ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

罪と罰

2009年07月15日 | ノンジャンル
法治国家にあれば、罪を犯せば罰が下るのが至極当然のように
思われているが、それはあくまでも世法の上のことである。

罰を受けて、社会的に罪の償いが済んだとされても、それで
本当に済んだわけではない。

とりわけ、殺人などの加害者は、刑罰を受けたからといって、
それでその罪がすべて清算されるわけではない。
また、被害者の遺族にしても、仮に加害者が死刑となった
としても、それで一応の節目とすることはできても、悲しみと
怒りの清算とまではいかない。

ただ、生命の流れという大きな律動から見るなら、
食物連鎖外のこの殺人という行為は、異常かつ特異である。
その反動というものは、自然、その行為者に還ってくる
ものなのである。

天に唾を吐くものには、その唾は自分に還ってくる。
地に唾を吐くものにも、その唾は自分に還ってくる。
唾は、自身が呑み込むものなのである。

思うに、人を殺したものは、天が割れて落ちてくる
のではないか、地が抜けて、奈落へと落ちるのではないかと
まともな人から見れば杞憂に過ぎないことに苛まれながら
生きていかねばならない。

人に地獄を見せたものは、自身が地獄を見なければならない。
罪を犯した時点で、すでにその人に対する罰は始まって
いるのである。

それを知る者を一般人といい、知らぬ、あるいは忘れる者を
狂人と言う。人の身と、自分の身を重ねることができる者に、
人を傷つけることが出来る訳がない。
それができる者は、自らを傷つける狂人か、それを覚悟の
上で敢行する異常人かである。

罪と罰は一体であって、犯した罪に対して、誰かが罰を下す
わけでもなければ、誰かがそれを許すものでもない。
因果律と同様、原因と結果と見れば、罪を犯した者に
罰というものは厳然と現れるのである。