久しぶりに旅についての体験的理屈を述べてみることにします。高齢者というのは、65歳以上を言うらしいですが、してみると自分も立派な高齢者の仲間なのだと気がつきます。還暦の頃も今も、大して変わっていないように自分自身は思っていますが、周囲はそのようには認めてくれないようです。還暦を過ぎたばかりの方には、高齢者なんて冗談じゃない、と心の中で思っている人が殆どだと思いますが、5年程度の時間の経過はそれこそあっという間で、あっという間に高齢者の仲間入りをさせられてしまうのです。
リタイア後の人生をどう生きるかというテーマは、その昔の青年の頃にどんな仕事を選ぶか、どんな志を立てるかと思い惑った時と同じくらい重大・重要です。むしろ青年時代よりは遙かに多彩な経験を積み、ものごとを判別する力も備わっているだけに、この世代の悩みは、深刻ではないけど結論を出すのが難しいような気がします。つまり、過去を反省し、できなかったことや、やりたいことがたくさんあるはずなのに、いざとなると何をどうやるのかに戸惑い、ためらいながら時間が経過してゆくようなことが多いのです。歳月人を待たずといいますが、その箴言(しんげん)は若者よりも高齢者の方にぴったり当てはまるような気がします。還暦後の時間経過のスピードは、何もしないでも現役時代よりも速くなり、加齢と共に一層早まるような気がします。(勿論勝手に時間を止めてしまっている人や、心ならずとも冥界に呼ばれたしまった方は別であり、申し上げたいのは普通にまともに生きている人の話です)
さて、その時間が過ぎるスピードについては、これは絶対的な事実ですから、どうにもならないことなのですが、高齢化や加齢に伴って最も問題となることが一つあります。それは「老化」という、これ又絶対的な事実です。この老化という問題がなければ、加齢も高齢化もさほど気にすることもないのだと思いますが、若者と違う最大の壁はこの老化というものではないかと思うのです。
老化には二つの側面があるのではないかと思っています。一つは肉体的、身体的な老化であり、もう一つは精神的な心の働きの側面です。身体は衰えても精神活動は盛んな方も居られましょうが、一般的には加齢が進むにしたがって、身体の働きの方は確実に衰えて行きますから、何の対策もなければ、それにつれて精神的な面も次第に力を失ってゆくことが多いのではないかと思うのです。少なくとも70代よりは80代の方が、80代よりも90代の方が身体も心の働きもパワーは小さくなるに違いありません。これ又絶対的な事実でありましょう。しかし、身体と精神を比べれば、嬉しいことに同じペースで老化が進むのではなく、精神面の方がその心がけ次第というか、志の持ち方によって、遙かに長く老化を遠ざけることができるように思うのです。
ところで、この老化防止対策に、我々は様々な形で取り組んでいるのだと思いますが、世の中を見ていますと例えば身体的な面では老人医療費の問題に代表されるように、様々な医薬品が開発され、どんな病気にでも対応できる体制が築かれつつあります。しかし、病などというものをどんなにガードしても、肉体的な老化の問題は解決できるものではありません。古来より不老長寿は、皇帝のみならず万人の願いでもあったわけですが、それを成就し今日まで生き続けている人は皆無です。病に薬は効いても老化に効く薬などあるはずがないのです。せいぜい多少の延命に貢献するくらいのものでありましょう。
世の中には、自分自身の身体の壊れる要因を知りながら、それを改めもせず、安易に、或いはひたすら医薬品に依存して回復を期待している人があまりにも多いように思います。老人医療の問題は、そのコストを受診者と治療者が共同して膨らませている結果に拠るところ大のような気がします。私は67歳ですが、昨年医療機関に支払った医療費は0円でした。糖尿病ですが、薬で治療するのではなく、運動と食事で何とかクリアーするように努めています。薬を飲めば、数値的に良い結果が出るのは承知していますが、薬の力によるその良い結果を私は信じないことにしています。あくまでも自然体で、薬なしで良い結果を出すことが糖尿病に対する最高の治療法だと信じているからです。高額の健康保険料の支払いには、大いなる疑問を感じますが、これは世の中、人のための寄付なのだと割り切ることにしています。しかし、時々老人医療費の問題などを耳にしたり目にしたりすると、そのあり方の杜撰さというか、生き方のいい加減さに腹が立ちます。思わず私憤となってしまいました。失礼。
さて、強調したいのは、肉体的な老化対策ではなく、精神的な老化への対応についてです。私は、リタイア後の人生を心豊かに生きながらこの世とおさらばしたいと願っています。それには勿論肉体的な面の影響は避けられませんが、何といっても精神的な面でのあり方が重要なのだと確信しています。身体がかなり衰えてきても、生きるための志をしっかり持っていれば、その時が来るまで、それこそ時を忘れて生きて行くことができるのだと思っています。
その精神的な面の薬に相当するものといえば、それはその人の生きる張り合い、糧(かて)としての志の対象となるものだと思います。何でもいい、自分が死ぬまで打ち込める仕事、なすべきことを指すのだと思います。定年後に始めた趣味でも、道楽でも何でも良いわけですが、飽きの来る様なもの、途中で放り出してしまうようなものは、薬にはならないと思います。いろいろ始めてみたけど、やっぱり自分には向いていないなど、碌に汗もかかないうちから放り出して、平気で他人に愚痴を言っているような人が多いのですが、そのような人はこの薬を見つけることができないでいると、加齢の大波に呑込まれて、やがては肉体の衰えと共に認知症の世界に引き吊り込まれる可能性大なのではないでしょうか?
ここで旅が登場します。旅は志などという大それたものではなく、「その気」さえあれば、いつでも実現するものです。その気がなければ永遠に実現しないものです。ここが大切です。思うに万人は旅に憧れているのではないでしょうか?どんな短い期間の、或いは近くへの旅でもいい、人は旅に出ると、普段とは違う新しい感覚の動きを体感するはずです。それが精神的な薬なのだと思います。それが生きる力を強めてくれるのだと思います。
旅というものは楽しむものだという考え方が一般的ですが、私は本物の旅というのは単なる悦楽、愉楽ではなく、感動の出来事に出会うことなのだと思っています。その出会いがやがて癒しにつながり、生きる力を強めてくれるのだと確信しています。多くの人たちが国内や海外の旅に出掛けるのは、これら一連の旅の持つ安心できる薬効果を求めてなのだと私は考えます。海外の旅に出て、見聞を広めるという目的であっても、心に残る旅には必ず感動の出会いがあるに違いありません。それは国内の旅でも同じことでありましょう。この旅の持つ力こそ、何物にも換え難い老化防止、即ち精神活性化の仙薬なのではないかと思うのです。
旅をすればその中で志というもう一つの薬をを見出すことも可能です。時々は、そしてなるべくたくさん、旅を、旅に出ることをお勧めします。
私は今、「くるま旅くらし」という新しい旅のあり方を、実体験しながら提唱していますが、私よりも遙か以前からそれを実践されている先輩、先達にあやかり、旅車のナンバーを88歳までは旅が続けられるようにとの願いをこめて「88-55」としました。未だくるま旅くらしは始まったばかりです。88歳まで続けられたとしたら、私の心は超豊かになり、この世の悩みなど一切超越してあの世へ行けるに違いないと思っています。(笑)
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