yoshのブログ

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広瀬武夫 二枚の写真

2011-02-19 06:39:31 | 歴史
海軍大尉、広瀬武夫の祖母は智満子(ちまこ)といい、広瀬にとってはかけがえのない大事な人でした。武夫が八歳の時に死に分かれた母登久子が残した子供達を、祖母の智満子はひき受けて、長男勝比古(後に海軍軍人)も弟の武夫も一人前の人物に育てあげました。智満子は1817年生まれですから、当時六十才といえば楽隠居になれるのに、やもめの息子のために貧乏士族一家の家計を女手一つできりもりしました。彼女は身体も丈夫で、最後まで目も見え耳も聞こえ、薬をのんだことがないといわれるほど、無病息災の人でした。それだけにまた子供達の訓育は厳格でした。広瀬は口ぐせのように「われを生むは父母、われを育むは祖母」と言っておりました。その様なわけで、広瀬の人間形成には祖母の実践する教えが大きな役割をしめていました。普段はおとなしいが、一度決心するとどこまでもやり通す人柄などは、この祖母の血を受けついだもののようです。
1896年5月、広瀬は七等大尉でしたが遠洋航海から長崎に帰港したとき、祖母の八十の賀を祝う電報を打った上で自分の写真二枚を撮って送りました。その一枚はふんどし一つの裸の写真。「お祖母さまのおかげでこんなに丈夫な若者になれました。この自分の姿を見て、これまでの苦労を忘れ喜んで下さるのはお祖母さまお一人だけです。」という意味の下記の文を写真の台紙の裏に書きつけました。
「吾ヲ生ムハ父母、吾ヲ育ムハ祖母。祖母八十ノ賀、特ニ赤条々、五尺六寸ノ一男児ヲ写出シテ膝下ノ一笑ニ供ス 明治廿九年五月  頑孫 武夫 満二十八年」
もう一枚の写真は従七位勲六等の位階勲等をもつ海軍大尉の正装に威儀を正したものでした。この二枚をあわせて送ったのが祖母の祝宴にかけつけられぬ広瀬のせめてもの心遣いでした。広瀬は次のように言っています。
「前の写真を見て喜ぶに違いないのも祖母。後の写真を見てほほえむに違いないのも祖母。赤の他人からみれば大の男が裸の写真を送るなどは気違い沙汰とみられるかもしれない。士官の正装で得意になっている写真を送るなどは、立身出世に凝り固まった俗物のすることとみられるかもしれない。しかし、この二枚を一緒に見ていただけるので、お祖母さまだけにはおれの感謝の真心は通ずるにちがいない。そう思ってお送りしましたが、はたしておれの思うとおりに大変お喜びでした。」
その祖母は広瀬がロシア・ペテルブルグに留学中に他界しました。広瀬は十日十夜泣き明かし、眼は赤くはれ、涙もかれました。そしてととう眼病にまでなったということです。この状態を見かねて先輩の八代六郎中佐が忠告しました。「広瀬、もう泣くな、君には陛下と日本がある。もし不治の眼病にでもなるならば、それこそ地下のお祖母さんがお喜びなさらんぞ。」広瀬は「はい、そうです。そうです」と素直に答え平常に戻ったということです。
この好漢、広瀬武夫は後に日露戦争において旅順港閉塞作戦で戦死し、「軍神」として敬われました。

         島田謹二 「ロシヤにおける広瀬武夫 上」 朝日選書
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