牟礼町は、30数年前に我々が転勤で住んでいたときは、誇り高き町だったが、現在はとうとう高松市と合併に至ったようである。少し寂しい気もする。もし住んでいたら、合併反対派に入っていたことは間違いないと思う。その牟礼エリアに新しく道の駅が出来たのは嬉しい。行ってみると、昔住んでいたマンションから車で5分足らずの所にその道の駅は造られていた。志度湾を見下ろす丘の上に位置していて、裏側は公園となっており、昔走っていた琴電の電車が展示された一角があった。用済みになった古い型の電車にも懐かしさを覚えずにはいられなかった。直ぐ側を四国の大動脈のR11が走っており、夜間は少し車の音に煩わしさを感じたが、思ったよりは静かで過しやすかったのは、その昔の住まい近くにいるという気持ちがあったからなのかもしれない。
◇「遠離一切顚倒夢想。究竟涅槃」
「(一切の)顚倒夢想を遠離して、涅槃を究竟す」 この一節について想いを巡らしてみたい。
顚倒夢想(てんどうむそう)というのは、色のもたらす様々な邪念とでもいうものだろうか。我々の日常は邪念に満ち溢れていると思う。澄み切った心で生きてゆけるはずもなく、仮にそのようなことが可能だとしても、それは一瞬のことに過ぎないように思う。
しかし、般若波羅蜜多(=深遠なる知恵の完成)を為した者は、どのような邪念に煩わされることなく、最終的に涅槃を得ることが出来るというのがこの一節の述べるところだと思う。ここに書かれている「涅槃」とは何を言うのだろうか。八十八ヶ所巡りに於いても、阿波の霊山寺から始まって、阿波の23寺は発心の道場、土佐の17寺は修業の道場、伊予の26寺は菩提の道場、そして讃岐の23寺は涅槃の道場といわれているように、最終的には「涅槃」を目指す修業いという捉え方がなされている。その涅槃というのは一体何を意味するのであろうか。本の訳によれば、「永遠の平安」とあった。
永遠の平安というのはどのようなものなのだろうか。通常涅槃といえば、永遠の眠りに就くことを意味すると思う。すなわちあの世に逝くことであり、死ということである。しかし、単純に般若波羅蜜多が目指した結果が死であるということでは、何だか拍子抜けしてしまう。ただ死ぬだけなら、修業など不要ではないか。だから、この涅槃というのは、死と言うものではないのではないかと思う。
そこで私が思うのは、涅槃というのは、一切の邪念に惑わされない活き活きとした永遠の心の平安なのだと思う。お釈迦様の涅槃像というのがあるが、あれはお釈迦様がお亡くなりになって、その死んだ姿を形取って作ったものではない。あれは永遠の平安の世界の中に活き活きと生きるお釈迦様の姿を現したものに違いない。
人間というのは、常時生死を背中合わせに持ちながら時間を過ごしている存在なのだと思う。般若波羅蜜多はこれを乗り越える方法なのであり、それを獲得したものが涅槃の世界に生きる資格を持つのではないか。そして、もしかしたら、人間は誰でも涅槃の世界に辿り着くことが出来るのではないかとも思うのである。邪念の渦巻く世界で生きていることが修業そのものであり、それが済んだ時に永遠の活き活きとした平安が訪れるのではないか。
時々亡き父母のことを思い起こすことがあるが、私の中では、父も母も決して死んではいない。もはや人間としての形は失ってしまったけれど、私の両親は永遠の平安を得て、私の心の中に活き活きと生きている。
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