山々ではない。ごつごつとした、色気のない岩山
ばかりで、生物、植物を寄せ付けない厳しい姿は、地獄の
情景を彷彿とさせる。冬は生命を完全に拒絶し、近寄れば
そのまま死を意味する。

高速の右側、つまり北側は、荒涼とした山々。それを越えれば
モンゴルの草原が無限に広がる。
山の裾野が高速のそばまで迫り、左側を見れば岩と砂だけの
荒野が広がる。

舞いあがる黄砂は、一団の塊となって空に漂う。夕暮の空は
薄い青色だが、あきれるほど高く抜けていて日本の秋の空
よりも澄んでいる。

緑は、植林ばかりで、山の崩れや砂塵を防ぐ目的で定間隔に
見られるが、どれも瑞々しさが微塵もなく、火山灰を
かぶったようにくすんで見える。

せっかく植えても、山が崩れたなら終わりで、イタチごっこ
なのであろう。山肌は斑に緑らしきものが点在し、死斑の
ようにも、ハイエナの模様のようにも見える。

砂といっても、パウダーのような細かさで、一面を覆っている
中では、霧の中にいるようで、視界は悪い。
湿度は低く、すべてが乾燥しているが、砂塵が空を覆い、
曇っているようだ。

期待していた星空は眺められそうにない。
荒野の夕日は長く沈まずに、最後の名残を惜しむように
一層の輝きを大地に投げる。
午後9時を回っても、空は薄明るい。

ホテルとは名ばかりで、要するに田舎で飯を食わせる
ところが、宿も提供するという名残であろう。
エネルギー節約のため、部屋は薄暗く、不足がちな水は
あえて勢いを制限して、出たり出なかったり。。。

まったく、なにもかもが荒涼としている。が、人々は
まじめで、温厚にして、人懐こい。

現場で数時間も過ごせば、粉のような砂が耳、鼻、口に
容赦なく入り込んで、首から上はどこもかもざらざらする。
口中はじゃりじゃりし、耳や鼻をティッシュで掃除すれば、
黒っぽい黄色に染まる。
炭鉱で働いているのかと、錯覚するほどである。

なにもない。ただ荒れ果てた大地がそこにあるだけである。
だが人はそこで生きている。
なんと大したものではないか。今そこに立ち、黄砂に
吹かれながら一日の終わりに夕日を眺めていると、
人というものは、ちっぽけな存在ではあるけれども、
いかなる無限の広大さも、その懐に収めることができる
存在であることを知るのである。

いや、むしろ、無限の広大さを自ずから有していることを
そのなにもない情景の中で、覚知できるものなの
かもしれない。

事実、私は、いかなることがあっても、風に吹かれる黄砂の
一粒となって、無限の中から舞いあがり、無限の中へと
還っていく自身を垣間見るとともに、なにかこう、
ふつふつと生きるということそれだけに力が湧きあがるのを
感じるのである。