山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

置き去りか居座りか

2015-04-29 02:28:01 | 宵宵妄話

私の歩きは、早朝の日の出少し前に家を出るようにしていますので、冬期は6時過ぎ頃、夏期は4時半くらいが普通で、季節の移り変わりに合わせて出発の時刻も早くなったり遅くなったりしています。4月下旬の今ごろは、5時頃の出発となります。なぜ早朝かといえば、何よりも空気が落ち着いていて静かですし、邪魔が少ないからです。何しろ昼夜逆転の暮らしが身について以来、早起きという観念が無くなっており、物書きにつかれた時などは、歩きの時刻が来るのが待ち遠しいのです。

毎朝歩いていると季節の変化と一緒に様々な小鳥たちの鳴き声が耳に届いてきます。耳に届くのは鳥たちの鳴き声だけではなく、虫たちや風の音など様々ですが、やはり生きものが発するのが一番季節感があり、その中でもとりわけて小鳥たちの鳴き声が季節の微妙な変化を伝えてくれるような気がします。 

今ごろの季節は、小鳥たちのさえずりの一番賑やかな時で、どの鳥たちも精一杯の生命のさえずりを放っているようです。先ずこの地区で一番のものといえば、守谷市の市の鳥に指定されているコジュケイの「コッチャコイ」というやかましい鳴き声、それに地方訛りのウグイスたちの「ホケキョケ?」や「ホー、ゴインキョ」、或いはシジュウカラたちの張り上げる「ツッピー」の声の大きさ、などとなります。

勿論この他にもスズメやヒヨドリたちのいつもの賑やかさも届いてきますし、ツグミやムクドリ、或いは雉たちの一声の警戒心の表現も健在です。寝ぼけトーンのキジバトも随所で鳴いていますし、聞きたくも無いカラスの破壊的な大声も姦しく届きます。

それら様々な鳥たちの鳴き声を聴きながら歩いていると、ふと気付くことがあります。鳥たちの渡りや移動などの生態についての疑問です。沼地や川に見られた鴨やコハクチョウたちは、北の方を目指して既に飛び去って見られなくなっていますが、留鳥ではない筈の鳥たちが残っていたり、群れで暮らす筈の鳥がはぐれていたりするのを見かけるのです。この鳥たちは置き去りにされたのか?それとも自ら居残り、居座ったのか?という疑問です。

ヒヨドリやムクドリなどは渡りをするものと留鳥の両タイプがあるようなので、残っているとすれば留鳥の方なのでしょう。この頃はこの留鳥がかなり増えて来ている感じがします。ムクドリはあまり見かけませんが、ヒヨドリたちは時々庭へ押しかけて来て、せっかく咲き始めたブルーベリーやナツハゼの花を啄ばんだりしてしまいますので、大迷惑です。今年は既に防鳥ネットを設えて彼らの悪行(?)に備えることにしています。

この頃は渡り専門である筈のツグミが残っているのを見かけて、これはどういうことなのだろう?と首をかしげることがあります。それで、置き去りか?それとも居座りか?と思うわけです。置き去りというのは、勿論仲間からはぐれ外されて、気づかぬままに渡りのタイミングを失してしまったということであり、居座りの方は自ら仲間を離れて渡りを止めてしまったものをいうわけですが、私の思うところでは、後者の居座りの方が多いような気がします。簡単に言えば、渡りなどという危険で辛い移動の仕事はしたくも無いということになるのでしょう。毎年命懸けでそのような面倒なことをしなくても、暑さを何とか凌げば、ここに留まっていた方が餌も豊富に手に入れることができるし、ずーっと楽なのだから、ということなのでしょうか。

そもそも鳥たちが何故渡りをするのかということが、私には不可解なことですが、単に寒暑の問題だけではなく、餌の調達や繁殖のための環境など、その鳥たちにとっての大切な要件があるからなのだと思うのですが、それらを放棄してしまうというのはどういうことなのでしょうか。鳥たちも又安全で楽な道を常に求めているということなのでしょうか。疑問は増すばかりです。

それで、ふと思うのは、もしかしたら彼らは人間の真似をしているのではないか?という疑問です。というのも、人間ほど楽を求める動物はいないと思うからです。「最少のコストで最大の効果を」というのは、企業経営の常識であり、その発想は人々の普段の暮らしの中にもかなり浸み込んでいるように思います。簡便法はないか、楽して得する方はないか、を求めて人々は苦労を重ねている、といった皮肉が当てはまるのが今の世の中の有り様のような気がするのです。

ま、過去のどんな時代であれ、楽して得することを求めない暮らしなどあったためしがない、とは思うのですが、今の時代ほどひどくはなかったように思えるのです。人間は一動物であることを忘れてしまって、身体を動かすことさえ面倒などと横着し、体調が不良になるのを感ずると、簡便法のサプリメントなどを追い求め、基本的な大切なもの・ことを失ってしまっている感じがするのです。特に若い世代ほどその傾向は強いようで、食生活などは簡便法が蔓延しているようです。少しでも早くその危険性に気づいて欲しいものです。

さて、元に戻って渡り性の鳥たちですが、置き去りにされたものはともかくとして、居座って居残ったものたちには、楽して得することの危険を、この夏を通してしっかりと味わって貰いたいと思います。長い時間をかけて自分たちの先祖が培ってきた生きるための方法を、人間に倣って楽をしようなどと、安易に放棄することの危険を思い知って欲しいと願うばかりです。

コメント
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