山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

死ぬまでに必要な銭はなんぼなの?

2019-06-27 16:15:52 | 宵宵妄話

 老後を賄う費用のことで世間が騒いでいる。国のどこかの役所の試算では2千万円だとか。それは適切ではないなどと、その役所に一番関係ある大臣がレポートを受け取るのを拒否したとか。マスコミがそれらを囲んで大騒ぎしている。 みんな茶番ではないか?

死ぬまでに必要な銭など計算してみても大して意味がない。幾ら掛るかが判ったとて老後にいる者には、今さらそれを稼ぐことなどできないのだから。今ある分だけで生きるしかないのだ。騒いだとて何の慰めにもならない。大勢の若い老人たちはそれを知ったら只々不安を膨らませるだけだろう。

 勿論既に老後という奴に深く入り込んでしまっている自分のような老人の話ではなく、これから老の入口に立つ人や現役の終りが近づいている人たちに対するマスコミの情報提供とやらの一つなのだろうけど、正義の味方風の情報が人心を惑わすということは良くあることなのかもしれない。不安を煽り立てて、一体社会をどのようにしようとしているのか。毎度のことながらマスコミというのは油断がならない無責任な存在だなとも思った。

 役所が老後それなりに人生を全うするには2千万円が必要だなどというのは、これ又一体どういうつもりなのだろうか。社会保障費とやらでそれを賄ってくれるというのなら大いに結構な話なのだが、単なる試算であって、70歳までの就労を煽る目的というなら、そのやり方はあまりにも稚拙というべきだ。実のところこのような試算数値は、その前提をどう立てるかによって比較できないほどに狂ってくるものであり、如何ようにでも操作が可能なのではないか。

 騒ぐマスコミに対しても、又騒がせる政治屋や役所に対してもそのような茶番は止めて貰いたいと言うしかない。

 ところで、人生の老後とやらにかなり深入りしてしまっている自分は、一体これからなんぼの銭が必要なのだろうか。完全な年金暮らしであり、蓄えなども2千万円には遠く及ばない。これからをどう暮らすかということを考えるには、この騒ぎはそれなりにいい機会となったのかもしれない。少し考えてみた。

 自分は昔から貧乏育ちのくせに、あまり銭に対しては欲を覚えない人間だった様な気がする。当面必要なものを買えるか、或いは少し努力すればその欲望が叶う程度の銭があればそれで十分だと思っている。現役をリタイアした後は、年金以外には収入の当てはないのだから、それからは「出るを制す」しかないと思っている。とは言え、只生命の維持のための食べ物類だけの賄いでは人は生きては行けないから、何かもう一つ別の世界で生きがいを感じられるものをしなければと、くるま旅を選んだのである。

 くるま旅は銭がかかる道楽だと人は思うかもしれない。確かに車の購入時やその後の維持費や交通費などが必要不可欠だが、旅の際の食費などは在宅時と基本的に変わらず、やり方次第では費用は決して度を過ごしたレベルとはならないのである。今のところ、それを賄うだけの蓄えはそれなりに用意していると思っている。90歳までは無理だとしても80歳代の半ばくらいまではこの生きがいを手放したくはないと思っている。

 そのような銭のことより、これから何よりも必要なのは、健康なのだ。銭を使いきれないほど持っていても、健康が害され、身体を思うように扱えなくなってしまったら、もう終りなのだ。老人には再生、再起の希望は殆どないと言ってよい。若い人には病に見舞われたとしても再生の希望があるけど、老に深入りした人間が病に捕まってしまったら、その後は人生の終活に入るだけなのだ。このことをしっかり弁(わきま)えていなければならない。

 老後に2千万円が必要などという、悪質な脅しのような世情の話題を聴いていると、愚かさを超えた人間の虚しさのようなものを感じるのである。人は銭に関しては、所詮あるだけの世界でしか生きられないのだ。銭が無くなったら、くるま旅は止めればいいだけの話なのだ。老後を豊かに暮らすというのは、銭を一杯持っているということではなく、元気に生きて行く分だけ持っていればそれで十分だということではないか。2千万円などという金額に誑かされて心を揺らしてはならない。そう思っている。

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