yoshのブログ

日々の発見や所感を述べます。

容保公 上洛

2007-12-12 07:36:45 | 歴史

攘夷過激浪士等により京都が騒擾混乱の状態になったので、幕府は京都守護職を新設して京都の治安を維持し、かつ幕府の権威回復を目論見ました。そしてその職には會津藩主松平容保が最適任であるとして容保に就任を要請しました。容保公は病気でその任に耐えないとの理由を以って、京都守護職への就任を固く辞退していました。しかし松平春嶽(越前侯)が會津松平家の家訓第1条を持ち出して、今が将軍家への忠節を尽すべき時であるとして翻意を促し、また将軍慶喜の強い要請もあり、遂に守護職への就任を受けざるを得なくなりました。この時に当たり、會津藩の存亡を賭けて京都を死に場所とする覚悟を固め<o:p></o:p>

「君臣、相擁し、声を放つて哭けり」<o:p></o:p>

と、伝えられています。<o:p></o:p>

文久2年(1862年)8月1日松平容保公は江戸城に登城して、正式に京都守護職に任じられました。それから慌しく準備を整えた後、會津藩兵千人を率いて、12月24日に長沼流の行軍をしつつ、威風堂々と入京して、本陣に定めた黒谷の金戒光明寺に入りました。京都人は、初めて軍隊というものを目の辺りにして驚いたとのことです。京都に軍隊が現れたのは300年来の出来事だったからです。「これで安堵」という気持ちが町中に広がり、早速、夜市も再会され、京都の町には活気が戻ってきました。<o:p></o:p>

 容保来着に因んで、次のような俗謡も流行したとのことです。<o:p></o:p>

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   會津肥後さま、京都守護職つとめます<o:p></o:p>

   内裏繁盛で、公卿安堵<o:p></o:p>

とこ世の中、ようがんしょ<o:p></o:p>

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 守護職としての容保の方針は<o:p></o:p>

「策を用いるべきではない。至誠をもって事に当たれば、おのずと人は従う。策は失敗のもとになる。」<o:p></o:p>

と、それに「言路洞開(げんろどうかい)」でした。<o:p></o:p>

これは要するに「話しあえばわかる」という意味で、身分を問わず当局者が会って話し合う事が大事だということです。<o:p></o:p>

慶喜はこの方針を聞いて驚いたということです。慶喜は、当時の京都を守護する者としての、政治感覚の不足に危惧を懐いたのではないかと思います。頭が極めて良くても誠実さに欠けていた慶喜公にはこの容保の考えが理解できなかったのでしょう。一方、詩人気質の山内容堂は「おもしろい」と賛成しました。容保の考えを、少年の正義、純潔と見たのかも知れません。しかし、容堂(号・鯨海酔侯(げいかいすいこう))は、いつも大酔していたとの事なので、この言葉からは真意の程はよく伝わってきません。<o:p></o:p>

容保公の至誠一途こそ、藩祖、正之公以来の會津藩の根本精神であり、時代を超えた王道ではないかと思われます。<o:p></o:p>

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まだ都が平穏だった春のある日、容保公はこんな歌を詠まれました。<o:p></o:p>

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  大路ゆく車のおとも霞むなり みやこの春の花の匂ひに<o:p></o:p>

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しかし、京都の混乱は鎮まることが無く、やがて驚くべき事件が起きました。<o:p></o:p>

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<o:p>下の写真は我が家に飾っている會津藩の旗です。</o:p>

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コメント
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