以下は、中村彰彦著 「山川家の兄弟」 学陽書房 から多くを採りました。
山川唐衣(1817-1889) 山川浩、健次郎、咲子等兄妹の母堂。本名は艶、唐衣(とうい)は歌号です。會津藩重臣山川重固に嫁ぎ二男五女を育てました。唐衣の妹文子は白虎隊(白虎二番士中隊)の生き残りとなった飯沼貞吉の母でした。
長男浩が、京都守護職となった藩主に随って上洛する際には、はなむけに次の歌を贈っています。
<o:p> </o:p>
天が下轟く名をばあげずともおくれなとりそもののふの道<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
冬の夜などは子供達や奉公人を集めて太閤記、信長記、水滸伝などの面白い為になる小説を毎晩2時間位読んで聞かせたということです。次男健次郎の述懐によれば、「母には非常に厳格な処があり、道に背いた行いに対しては容赦なく之を戒めました。当時の士族の妻は懐剣を帯びてゐましたが、母の懐剣の袋は短くて剣の丈だけの長さでしたから、いざという時には直ぐに抜ける樣になってゐました。これは些細な事ですが、母の平常の心掛けを幾分現はしてゐたと思ひます。」
戊辰戦争で鶴ケ城に入城する際に、一家は死を覚悟していました。落城の後、斗南の地で
厳しい生活を生き抜いた末、青森県士族として東京に居を移しました。
山川家の二男五女は、それぞれの道を歩んでおり大成に向かっていました。<o:p></o:p>
長男 浩 軍において国家に功労があり後に男爵に叙せられます。<o:p></o:p>
次男 健次郎 後に、東京、京都、九州帝大の総長を歴任し、男爵に叙せられます。<o:p></o:p>
長女 二葉 東京女高師(現・お茶の水女子大学)の舎監兼教官を勤めます。<o:p></o:p>
次女 美和<o:p></o:p>
三女 操 ロシアに留学して露語、仏語を学び昭憲皇太后の権掌侍通訳を勤めます。<o:p></o:p>
四女 常磐<o:p></o:p>
五女 咲子 11才で米国への初めての留学生として津田梅子等と渡米し、米国の大学を卒業した初めての日本人女性となりました。後に大山巌元帥と結婚し、堪能な語学力を生かして西欧人と接し、鹿鳴館の華として社交界をリードしました。また、津田梅子を援けて女子英学塾の運営に当たり、女子教育に尽力しました。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
子供達の行く末に安堵したかのように、明治22年に73歳で永眠しました。<o:p></o:p>
<o:p> </o:p>
我ながらなにに名残を惜しむらむ思ひおくべきこともなきよに
<o:p> </o:p>
會津武士の妻として逆風の時代をひたむきに生きた女性。淡々とした作柄の辞世です。<o:p></o:p>
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます