秋月悌次郎は安政6年(1859年)、藩命で中国、四国、九州を遊学し、萩の明倫館を訪問しました。奥平謙輔(当時19才)が夜、秋月の宿所に、「昌平黌で日本一の学生」の盛名を慕って訪ねてきました。奥平は秋月悌次郎に漢詩の添削を乞いました。悌次郎は、一目で奥平がただならぬ人物であることを見てとりました。その漢詩も見事でした。悌次郎は気さくに<o:p></o:p>
「少し平仄(ひょうそく)の合わないところがありますが、そこを直せば格段に出来映えが良くなりますな」<o:p></o:p>
と指摘しました。それを聞くと奥平は嬉しそうに礼を述べて帰ったとのことです。<o:p></o:p>
僅か一夜の邂逅でしたが、これがこの二人および幾人かの會津人のその後の人生に大きく関わって来ることになったのです。<o:p></o:p>
鶴ケ城落城の折、悌次郎は主君、會津松平家のお家再興のために奔走し、当時越後、水原(すいばら)の総督府に居た奥平に、その嘆願をしました。その折に秋月は<o:p></o:p>
「會津藩において国家のために有為となる人材を預け、学を成就させてやって欲しい。ついてはその者をここに同道したので、面倒を見て下さらないでしょうか」<o:p></o:p>
と懇請しました。そして會津の若い俊秀、小出鉄之助、山川健次郎を託しました。お家再興の問題は奥平一人では処理できない事情があったと思われ、この時は不首尾になりました。その帰路、束松峠(たばねまつとうげ)で悌次郎は傷心の気持ちを詠みました。それが生涯の絶唱となる會津三絶の一つ「北越潜行の詩」です。その後、悌次郎の山川らの教育についての願いについて、奥平は律義にそれを果たしました。奥平らの後援で、山川健次郎のアメリカ留学、ついでエール大学入学が実現し、山川は日本の教育の基盤を創る中心人物になりました。山川健次郎は奥平の好意ある行動を多として、奥平が後に「萩の乱」で処刑されたことなど意に介することなく恩師として敬い、自宅の座敷に生涯、奥平謙輔の軸を掛けてその恩を忘れることが無かったとのことです。<o:p></o:p>
一方、維新政府において、前原一誠は木戸孝允の政策に異論を唱え、遂に下野して「萩の乱」を起こしました。学者であり、かつ誠を貫く快男子、奥平謙輔も前原に同調したので、捕えられました。獄中にありながら死を前にして詠んだ辞世の詩は、悌次郎の「北越潜行の詩」に次韻するもので、内容に共通点が数多くあり、名詩と言われています。<o:p></o:p>
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