yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

山川浩

2007-12-25 07:58:47 | 歴史

會津藩で智恵山川、鬼佐川と言われた智将、山川浩にも西南戦争への出征が求められました。その際、浩は弟の健次郎に<o:p></o:p>

「戦うことはおれにまかせて、お前は学問一筋で行け」<o:p></o:p>

と言いました。そして出征にあたり<o:p></o:p>

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薩摩人みよや東(あずま)の丈夫(ますらお)が提げはく太刀の利きか鈍きか<o:p></o:p>

と、詠みました。薩摩憎しと言うよりは、戦になればいかなる敵も打ち砕くという決意を示しています。<o:p></o:p>

 山川が熊本に到着すると、谷干城が守る城は薩軍に包囲されていて、籠城は五十日を越えており、城内の食料、弾薬は尽き果てようとしていました。山川は城への突入を決意しました。かつて彼岸獅子を先頭に、鶴ケ城に入城したことを思い出し、今回も成功する自信が彼にはありました。濃霧に隠れて目の前の緑川に手早く浮橋をかけた山川隊は、敵に悟られる前に渡河を敢行し、一里半の市街地を走り抜けて、熊本城に入城しました。山川隊の一番乗りで城内は歓呼に湧いたと言うことです。山川は西南戦争の後、陸軍に戻り、會津人としては異例の昇進を遂げましたが、東京の山川家にはいつも會津人が溢れていて、彼等を助け続けたという事です。<o:p></o:p>

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コメント
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