【今日(8/26)の予定】
終日クッチャロ湖キャンプ場に滞在(泊)
【昨日(8月25日:(月)のレポート】天気: 曇り後晴れ
<行程>
終日クッチャロ湖キャンプ場に滞在(泊)
<レポート>
今日も終日のんびりとクッチャロ湖畔のキャンプ場に滞在する。特に書くこともなし。家族の人たちへは、元気でスローに過ごしていると伝えることにしたい。でも少しばかり様子を書く
朝一番で近くの(といっても1kmほど歩く)コンビニに行き、「HO」を予約する。今日が発売日なのだが、遅れて着くことがあるとの話だった。昼近くにもう一度行ったらちゃんと届いていたので安堵した。これでもう何回かは割安の温泉に入ることができる。
今日は午後には晴れるという予報なので、相棒はそれを当てにして、車のカーペットをむしり上げて湿気たっぷりの部分を干すという作業に取り掛かった。密封度の高い車の中は湿気が溜まり易く、うっかりすると一番下に敷いているカーペットには滴り落ちるほどの水が溜まってしまうことがある。どうやらそれに近い状況となっていたらしい。こうなると自分の居場所がなくなるので、思い切って地デジのアンテナコードを換気扇から通して、今まで一々外に出てコードをつなぐような作業をしないで済むようにすることにした。思ったより簡単に作業が終わり、車を買って以来14年を経過して初めて何時でもどこでもコードをつながないでTVを見ることができる状態となった。ヘンテナおかげである。知識がないこと、やる気がないことを14年間も持ち続けたのは、もしかしたら賞賛されるべきグータラなのかもしれないなどと思った。
そのようなことをしている内に一日が終わりに近づく。スタインベックの「チャーリーとの旅」を読み終える。いつも速読という奴を心がけているのだけど、精読のレベルで本を読んだのは久しい。大体は解っているつもりのストーリーや内容なのだが、精読すると気が付き、考えさせられることも多い。スタインベックは初めに言う。「人間が旅をするのではなく、旅が人間を連れ出すのだ」と。しかし、最後にまた言う「旅人が家に帰りつく前に、既に旅は終わり、旅は死んだという経験は誰にでもあるだろう。逆も真である。」云々と。要するに旅が主体である時もあれば、旅人が主体である時もあるということなのであろう。この本には「アメリカを求めて」というサブタイトルが掲げられている。それはスタインベックがノーベル賞を受賞する年のことだが、旅に連れ出された動機といえば、「今まで自分は長年アメリカの人情風俗にじかに触れないでアメリカのことを書いてきた。知らないことについて書くということは、作家として犯罪的行為だ。もう一度この目で自分の国を見てやろう」ということだったという。チャーリーという老愛犬を連れての旅だったが、さて、彼はアメリカを発見できたのだろうか。結論からいえば、確かにアメリカ人はいたということになるようだ。しかし、最後に旅を死なせたのは、アメリカの古傷的な負の部分が息づく南部エリアで出会った体験だったようである。いわゆる白黒人種の差別騒動の現実ということになるのであろうか。今から50年前のアメリカでは、その傷はまだ新しい潰瘍を随所に残していたのかもしれない。この本は、旅のガイド書ではなく、旅の目的に係る出来事を捉まえ、分析、哲学して漠然とだが一つの結論を導き出したプロセスの解説書のような気がした。随所で感じたことを更に反芻して考えて見たいと思っている。
ところで、今、自分自身は一体旅とはどのような関係にあるのだろうか。出会いという宝を探すのが目的なのだが、この頃はその宝物に飽きてきている感じがしないでもない。だとすれば、これから先自分の旅にどのような目的や意義を見出だせばいいのか。残りの時間が少なくなっているのは間違いない。何か新しい気付きが必要だなと思った。自分的には旅から見放されるような生き方はしたくないと思っている。
本を読み終える頃に天気はすっかり回復して、夕焼けが期待できる状態となった。それを楽しみに待ったのだが、西の日が沈む当りには雲が消えていて、あまりにすっきりした空となっていたので、夕焼けはホンの少しその周辺と湖の一部を染めただけで終わってしまった。残念。
クッチャロ湖の今日の夕日。空のほんの一部が染められただけだった。空と湖全体が真っ赤に染め上がるほどの夕日は、年に2~3度しかないとか。どうやら今年も出会うのは難しいらしい。
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