山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

越後・信濃路の旅:第5日

2016-11-14 03:25:03 | くるま旅くらしの話

第5日<10月19日:水> 天気:曇り後晴れ

 <行程>

道の駅:ぽかぽかランド美麻 →(K31・R147・K306)→ 道の駅:安曇野松川 [長野県北安曇郡松川村]→(R147・R19)→ 松本城散策[松本市丸の内] →(R19他)→ 道の駅:奈良井木曽の大橋[塩尻市奈良井] → 奈良井宿散策 →(R19・R147他)→ 道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里[安曇野市堀金烏川](泊)  走行144km

 <レポート>

 信州の山村の情景(元美麻村)

美麻村は合併して今は大町市となっている。しかし、ここはやっぱり美麻村であって、大町市ではない様な気がする。それは戸隠村もそうだし、鬼無里村もやはり同じなのだ。行政の都合上は止むを得ないのかもしれないけど、昔の地名が消えてしまうことだけは是非とも守って欲しいなと思う。合併でわけのわからない名前の市や町が生まれることは、そこに住んで村や町を育てて来たご先祖様に対する重大な冒涜行為のような気がするのだ。新しい土地の名称をつくるのは、現在を生きる者の特権なのかもしれないけど、歴史に係わるものを訪ねて旅をするようになってからは、その思いは強まるばかりである。

 朝少し早く起き出し、道の駅の周辺を1時間ばかり散策した。土尻川という川がすぐ傍を流れており、この川に沿って民家が点在している。民家の庭には色づいた柿の実が鮮やかなのだが、どの柿の木も葉は紅葉などとは無関係の逞しい真っ青な現役色で、此処が奈良ならば、柿の葉寿司用として使えるほどのものなのが不思議に思えた。秋の風物の柿の木といえば、橙色の実をびっしりつけた葉の殆ど残っていない姿を思い浮かべるのだけど、今の信州のこの季節のそれは、全く違っているのである。それは、この地の秋が、間もなく一気に深まるのだということを語っているのかもしれない。そんなことを想いながら歩いていると、民家の庭には何と笊の中に、採って来たばかりの栗の実が干されているのを見つけ、驚かされた。守谷などでは、栗はもう1ヶ月以上も前に収穫が終わって消え去っているのに、この地ではまだ残っているのだ。そういえば、先日信濃の道の駅で見つけたトウキビも同じ感慨に捉われたのを思い出す。この辺りでは季節がゆっくりと動き、時に一気に速まるという時間の流れなのであろうか。

     

民家の軒下に干されていた栗の実。この地の時間はゆっくりと流れていることの証明のように見えた。

しばらく歩いていると、大きな古民家が保存されているのに気づいた。傍に行って見ると、旧中村家住宅二棟とあり、村の文化財として保存されているようだった。母屋は寄せ棟造り茅葺屋根、建坪が84坪(約278㎡)もある堂々たる建物で、その脇の方に移設されたという蔵があった。これも茅葺で24坪(約80㎡)の大きさで、屋根の下が空いているちょっと変わった造りの蔵だった。母屋は元禄11年(1698年)土蔵は安永9年(1780年)というから、いずれも200年以上を経過している建物である。土蔵が少し変わった造りとなっているのは、この地は江戸の昔から麻の栽培が盛んであり、それを貯蔵する蔵として建てられたため、上部が空間となっているらしい。そういえば、この村の名前は美麻であり、往時はこの辺一帯は麻の栽培が盛んだったのであろう。中村家はその中心に居たのかもしれない。しかし、現在はこの地に麻などどこにも見当たらない。それは近年になって麻の栽培が麻薬との係わりがあるため、禁止となったからなのだという。昔は衣類や用具などとして用いられていた麻が、今の時代には危険な薬品として用いられるという。これは、人間の愚かな進歩?の犠牲なのだなと思ったりした。

     

元美麻村の重要文化財指定の旧中村家住宅の偉容。いかにも信州らしさの漂う雰囲気がある。

散歩の途中には、石に刻まれた道祖神や仏様などを随所で見かけることが出来て、ああ、此処には未だ幾つもの信州の山地の姿が素朴な形で残っているのだなあと、何故か安堵したのだった。

 国宝松本城を訪ねる

美麻を出た後は、今日のメインの探訪先の松本城に向かう。しばらく山の中の道を走って、間もなく安曇野の平野に出る。途中大町市の隣にある松川村の道の駅:安曇野松川に寄ったが、ここには「男性長寿日本一の村との看板があった。82.2才だという。アルプスを眺めながら、豊かな気持ちで暮らしていると、長生きが出来るということなのだろうなと納得した。

 松本城は随分昔に一度訪ねたことがある。もう50年近くも前の話であろうか。黒っぽい均整のとれた城だったなという記憶がかすかに残っている。その時も国宝となっていたのか、よく判らないけど、国宝としての評判を高めている今の時代に、もういちどその城を見ておきたいという気持が強まっていたのである。松本市付近は何度も来ているのだけど、何時も通過するばかりだったので、今回の旅では、ちょうどいい機会なので、是非ともと予定に入れたのである。

 松本城は街の中心部に位置している。そのような場所を訪ねる時は、いつも駐車場に悩まされるのだが、行って見るとこれはもう何の心配も無かった。車を駐車場に置き、早速松本城へ。堀の脇の道をしばらく歩いて、入場口のある橋を渡る。ここまでの間の城の姿は、きりっとした惚れ惚れするほど男前の感じがした。妙な言い方だけど、城は女性的ではなく男性的なのだが、それがさすが国宝に相応しい雄姿だった。50年ほど前よりも一段とそれが際立っている感じがしたのは、自分の方がより早いスピードで老化が進んでいるということなのかもしれない。この頃は何かにつけて老化が気になっている。

     

国宝松本城の雄姿。これは城の外側から撮ったもの。この城はどこから撮っても、誰が撮っても絵姿になる貫録を持っている。

入口で入場料を払い、今日は天守閣に上るつもりでいる。外国からの観光客も多く見られて、やはりこの城は姫路城などと並んで、日本を代表する一つなのだというのを実感した。入口の傍にこの城の保存に際して功績のあった二人の人物が紹介されていた。一人は松本中学の校長先生を努められた小林有也という方、もう一人は市川量造という方で、お二人とも壊されるべき運命にあった天守閣の買い戻しと保存に奔走、尽力されたとのこと。明治初めの城の破却は、このような方たちのご尽力がなかったなら、今日は無かったのである。廃仏毀釈も愚行だけど、城の破却も又それに引けを取らないように思われるのは、今に生きるものだからなのであろうか。又、その反対側の方に「宇宙ツツジ」という紹介のある、既に花を終えたツツジの一株があった。女性宇宙飛行士第1号の向井千秋さんと一緒に宇宙を旅したツツジだとのこと。松本市は花いっぱい運動の発祥の地だとも書かれていた。どのような花が咲くのか、春になったら来て、それを見たいものだなと思った、

 中庭からの城閣の眺めも威風堂々と言った感じで、風格を感じさせるものだった。そのあと城の中に入り、幾つもの階段を登って、天守閣まで上がる。城の中というのは、多くの城が住まいとしてあるのではなく、戦のための攻防の拠点としてつくられているので、一種の倉庫(主に武器庫)として使われて何時スペースが多いようで、他の城と比べてそれほど変わった有様ではないように思えた。天守閣の窓からの景観は、高さが30m近くもあるので、これはもう城下の一帯が一望できる良い眺めだった。江戸の昔であれば、際立った高さだったに違いない。西の方角には北アルプスの高い山々が連なり、東の目前には2000m級の美ヶ原高原の山塊が迫っていて、季節を通じて山々の持つ壮大な気宇感を味わうことが出来るのだろうなと思った。そのあとは階段を慎重に下りて再び庭園に出る。この城の中は、市内の小学生の子どもたちが、ボランティアで胡桃(くるみ)の粉を入れた袋で磨いているとかで、ピカピカに光っていて、その分滑りやすいのである。でも、子供たちが郷土を愛する心を養う上では、とても大切なイベントだなと思った。

     

  こちらは城の内苑に入ってから撮った、有料の写真である。外側からのとは少し違った様子が分かる。   

 庭に出た後は、もう一度振り返りながら、城の威容を何度も確認した。やはり城の内部などよりも外からの眺めの方が美しさを感ずることが出来る。その後、近くにある博物館を訪れてこの地方の歴史や暮らしの在り様などについての資料等を観覧したりした。最後にもう一度堀の横道を通りながら城郭の雄姿を目に収めて松本城を後にする。

 奈良井宿のこと

松本城の観覧を終えて車に戻ったのは14時20分頃だった。この日の予定はもう特になく、近くの道の駅に行き泊るだけである。少し早いかなと思っていたら、家内が奈良井の宿まで行きたいという。お六櫛を買いたいとのこと。髪の毛なんぞロクに残っていない自分には、何の興味も無い話なのだが、彼女の場合は女性なので、これはもう別の話なのであろう。中山道奈良井の宿までは、松本からは1時間と少しで到達できる距離である。それじゃあ、行くことにするかとナビを設定する。もし遅くなったら、奈良井に泊っても良いのだ。この宿場町には、ありがたいことに道の駅があるのである。

ということで、松本から塩尻を通って、R19を南下して奈良井の道の駅についたのは、15時半過ぎだった。途中塩尻市内には渋滞があり、少し時間がかかった。もう日が沈む時刻が早やまって来ており、15時半を過ぎると、東西を山の壁に塞がれた中山道の宿場町は、夕暮れが間近いことを予感させる。櫛の販売店が開いているか心配だったが、これは大丈夫だったので安堵した。

お六櫛の方は家内に任せて、久しぶりに宿場町の通りの中をぶらぶらと歩いた。奈良井宿には何度も来ている。ここの宿場の特徴といえば、馬篭や妻籠野宿には無い、水場があるということか。江戸の昔は奈良井千軒と呼ばれるほど賑わった宿場町であり、旅人の喉を潤すために山から湧く水を引いた水場と呼ぶ井戸が用意されているのである。初めて訪れた時は、ああ、優れた宿場町だったのだなと、その美味い水を飲みながら感動したのを思い出す。その水場は、町内ごとなのか何箇所かあって、今日も清冽な水が流れ続けていた。

宿場の通りに櫛比する店々は、今は宿をしているのは少なく、多くは土産物などを販売しているようである。ここは国指定の文化財である重要伝統的建築物保存地区であり、江戸からの面影をそのまま今に残すような雰囲気があり、人出の少ない日の夕方近くには、それが一層強まるのを感じた。あまりにも観光客が多過ぎると、昔がどこかに吹き飛んでしまうような気がして、このような平日の時間帯の方が、より昔を偲べるのだなと思った。

     

早や黄昏が迫りつつある奈良井宿の通りの様子。中山道の宿場町は山に囲まれて、同じような風景が多い。観光客もほとんどなく、ただ静かな時が流れていた。

家内の方は何やらお店の人と話し込んでいるようで、30分を過ぎても終わる様子もない。お六櫛というのは、この地の山に産するミネバリという硬い木質の木を、職人さんが手づくりで作るもので、この地では昔から有名である。その由来というのには、次のような話が伝わっているとか。

「元禄年間(1688年~1704年)、持病の頭痛に悩んでいた村娘のお六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、お告げがあり、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいとのこと。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治ったという。以来、ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという。」

ミネバリの木というのはカバノキ科の落葉高木で、日本産の樹木の中ではイスノキの芯材に次いで硬い木で、別名オノオレ(斧折れ)カンバとも呼ばれているとか。家内が頭痛持ちだとは聞いていないけど、その昔から多くの女性に愛され使われてきた櫛には関心があるのであろう。この櫛は皇室などの祭礼にも使われているとか。辺りが暗くなり始めた頃にようやく話が終わって、満足顔が店の外に出て来た。

泊りをどうするかしばし惑ったが、明日のこともあるので、少し遅くなっても予定通り安曇野の道の駅:アルプス安曇野ほりがねの里に行って泊ることにした。黄昏の迫った宿場町は、人通りも無く既に眠りの準備が終了したかのように静かだった。予定外のはみ出し訪問だったけど、昔を訪ねることが出来たいい時間だった。

コメント
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