【今日(9/3:月)の予定】
東大沼キャンプ場 →(D・R5他)→ 七飯町郷土資料館 →(D・R5他)→ その先未定(台風の影響を避けるため、黒松内方面へ行く予定)
【昨日(9/2:日)のレポート】 天気:晴れ
<行程>
道の駅:とうや湖 →(R230・R37他)→ 長万部町郷土資料館 →(R5他)→ 八雲町郷土資料館 →(R5他)→ 函館市博物館 →(D・R227他)→ 北斗市郷土資料館 →(R227・R5・D他)→ 東大沼キャンプ場(泊)
<レポート>
今日で今回の旅に出てから丁度100日が経った。この3カ月は長い様な短い時間だった。9月に入ってもう二日、時間が経つのは真に早い。あと半月ばかり存分にこの北の大地の歴史を知り、頭を悩ましながら帰途に就くことにしたい。そのようなことを思いながら洞爺湖町の道の駅の朝を迎えたのだった。
朝の歩きには付近の農道を1時間ばかり往復した。今朝は雲一つない快晴で、気温も15℃くらいになっていて、もはや秋だなと思わせる天気だった。この辺りは畑が多くて、大豆や小豆それに山芋やビ-ツ等が栽培されているのが目立った。目前に羊蹄山が聳え立ち、左方にはニセコアンヌプリ等が並び立ち、なかなかの展望だった。目立つのはサミットの開かれた山頂に建つホテルの白い建物だった。このような見知らぬ大地を早朝に散策出来るなんて何という幸せなことだろう。改めて自分の70年以上の来し方を振り返り、現在という時点の意味合いを噛みしめる気持となった。そのまま車に戻って、別の現実に戻る。
さて、今日は残っている渡島エリアの郷土館等を巡る予定で、先ずは長万部から開始しようと考えている。豊浦町も訪ねたいのだが、今日は日曜なので開館されているか判りにくい情報しかないので、後回しにすることにした。久しぶりに太平洋を見たりしながら、10時少し前に長万部の町民センターの中にある郷土資料室に着く。ここは日曜でも開館されていたが、訪問者は自分たち以外にはいないようで静まり返っていた。早速中に入って見学を開始する。渡島、檜山エリアの市町村はどこも松前藩支配の影響を強く受けており、明治となる前から交易、開拓等が開始されていることが解るのだが、この地も又ユーラップ(=遊楽部)場とかオシャマンベ場と呼ばれた場所で、運上屋等も開かれていたことを知った。江戸時代からの交通の要所であり、それは明治以降も現在でも、例えば鉄道にしても道路にしても、ここを起点として小樽や札幌に向かう道と、噴火湾を室蘭、苫小牧を経由して札幌に向かう道とがあり、重要な役割を果たして来ていることが解る。アイヌの人たちとの交易も盛んだったけど、関係は悪化し、シャクシャインの反乱を引き起こすという事件もあった。年表にはかなり詳しく様々な出来事が記載されており、まだそれらをしっかり確認出来ていないので、この町の来し方については漠然とした状況にある。いずれ改めて整理することにしている。
そのあとは隣の八雲町の郷土資料館へ。30分ほどで到着する。ここは独立した資料館で、展示内容も充実していて解りやすかった。八雲町はアイヌ地名由来の町の名ではなく、尾張徳川家の殿様が名付けた町だという。明治になって家臣たちの困窮を救うために殿様が北海道の開拓先の調査を命じ、往時ユーラップと呼ばれたこの地の開拓を決め、入植させたということである。その他斗南藩の会津の人たちや福井の大野藩などの係わりもあったようだが、一番力開拓のとなっているのはやはり尾張藩ということであった。しかし、殿様は一度もこの八雲の地を訪れたことは無かったというから、北海道の開拓というのは、現代の感覚ではなかなか理解するのは難しいなと思ったりした。この町についても追って自分なりにその来し方をまとめてみたい。
それから付け加えるとすれば、北海道のお土産として木彫りの熊が有名だが、あの木彫りはこの地が発祥だったというのは意外だった。もっと奥深い山地など、如何にも熊がいそうな場所でアイヌの人たちが始めたのではないかと考えていたのは、大間違いで、大正時代に農村工芸に係わる品評会(農村美術工芸品評会)をこの地で開催したのが、この木彫りの熊が現れた始まりだったとのこと。面白いなと思った。他に鉱山等もあったということで、多くの歴史の出来事に富んだ町なのだということを知った。
さて、そのあとなのだが、昼前に八雲の見学が終わったので、この後は予定では森町に行って郷土館を見たあとは、早めに休むことを考えていたのだが、思ったよりも順調に進んだので、思い切って函館まで足を延ばし、函館の博物館も訪ねておこうと決めたのだった。というのも、明日は月曜日で多くの博物館や資料館が休みとなるため、1日空けなくてはならなくなり、加えて明後日以降は台風の影響が強くなるので、可能な限り道南エリアを避けて安全な場所に避難しておきたいという考えもあって、大場所である函館を先に見ておこうと思ったからなんだった。ということで、森町の郷土館はパスして、函館に向かうことにした。
途中食事を済ませた後、函館に向かって車を走らせ、市内に入って函館山の麓にある青柳町の公園の中にある博物館に着いたのは13時半頃だった。駐車場が見つからず、ようやく見つけた駐車場はどこも満車で、仕方なく違反とはならないであろう場所に車を止め、そのあと急坂だらけの公園内の道を上って、ようやく博物館の建物に辿り着いたのだった。しかし、邦子どのが受付で館内に函館市の開拓の歴史に係わる展示・解説はないのかを確認したところ、無いという返事だった。函館は明治以前の昔から和人が住んでいた場所で、他の場所とは違うのだというような話だった。従って、他と同じような開拓の歴史等に係わる常設展はしていないとのこと。縄文遺跡やアイヌの人たちの暮らしぶり、自然環境と動物たち等の展示などが中心らしいので、入るのは止めて戻ることにした。博物館はかなり古い建物のようで、何しろ坂に造られた公園の上部にあるので、この博物館の存在も何だかとってつけた感じがしてあまりいい気分にはなれなかった。この函館の地については、別の切り口からアプローチしなければダメだなと思いながら車に戻る。
まだ14時を過ぎたばかりで時間があるので、隣の北斗市の郷土資料館を訪ねてみることにして向かう。15時少し前について、開館されているのか少し不安だったが、大丈夫だった。それから1時間ほど写真を撮りながらじっくり見学をする。この町は大野町と上磯町とが平成の大合併で北斗市となったので、年表には元の両町を分けての出来事が詳しく掲載されて展示されていた。年表を辿ると、函館も長万部も八雲も木古内も皆含まれて同じ時代を辿って来ていることが良く解り、函館のことも博物館などを見なくても容易に想像出来る気がした。
学芸員の方なのか、解説して下さった方は縄文土器や茂別舘等の発掘に直接係わっておられて、舘跡の発掘では青磁などの茶器が数多く出て来たと話されていた。この地辺りまでは、明治となるかなり前から津軽の十三湊とつながる交易・交流が盛んであり、和人の定住者もいたということなのであろう。米作りについても1692年に松前藩の命により野田某という人が米の試作をしたという記録があり、これを持って北海道の水田の発祥の地となっていると書かれていたが、今まで幾つか見てきた、その地での米作り発祥の地という記念碑や案内板の中では、この地が一番古い年代だなと思った。条件的に恵まれていたのであろうから、その通りではないのかと思った。今日の最後はとても満足した気分で見学を終えることが出来て、気持が明るくなった。
そのあとは、今日の泊りは、この辺りに来るといつも泊ることにしている大沼公園の中にある東大沼キャンプ場にすることにして向かう。途中山川牧場に寄り邦子どの用のヨーグルトなどを購入してキャンプ場に着いたのは17時少し前だった。思ったよりも多くの車が泊っており、テントも数が多かったのは意外だった。最後の夏を楽しもうと道内近所の愛好者がやって来ているのだろうと思った。ここはトラックなど入って来ることは無く、安心して静かな夜を送る。
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