山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

越後・信濃路の旅:第6日

2016-11-15 06:57:25 | くるま旅くらしの話

第6日<10月20日:木> 天気: 晴れ

 <行程>

  道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里 →(K57)→ 安曇野IC →(長野道・信越道)→ 須坂長野東IC →(R403他)→ 小布施市街散策 →(K)→ 道の駅:オアシスおぶせ[長野県上高井郡小布施町] →(K・R403・R406・R18)→ 松代城跡探訪[長野市松代町] →(K・R18他)→ 上田城址探訪[上田市二の丸] →(R18・R141他 → 道の駅:みまき[東御市御牧](泊) 走行145km

 <レポート>

 活性化の道の駅(=アルプス安曇野ほりがねの里)

今朝の安曇野の朝は、アルプスの山から下りてくるのか、霧が盆地の全体を覆って、神秘的な雰囲気だった。このような日は、この地ならば、やがて晴れて来るのだろうなと思った。その予想は違わず、8時頃になると次第に霧も雲も少なくなり始めた。

 信州を旅する時には、この道の駅に必ずと言ってよいほど立ち寄ったり泊ったりしている。特に秋の季節は泊ることが多い。その理由は、泊って見れば多くの方が気づくはずなのだが、新鮮な野菜を初め、この地区で作られている様々な農産物を手に入れることができるのである。特に野菜や果物類は新鮮で安価であり、安曇野の豊かさを満喫できるのだ。

 全国には現在1,079箇所もの道の駅が点在しているけど、自分たちはその9割くらいは、立ち寄ったり泊ったり、何らかの形でお世話になっている。くるま旅の人の中には、全国の道の駅巡りをされている人もおられると聞く。自分たちの場合は、他に目的があるので、この後も100%道の駅を訪れるということはないのだと思う。

 さて、その道の駅なのだが、各地を回って様々なその実態に触れていると、どうしても比べてしまうことになって、その良し悪しを感じてしまうのだ。冴えない雰囲気の道の駅もあれば、活気あふれる道の駅もある。道の駅といえば、国交省の旗振りで①車利用者の休憩機能②地域の情報発信機能③地域の連携機能、という3つの働きを目的として市町村が設置するものなのだが、その経営は多くは第3セクターのような機関が担っているようである。

 旅をしていると、これらの道の駅には大きな格差があることに気がつく。来訪者も多く、開店前の売店に列を為す道の駅もあれば、来客の殆どがトイレ休憩に立ち寄るだけというような道の駅もある。それらは地域の立地・環境条件に大きく左右されるのは当然なのだが、経営の在り方が道の駅の活性化に大きく係わることも大きいように思う。前掲の①②の機能の発揮は、基本的にどの道の駅でも同じようなものだが、③については差が大きい様に思う。活性化しているなと感ずる道の駅の多くは、道の駅を設置した自治体が、地域振興のために地元の各種産業の生産物販売の仕組みを巧みに構築しているようだ。生産者の意欲とつながらない物品を販売するだけでは、道の駅に多くの人が集まり賑わう筈がない。特に農産品に関しては、野菜や魚類等の生鮮食材は、生産から納入、販売に至る仕組みが細部を含めてしっかり出来ていないと、腰砕けになってしまう。要するに知恵の働いていない道の駅は、ただの休憩機能と情報発信機能の発揮だけに留まり、地元への利益還元は少ないものとなってしまうというわけである。

 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里は、活性化されている道の駅の一つだと思う。ここは農産物とその加工品が中心なのだが、生産者の意欲が様々な商品に表われているのを感ずるのである。良い商品をリーズナブルな価格で提供するという考え方が、自分たちのような消費購買者にも伝わってくるのである。いつ来ても8時半の販売所の開店時刻前に、10名以上を超える買い手が並んでいる。中に入れば人々は先を争って新鮮な野菜を買い求め、更に気に行った加工品を買い求めている。

     

道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里の朝の風景。8時半の開店前の時刻にはいつも大勢の人たちの行列ができている。

 今回は、自分たちはセロリやレタスなどが欲しいと探したのだが、どの棚にも見ることができず、天候不順の影響の甚大さを感じたのだった。今年の青物野菜の、その被害は相当に深刻だなと思った。

我が守谷市にも道の駅が出来たらいいなと願っている。守谷市は大都市東京をすぐ傍に控えた交通アクセス抜群の優位性を持っており、又何でもできるという農業生産地も豊富に存在している。全国に類のない道の駅の誕生が可能なのだと密かに思っているのだけど、行政に働きかけても未だその動きは皆無である。

 小布施の町並みを歩く 

長野県と青森県はリンゴの2大産地である。長野県にはリンゴ街道というのがあって、これは長野市東部を通る国道18号線がそれに該当するらしいけど、小布施はその入口辺りに位置する町である。小布施といえば、一般的には栗おこわに代表される、栗を使った食品や菓子類のある町として、又葛飾北斎美術館に代表される古い財産の残る町としても人気を博している町である。

 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里を出た後、小布施に向かったのは、今回の旅の大きな目的の一つである、孫たちにリンゴを食べさせたいというジジババの願いを実現させるためなのだ。安曇野の堀金からは少し遠いので、先ずは高速道を利用することにした。今回の旅では2回目であり、長野道の安曇野ICから入り、上信越道の須坂長野東ICで下り、R403を少し走ると小布施の町中に到着した。1時間と少しで着いたのだが、リンゴの前に町中を散策しようと駐車場を探したのだが、平日なのに観光客が多いようで、いつもの場所は満車に近くて、なかなか適当な場所が見つからず留るまでに時間がかかった。

 小布施の町は重伝建指定エリアがあり、僅かながら昔が残っている。何年か前に「セーラーが町にやって来た」という本が評判になり、それを読んだことがある。元々何の変哲もない少し古さの残るこの町にやって来たアメリカからの留学生だったセーラーという若い女性が、地元の古い酒蔵を改築し、新しい風をこの町に吹き込んだという話だった。とてもアイデアに富んだ活発な女性のようだった。長野オリンピックなどのチャンスもあって、彼女を中心にこの町は古さを宝として大きく生まれ変わったのだと聞いている。地元の人間には気づかないものを鋭くとらえ、それをアイデアに替えて、行動に移すというパワーは日本人にはなかなかできないことなのかもしれない。現在セーラーさんがどうなっているのかは知る由もないけど、彼女の残したものは生き続けているよう思う。でも、以前(10年ほど前)と比べて、心なしか小布施の町は特定の場所を除いては少し活気が少なくなっているような感じがした。

 このような観光地を訪れた時は、いつも家内とは別行動となる。お互いに何を見たいかは別々のものなので、一緒の行動は却って不満が溜まるのである。家内は今日の最大の目的が栗おこわを手に入れることなので、その前に主な観光スポットを訪ねていたようだった。自分は、観光地の外枠を歩くのが好きで、少し離れたお寺や農園などを散策しながら、これらのエリアがメインの場所とどのように関わっているのかなどを想ったりした。1時間ほどぶらぶらした後車に戻る。

 そのあとは家内が手に入れた栗おこわで昼食とすることにして、道の駅のある高速道小布施SAの方へ移動する。このSAは道の駅と一緒のハイウエイオアシスとなっており、ここへ行けばリンゴを手に入れることが出来るのである。長野のリンゴ街道は、小布施ではなくもっと北のR18にあり、そこへ行けば道の両側にリンゴ農家の即売場がずらりと並んでいるのだが、行くまでには時間がかかるし、又リンゴ農家が全ての品種を扱っているわけではないので、多くが集まるこのような場所の方が都合が良いのである。

昼食の後、リンゴ売り場を覗く。大小様々な品種のリンゴが数多く並んでいた。この頃はリンゴの品種もかなり増えて、いつの間にか有名品種が消え去ったりしている。何を選ぶか迷いながらも、孫たちが喜びそうなものを何種類か買い入れた。家内はジャム用にと昔からの品種の紅玉を買入れていた。酸味の多い紅玉は、自分の昔からの愛好品であり、あとで1個食べさせて貰おうと思った。リンゴやミカンなどの果糖類は、糖尿病に悪い影響を及ぼすので、この頃は敬遠せざるを得なくなっている。このような機会がなければ普段なかなかリンゴを食べる機会のない老人なのだ。恐らく今年は、その1個が全てとなるのかもしれない。リンゴは食べるよりも香りの方がいいな、などと思いながら、小布施の道の駅を後にした。

 松代城跡を訪ねる

小布施を出た後は、比較的近くにある真田一族で徳川側について生き残った真田信之の2番目の居城で、その後江戸時代を通して真田家の住まいとなった松代城跡を訪ねる。40分ほどで到着。この城は元々は武田信玄と上杉謙信が川中島で数度にわたって闘った時代に、武田側が拠点とした海津城のあった所で、それを藩祖となった信之が松代城として整備したものである。昔から真田一族については興味関心があり、小学生の頃に真田十勇士の話の本を読んだり、そのあとでは池波正太郎先生の大著「真田太平記」を読んだりしている。今年は大河ドラマとして「真田丸」が放映中だが、それに刺激されての今回の城跡巡りとなった。

 信州松代城といえば、恩田木工の「日暮硯」を思い出す。恩田木工は、真田藩の家老で、真田家6代藩主の幸弘に仕えた。真田藩は財政に困窮しており、家臣の知行や俸禄の半知借り上げなどの厳しい状況が続いていた。その中で賄賂が横行するなど、藩内の風紀も乱れて、武士や農民などの反発もあって、一揆などの危うい事態が頻発していた。これを公平を元とした倹約令等により、安定した治世に導いたといわれるのが恩田木工という人物で、その考えや振る舞いを後世の者が記したのが、「日暮硯」である。この本は現代にも通ずるものがあり、自分も仕事の中で活用させて頂いた思い出がある。現地では、この本を「ひぐらしすずり」ではなく「ひもうかがみ」と読んでいると、長野出身の知人から聞いたのを思い出す。

 そのようなこともあって、松代城がどのようなものだったのかを見るのを楽しみにしていた。行ってみた松代城は、他の城とはかなり変わっていた。この辺りの地形が昔はどうだったのかを推測するのは難しいけど、言えるのは千曲川という河川を巧みに利用した、攻めの拠点ではなかったか。防塁などには大して力を入れているとは思えず、恐らく世が落ち着いてから現在の城郭の基盤が固まったのではないかと思った。武田信玄いう人は野心家でもあったから、戦で城に閉じこもるような事態を重視するよりも、攻めることを重視したのではないかと思うのである。

     

信州松代城祉の景観。平地の四辺に堀を掘った中に城郭が造られている。その昔は城のすぐ傍を千曲川が流れていたという。これは太鼓門という入口からの写真だが、建物などは皆新しいもののようだ。

 松代藩というのは、10万石程度の藩であり、恩田木工の倹約令が藩を豊かにしたというのではなく、その後も厳しい経済状態が続いたに違いない。それは今現在のこの辺りの町の様子からも窺える様に思った。山裾に広がる領地はそれほど広いとも思えず、千曲川は氾濫の多い川だったと思うから、米以外に特段の産業がなかったとすれば、なかなかに難しい藩の経営だった様に思う。川の氾濫のため、殿様の住まいは城郭の中ではなく、少し離れた所に設けられていたという。殿様といえども、質素倹約のつましい暮らしをしていたに違いない。城郭の跡地には門くらいしか残っていなかった。大河ドラマに登場していなかったら、この地に観光バスなどがやってくるのは珍しかったのではないかとも思った。

 上田城跡を訪ねる

松代城を出た後は、もう一つの上田城址に向かう。上田城も徳川幕府が誕生した後の初代藩主は真田信之がつとめている。この城はもともと真田家にゆかりの深い城だった。天下分け目の関ヶ原の戦の際に、謀将と言われた真田昌幸と真田幸村がこの城を守って、徳川軍を破り苦い酒を飲ませた場所でもある。結果的には豊臣方が破れて、天下は徳川のものとなった。昌幸と幸村は紀州の高野山近くの九度山に閉塞され、昌幸はそこで逝去。後に大阪夏・冬の陣で幸村がその息子の大助共々活躍し、真田の名を世に轟かせしめたという話である。

真田といえば幸村という名が直ぐに浮かぶほどだが、現実の世の中を見た場合は、自分は真田家の中にあっては、信之こそが正統をしっかり守り切った優れた人物ではないかと思っている。後世の作り話は、弱きを助け強気を挫くという者を贔屓としているけど、それは歴史の結果論であって、現実はかなり異なっていたに違いない。真田信之という人は、やがて上田から松代に移封となるのだけれど、いずれの地においても良き治世に努め、93歳の長寿を全うしている。この時代にあっては、真に優れた人物だったに違いない。

 さて、その上田城だが、訪れて見ると、これはもう先ほどの松代とは違って、数段規模の大きな城だった。松代城は川辺の平地に造られていたが、ここは城の周辺の山や崖、それに川を利用してスケール大きく、巧みに造られているのが判る。名胡桃(なぐるみ)城を数倍大きくして、脇に千曲川を侍らせたかの如き築城だった。これでは倍以上の敵が襲来しても簡単には落されなかったに違いない。様々な仕掛けが工夫されていたのであろう。いざという時は城から外へ逃れる井戸などが残っていて、謀将というか知将というべきなのか、真田昌幸やその子信繁(=幸村)の思いなどが彷彿と湧いてくるのを覚えた。

     

真田のメイン拠点だった上田城本丸の景観。建物はさほど大きくはないけど、この城自体の構築の規模は大きいと思った。築城に当たって様々な仕掛けや策を講ずるには最適の地勢にある様に思った。

 現在の城跡は、信之の後に城主となった仙石秀久に拠るものとの解説資料があったが、自分的にはここに最初に城を築いた真田昌幸や幸村などの野望の大きさを想った。守りにも攻めにも心を砕いているのが良く解る地形の選択であり、又築城だったと思う。明治の城の破却からいろいろな経緯があって、現在は西・南・北の三棟の櫓が残っているけど、当初から移築を逃れて残っているのは西櫓のみだとか。ちょうど今それが公開されており、中に入ったのだが、自分には建築のことは殆ど分からず、興味関心のある家内はかなりの長時間ボランティアの方と何かを話し合っていた。

     

城の下方にある駐車場から見た、上田城本丸の西櫓の景観。この櫓の右手の方に本丸の城郭が建てられている。

     

城内西櫓の手前にある真田神社。真田一族が祀られている。この神社の裏手の方に、いざという時の抜け穴だったという真田井戸などがある。

 メインの駐車場が城の下にあるのを知らず、案内板に従って上部の方にある駐車場に車を入れたのだが、あとで下方にかなり広い駐車場があるのを知り、そこへ寄って見た。下から見上げる上田城址は上に居る時とはまた違った趣があり、より一層厳しい城塞であったとの印象を強めたのだった。

コメント
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