山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

敬老会は軽老かい?

2011-09-10 00:42:07 | 宵宵妄話

 来る9月19日は敬老の日ということですが、少し前までは確か15日がその日だったように記憶しています。この頃は祝日なるものが、経済効率の発想のもとに動き回るので、毎日が日曜日を送っている身には、誰かに言われるまでは気づくこともなく普通の日として過ぎてしまうことが多いようです。

敬老の日がいつなのかなど、大して興味もなく気にもしていませんでしたが、気づかされるのは市の方から敬老会なるものの案内が届けられるからでした。これを頂戴するのは2回目となります。案内によれば、今年も一週間早い、明日の11日に開催されるということです。

昨年は初めての敬老会でしたので、どのような内容なのか好奇心も手伝って出席しました。その結果少なからずがっかりして、家に戻りました。というのも敬老というものの意味が、およそ85歳を超えた人に対する扱いのような内容の企画でしたので、70歳以上という括りの中では何か違和感を覚えたのでした。祝って頂いたのに、祝い方が気に入らないなどというのは、言語道断の思い上がりなのだと承知していますが、老人というものを一つの型に嵌めこんでしまったような企画内容に対しては、はっきり言って嬉しさも楽しさもありがたさも感じないものでした。

それで、そのことの感想と、どうあって欲しいかという要望のようなことを書いて、市の担当セクションに持参しました。本当は話をしたかったのですが、市の方ではそれを受け取られただけでしたので、何もわざわざこちらから申し出でしなくても読んで頂ければ判ることだとそのまま帰って来たのでした。

さて、それから1年が経って再びその敬老会が巡ってきたわけですが、そのご案内を見て見ると、昨年と全く同じ発想で構成されており、違っているといえば、アトラクションの出演者が変わったくらいのことで、プログラムは何の新鮮味も工夫の跡も見られないものでした。今年の出席はその内容を見てから考えようと思っていましたので、これはもう祝って頂くことなど心外のことだと、欠席をすることに決めました。このような内容である限り、恐らく二度とこの集まりに出席することはないだろうと思っています。

さて、何がそんなに気に入らないのかといえば、私的にいえば、老人というものをバカにしている、無理して祝ってやっているという風に行政当事者の意図を感ずるからです。そのプログラムというのは、先ず式典というのがあり、これが1時間ほど続きます。ここで行われるのは、市長他いわゆる市の名士という方たちのお祝いの挨拶です。同じような内容の話が繰り返し延々と続きます。市の要人の顔見せ興行と言っても良いかもしれません。もっと言わせて頂ければ、選挙のための議員さんたちの顔見せのようにも思えます。次がアトラクションですが、これは1部と2部に分かれており、1部は市内の趣味のグループの人たちの芸能発表会の様なものが1時間ほど続き、その後で昼食休憩があり、赤飯弁当とペットボトルのお茶が1本配られます。これが済むと2部に入り、招いたプロの芸人の出番となります。因みに今年は美川憲二とかいうものまね芸人の出演が予定されているということです。これが終われば、はい、それでお開きというわけです。

何だか戦後間もない頃の、TVなど無かった時代の、ドサ巡りの一座を年寄りどもが楽しんでいるといった風の企画なのでした。生きていて良かった、これからも元気を出してしっかり残りの人生を楽しんで行くぞ、などという気づきを思わせるものなど何もありません。総理大臣には遠く及ばない議員共の形式的な下手な話を何回も聞かされ、グループで勝手に楽しめばそれで良いじゃないかというような発表を押し付け的に見せられ、加えて二流芸人の物まねにアハ、アハ、アホ、アホと嗤って過ごして、老人なるものは元気が出るものなのか、何だか虚しい気がするのです。今は、TVの無い家は皆無でしょう。TVを見ていない老人も皆無に違いありません。TVのバラエティ番組の2番煎じなどを取り入れて、本当に喜ぶ様な老人がどれほどいるのか、自分には疑問です。

老を敬するとはどういうことなのか、行政当局はもっと考えるべきだと思うのです。高齢化の問題は、私自身がその中にあって、これからをどう生きるかについて、様々な不安や心配が波のように押し寄せて来ています。健康のこと、暮らしのこと、生きがいのこと、どれ一つとっても、これからの時代を生きてゆく確信の持てるものは少ないのです。これからの日本は、もしかしたら、高齢者がこの国を潰してしまいかねない危険性というか可能性が膨らんでいるのは、多くの識者の指摘するところですし、社会保障や医療に係わる予算やその費消は、国家の活力を削ぎ始めているという現実があるのです。

この現実を踏まえるならば、老を敬するのであれば、娯楽をプレゼントするなどという安楽な施策ではなく、自らの力で人生の終盤をしっかりと生きてゆく、そのための手助けをするような企画が取り込まれても良いのではないかと思うのです。例えば、90歳を超えても矍鑠として生きておられる先達の講演を入れるとか、健康や生きがいなどについての専門家の話を聞く時間を入れるとか、これからの人生に参考になる、刺激を受けるような真剣な話を聴く時間を用意しても良いのではないかと思うのです。

そう考えていますので、昨年は出席の後そのような内容のレポートを提出させて頂いたのですが、何の反応もないのは残念です。ま、いろいろと出来ない理屈については想像がつきますが、要すれば企画担当当事者の高齢者問題の認識は薄く、敬老のコンセプトが一時の気休めを用意すれば事足れりとの考えで固まってしまっているからなのでしょう。或いは過去からの慣習を一新するのが面倒で煩わしいと考えている人が主導権を握っているからなのかもしれません。市役所の中では、介護福祉課の高齢福祉グル―プという部署が担当されているようですから、実務的にはもうヨボヨボの超高齢者のレベルでこの企画が作られているのかも知れません。もしそうだとしたら、これからの敬老会なるものは、介護・介助の必要なご老人だけを集めて、体育館などではなく、もっと上等な場所で行うか、或いはそのような煩わしことは止めて、お祝い金だけを贈るだけにした方がすっきりするように思います、何しろ何台もの送迎用のバスを用意し、この費用と手間を省けば、今は無くなった80歳と90歳の方に対する敬老祝い金も復活できるというものでしょう。

どうも上手くいえないのですが、こんな時代遅れの敬老会というのは、私には軽老の人騒がせのように思えるのです。これには出席しない方が、自分のためにもそして市の方にも迷惑を掛けないで済む、と判断したのでした。そして願わくば来年からは事前に出欠を取って頂ければ、弁当とお茶一つ費用を無駄にせずに済むと思っている次第です。

慰めの敬老は、敬老ではなく軽老なのだということを、当局関係者は、しっかり認識して対処して欲しいと思います。というのも、間もなく団塊世代の人たちが高齢者の中核を占めるという現実が迫っているのです。団塊世代は車の運転をしない人は殆どいないでしょうし、ネットも知らないなどという人も少ないのです。老人というもののコンセプトを変えないと、今のような敬老会は、単に当局の無能が非難される場になりかねないことを肝に銘ずべきと思うのです。

旅から戻って、最初の記事がこのような批判的なものであることを我ながらに呆れ気味に思いながら今日が終わったのでした。

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