山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

越後・信濃路の旅:第7日

2016-11-16 10:51:05 | くるま旅くらしの話

第7日<10月21日:金> 天気: 晴れ

 <行程>

道の駅:みまき →(K)→ 布引観音参詣[小諸市大久保] →(K・R141)→小諸宿・小諸城址懐古園散策[小諸市丁] →(R141・R18・R146・R145)→ 道の駅:八ッ場ふるさと館[群馬県吾妻郡長野原町] →(R145)→ 道の駅:あがつま峡[群馬県吾妻郡東吾妻町] (泊)  走行68km

 <レポート>

 布引観音を訪ねる

旅も終りに近づいている。今日は先ず、直ぐ近くにある布引観音(布引山釈尊寺)を訪ねるつもりでいる。この道の駅には何回か泊っているのだけど、近くに布引観音があるのは知っていても未だ行ったことがなかった。良く牛にひかれて善光寺参りということばを聞くけど、それが何に由来しているのかをきちんと知っている人は少ないように思う。布引観音は、その善光寺参りに深く係わるお寺なのである。

 その牛にひかれて善光寺参りのいわれというのは、次のようなことらしい。参道の入り口に小諸市の掲げる詳しい説明板があった。

「昔、信心のうすい老婆が住んでおりました。この老婆が千曲川で布を晒しておりますと、どこからともなく一頭の牛が現れ、その布を角にかけて走り出しました。老婆は驚いて、野を越え、山越え、牛の後を追いかけましたが、ふと気がついてみますと、善光寺の境内まで来ておりました。老婆は、やっとのことで牛に追いついたのかと思ったのもつかの間、牛は金堂のあたりで姿を消してしまったのではありませんか。驚きと悲しみに疲れ果てた老婆は、あっけにとられてその場にたたずんでしまいました。日も暮れる頃、どこからともなく一条の光明がさし、その霊光の尊さに思わずひざまずいて、菩提心を起こし、一夜を金堂にこもって罪悪を詫び家に帰ってまいりました。ある日のこと、ふと布引山を仰ぎ見ますと、岩角にあの布が吹きつけられているではありませんか。老婆は何とかして取り戻したいと思いましたが、断崖絶壁のことで取るすべはありません。一心不乱に念じているうち、布と共に石と化してしまったということです。この布引山の断崖には、今も白く布の形をした岩肌が眺められます。布引観世音菩薩が、牛に化して信心うすい老婆を善光寺阿弥陀如来の許(もと)に導いて教化をしたのだそうです。この話は、信濃四大伝説の一つとして今に語り伝えられています。 小諸市」

 かなり長い説明内容だったが、一応全文を掲載することにした。良く読み考えると、何だか変だなと思う箇所が幾つかあるけど、まあ、それは措くこととしたい。

道の駅を出て10分足らずで布引観音下の駐車場に着いた。早い時間帯の所為か、参拝者は他にいないようだった。車を置いて早速参道へ。かなり急な坂道である。直ぐ上にお寺さんがあるのかと思って、歩き出したのだが、これがとんもない長い急崖を登る参道だったのである。

歩き始めると間もなく巨岩が現れ、それは馬岩と名付けられていた。しかしその形が馬なのかどうかは判らない。群盲象を撫でると同じですぐ傍からでは、ものの正体は判らないのである。とにかく巨岩の連続だった。また巨岩の間には、善光寺穴などというのがあり、この穴は善光寺とつながっているのだという。そんなことがあるわけがない、と考えるのは信心のない証拠なのだろうけど、科学的にはあり得ないことも、信心の世界では不可能はないのだろうなと思ったりした。

 なかなかお寺の建物が見えて来ない。急な坂道が続いているので、姿の見えなくなっている家内は大丈夫かと少し心配になった。しばらく待っていると、カメラを動かしているのが見えて来たので、安堵した。この人はカメラを抱えている時は、傍に被写体がある限りは別人パワーを発揮するのである。岩など撮ってもしょうがないのではと思ったりしたが、意外性のある写真も彼女の得意分野なので、何か気付いているのかもしれない。

更にに登って行くと少し古びた山門が現れ、その右手彼方の崖の上に朱色に輝くお堂が見えて来た。とんでもない崖の上に建てられており、その危険度は清水寺以上に思えた。少し上り歩いて、ようやくお寺の本堂に達した。布引山釈尊寺である。布引山という掲額が目立った。本堂自体はそれほど古さの感ぜられない建物だったが、その奥にある朱色の建物とその手前にある小さな社には古さを感じさせるものがあった。

     

布引山釈迦寺本堂の奥の方にある観音堂の景観。岸壁に張り付いたように建てられているその様子は独特の雰囲気がある。

何といってもここでは朱色の建物が印象深い。岩をくりぬいた参道を潜ってその朱色の建物に参詣する。これは宮殿(観音堂)というのが呼び名であり、国の重要文化財に指定されているとのこと。この宮殿の脇辺りに老婆の求めた布が引っ掛かっていたのであろうか。如何に信心が薄かったとはいえ、仏さまのいじわるも度を越しているのではないかなどと思ったりした。

宮殿に行く手前に古い小さな社が建っており、これは白山社というもので、室町時代の建立で今日に残るものだという。小さいので見落としがちだが、良く見れば、素朴だけどなかなかの貫禄ある建物だった。本物というのは、存外このような存在を言うのかもしれない。白山信仰のシンボルが何故ここにあるのかは解らない。

参詣を終えた後は、ゆっくりと参道を下って車に戻る。一つ気づいたことがある。それは、この布引山釈迦寺の上方に、御牧ケ原というのがあり、平安時代に朝廷直轄の官牧だったとのこと。朝廷に献上する馬を飼っていたという。そういえば昨日泊った道の駅は「みまき」という名前だった。みまきとは即ち御牧であり、現在の東御市は東部町と北御牧村が合併してできた市であり、それらはこの御牧ケ原に由来した地名なのだと思う。今その御牧ケ原はどうなっているのかは知らない。姿は変わり、名称だけが残っているのであろう。一つ勉強になった。

 小諸宿と小諸城址

 小諸市を訪ねるのは初めてのことである。勿論ここも名前は昔から知っており、何度も街中を通る道を通過しているのだけど、車を止めて町中を散策したことは一度も無かったのである。今回は街道を行くのも一つの目的だったので、北国街道の起点である小諸宿を少し歩いてみようと思った。小諸宿は中山道の追分から別れた北国街道第一番目の宿場町である。今でも多少は往時の姿を残しているのではないかと思った。

ということで、小諸の散策は先ずはJR小諸駅に行き、往古の宿場町の今の様子を訪ねて見ることにした。小諸駅はR小海線の終点だが、そこから先は上田の方に向かって、しなの鉄道が路線を経営している。この関係はよく解らない。

小諸駅の北口前から、上りの坂道通りを少し歩くと荒町という交差点に当り、その信号を左右に行く道が昔の北国街道だったということである。それでしばらく右手の方へ道なりに歩いてみることにした。所々に往時の様子を解説した説明板が設置されていた。しかし、現実の建造物からはその昔の宿場町の面影を偲ぶのは困難だった。車社会となっている今の世では往時の賑わいは消え去り、いわゆるシャッター通りと化しつつある危うさを覚えるのみだった。通りの中に創業300年を超える味噌など醸造業を営む店があり、そこで作られている味噌を購入した。信州味噌は有名だが、どこが本場なのかはよく知らない。あとで小諸宿の味を味わいたいと思った。

     

北国街道小諸宿の現在の様子。往時の面影を残すものはほとんど残っていないように思えた。

 ところで、小諸で思い出すのは、何といっても島崎藤村の、あの千曲川旅情の歌であろう。
「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ 
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし 
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ) 日に溶けて淡雪流る ‥‥‥」

若かりし頃に口ずさんだ詩であり、あの頃は小諸の古城とはどんな所なのだろうかと、想い描いたのを思い出す。藤村がどうして小諸なのかを良く知らなかったのだが、此処へ来て懐古園の脇の駐車場に車を置いて散策を開始して間もなく、公園の傍に「小諸義塾記念館」というのがあるのを知り、若き日の藤村がここへ教師として招かれていたのを知った。建物の脇に「惜別の歌」の石碑が建っていた。我が愛唱歌の一つである。

 懐古園というのは小諸城の跡地に造られた公園である。下方に千曲川を望む急崖があり、上田城に似たかなりスケールの大きな城だったようだ。徳川秀忠が大軍を引き連れて関ヶ原の戦いに参戦するために、上田城に拠る真田勢と戦った際の本隊が滞在したのがこの城だったとのこと。しかし、上田城を攻めた徳川勢は一敗地にまみれ、そのために関ヶ原の戦に遅れた秀忠は、家康の叱りを蒙ることとなった話は有名である。ま、この城が直接の戦場とはならなかったのは幸いだった。

 城に関わる残存の建物としては、門の遺構が二つ残っているだけだった。一つは懐古園の入口近くにある三の門と少し離れた場所にある大手門である。双方共に建物の方はそれほど古いようには思えず、見る目を変えて思いを膨らませないと往時はなかなか描きにくいなと思った。

     

小諸城三の門の景観。これは城址の入口にあって、やや目立つ存在だった。

     

小諸城大手門。これは懐古園からは少し離れた一般民家のの中に残っていた。移築されたのかどうかは分からない。

 懐古園の中に入る前に昼食に蕎麦でも食べようかと店に入って、オーダーをして出来上がるのを待っている時に事件が発生。家内が体調が悪いので食事は止めて休みたいと言い出す。どうやら布引山に続いて宿場町を歩き回ったので、体力の上限まで行ってしまったらしいのである。このようなことは間々起こることであり、致し方なし。蕎麦はキャンセルして、一人車に戻って休んで貰うことにした。最初から別行動であれば彼女もコントロールが出来るのであろうけど、今日の場合は成り行きから行ってやむを得ない。一人で美味い信州の蕎麦を食して、そのあとは懐古園に入るの止めて、一人城跡周辺をぶらぶらと歩き回った。懐古園は今度再訪した時にじっくりと散策するしようと決めた。小諸は半分も見聞していない場所となった。

八ッ場ダム周辺の中秋の表情

 小諸を出た後は、予定では佐久の方を経由して下仁田に抜けて明日には帰宅することにしているのだが、もう一日帰宅予定を延ばして,軽井沢から長野原町の方へ抜けて、新しく出来た道の駅:あがつま峡に泊り、翌日もう一度沼田城跡探訪にチャレンジしてから帰ろうということにした。家内の体調も一眠りした後では、かなり回復したようである。

 国道18号線から軽井沢で国道146号線に入り、山中の道を長野原町の方へ進む。軽井沢は長野県なのか群馬県なのか迷うことがある。いわゆる軽井沢町は長野県なのだが、北軽井沢といわれるエリアは長野原町に属し、これは群馬県なのである。そのようなことはどうでもいいことなのだが、なぜか気になるのは、子どもの頃から地図に関心があるからなのかもしれない。軽井沢の別荘地帯の脇の坂を上って行くと、次第に道脇の樹木たちの表情が変わり出した。途中で見事に高揚している山モミジやカエデの木を見つけて、しばらく車を止めて秋を味わう。尚走り続けてやがて長い下り坂となる。この辺りは高原野菜の産地でもあり、道脇に大根やキャベツなどの店があるのだが、今年は心なしかそれらの店が殆ど見られなかった。やはり天候異変の影響で、野菜類はこの地でも不作だったのであろうか。少しさびしい思いがした。

 間もなく八ッ場ダム建設予定地近くに至る。八ッ場ダムの建設については、いろいろな経緯があって、一時は中止となったかと思っていたのだが、どうやら工事を継続することになったようで、今も何やら作業が行われているようなのだが、その現場がどこにあるのかは知らないのである。それほどスケールの大きいダムなのかもしれない。数年前にこの近くに道の駅:八ッ場ふるさと館というのが造られており、何回か寄ったことがあるのだが、今回もそこを覗いて見ることにした。

 ところで「八ッ場」と書いて「やんば」と読むのは珍しいし、難しい。何故このような読み方、書き方をするのかは解らないけど、地名には今の感覚では不可解な場所に時々お目にかかる。北海道の場合は、殆どがアイヌの人たちが呼んでいた地名に当て字をしているので、これはもういい加減としか言いようがないけど、内地においては八ッ場は珍しい方ではないか。古来その土地では八ッ場に係わる何かがあったに違いないのだが、解らない。ダムの開発が決まって以来おなじみの呼称となっているので、今頃はあまり迷うことも無く読めるようになった。地名とはそのようなものなのかもしれない。

 ところで、この辺りは名勝吾妻渓谷の真ん中辺りに位置する。吾妻川が山々を縫って深い谷をつくって流れているのだが、昔は下から見上げた景色が、今は反対に上から見下ろすという形になっている。道の駅はそのような場所に造られており、景色を俯瞰する場所としても人気があるようだ。今はまだ紅葉が本格化していないので、所々の紅葉の樹木が目立つだけなのだが、もう少し過ぎるとこの辺りは全山紅葉が見事な場所だ。前回訪れた時は丁度その全山紅葉がまっ盛りだった。山全体が燃える色に染まった姿は、この年の一年の最後の締めくくりのような感じがして、何とも言えない感動が伝わってくる。一本の樹木の紅葉も美しいけど、山全体が紅葉している姿は美しさを通り越した大自然のパワーをも感じさせてくれる様な気がするのである。

 それにしても、八ッ場ダム工事を通じて、この辺りの道路環境は一変している。人間の力というのもバカにならないものだなと改めて思った。全山紅葉を味わうためには、もう一度年内にこの地を訪れる必要があるなと思った。

 この後、すぐ近くの、これはずっと下に降りた吾妻川のほとりに新しく造られた道の駅:あがつま峡に向かうことにした。

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