山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

佐渡一国を味わう旅を終えて(1)

2015-07-07 03:59:21 | くるま旅くらしの話

<はじめに>

佐渡の旅から戻り、早くも2週間以上が過ぎました。いつものように後片付けにドタバタした後は、旅の振り返りをしながら、記録をまとめていたのですが、どうやらその出来上がりの見通しもついてきました。 そう、まだ一国を味わったのがどんな味だったかの所感を述べていませんでした。旅の締めくくりとして、それらについて述べてみたいと思います。大へん長いので、5回に分けることにしました。批判もありますが、佐渡一国を愛する気持ちは一層高まっています。

 ◇能と狂言の鑑賞所感

「佐渡一国を味わう旅」などと大げさな名前を付けた旅だった。それは単に佐渡という島国を蔑むなどという気持からではなく、日本国という大和民族支配の国が犯して来た科(とが)が多く残る島に、もしかしたら、そこに最も日本国らしい凝縮された特徴を見出せるのではないかと、そう思ったのである。9年前の2006年にこの島を初めて訪れたのは5月の初めだったが、その時この島の歴史や暮らしぶりについて、幾つか心を惹かれるものがあった。わずか数日の滞在だったので、その時は島の中を駆け巡るだけの旅だったが、海あり、山あり、川あり、平野あり、湖ありのこの島は、これはもう一国に相応しい条件を備えた場所だなと、そう思った。同時に、島流しなどという愚策はナンセンスだったなとも思った。勿論今から千年も昔の状況が現在とは隔絶していることは承知だけど、単に陸続きではないというだけであって、罪人の暮らす環境としてなら、往時は東北の奥地の方が遥かに厳しい環境だったのではないか。佐渡は、海で遮られて簡単に渡航ができないことを除けば、暮らしには豊かな環境が整っている。だからこそ、今の世につながる数々の建造物や遺構、史跡、それに芸能文化などが残っているのだ。そう思ったのである。

 そう思った中で、最も気になっていたのが、島の各地に残る神社の中に設えられた能舞台だった。この時は大膳神社と草苅神社のそれを見ただけだったが、どうしてこんな鄙びた場所の小さな神社に立派な能舞台が備わっているのか、大いなる疑問だった。能といえば、古典芸能の中でも由緒あるものだとの認識はあるのだが、殆ど観たことがなく、舞台も野外などではないように考えていたのである。歌舞伎や浄瑠璃なども含めて、自分にはこの種の芸能には全くと言っていいほど関心がなかった。わけのわからぬ日本の古い言葉をひねくり回して、格好をつけている役者の姿を見ていると、何だかバカバカしい気持になってしまうのである。それらの芸能を愛する人たちから見れば、不謹慎極まるというよりも真に気の毒と蔑まれる愚か者に見えるに違いない。

 そのような自分なのだが、佐渡の古びた神社に備わっている能舞台を見たとき、初めて、ここで上演される能を観てみたい、と思った。そして、能の上演が多いのは6月ということをその時知った。田植えが終わって、村の神社に能楽を奉納するという昔からの習わしなのだとも聞いた。それで、今度佐渡を訪れる時は6月でなければならない、と、その時から決めていたのである。同時に能などの芸能を通してもっと佐渡のことを理解したいとも思った。それが、今回実現することになり、少し調子に乗り過ぎて一国を味わう旅などと大げさな旅のタイトルを付けたのだった。

  

能の開演を待つ人々。佐渡では、だれもが無料(もしくはわずかな協力費程度で)でこのような立派な舞台で薪能や狂言などを楽しむことができる(椎崎諏訪神社:薪能)

 さて、その旅の味はどうだったのか、旅を終えてしばらく経った今、改めて感じたことを述べてみたい。

 まず、第一の目的だった能の鑑賞のことを書いてみたい。今年のこの月は、島内の各所で計6回の能の公演が予定されていた。しかしこのうちの2回は同じ日に別々の場所で上演されたので、観ることができたのは5回だけだった。以下にその5回分の内容を記す。

* 6日:天領佐渡両津薪能:於椎崎諏訪神社能舞台:演目「杜若」

* 7日:大膳神社薪能:於大膳神社能舞台:演目「胡蝶」

            鷺流狂言:演目「柿山伏」

*12日:牛尾神社宵宮奉納:於牛尾神社能舞台:演目「羽衣」

*15日:草苅神社薪能:於草苅神社能舞台:演目「西王母」

*20日:正法寺ろうそく能:於正法寺本堂:演目「井筒」

なお、能に加えて、別途金井能楽堂という所で上演された鷺流狂言と佐渡に伝わる文弥人形という浄瑠璃人形芝居も鑑賞した。狂言は大膳神社の時と同じ「柿山伏」という演目で、文弥人形の演目は、「山椒大夫」と「檀風」の二つだった。これらを合わせての所感も述べてみたい。

まず能楽のことだが、今回は4回が薪能、そしてもう1回はお寺の本堂での、ろうそく能という新しい形の能上演だった。いずれも、自分は初めて身近に見るもので、上演を待つ間も緊張は続いた。薪能は、能舞台の前に篝火を焚いて演ぜられるもので、開始前の神事的な火入れの儀式から始まるのを初めて知った。能という芸能の厳かさのようなものを知ったのだが、それは神に奉げる人々の心の表われなのだと理解した。暗闇の中に燃え続ける篝火は、只それを見ているだけで、人々を神秘の世界に導く力を持っている気がするが、その中で演ぜられる能の世界は、それが極限に煮詰められた表現方法であっても、そこにいる人々の心の深いところまで届く力を有していると思った。自分のようなズブの初心者であっても、解らないなどという頭の働きを無用とする感じがした。

  

巫女さんによる火入れの儀。暗闇の中に浮かぶともし火は、古来からの人間と火との関係を思い起こさせる、厳かな一時である。(椎崎諏訪神社:薪能)

     

篝火に火が灯ると、暗闇の中に突如という感じで、幻想的な世界が現出する。緊張の一瞬である。(椎崎諏訪神社:薪能)

パチパチと撥ねる篝火の火も気にならぬままに、ワキの始まりの所作から、やがてシテが登場して、ストーリーは静々と進行して行く。物語の内容は、幽明の境を往来しながら、人間の生命が輝いている時に味わったものへの亡執であったり、或いは、この世では叶わぬ生命あるものたちの願望の成就であったりして、現実には決してありえぬ、人間の果てしもない夢幻の願望の世界を表現しているのだと思った。それを観る人々は、演ぜられる能の中に、この世とあの世とを行き来する人間の魂の動きを覗き観ているのだと、そう思った。

というのも、能のストーリーは、5回の鑑賞の限りでは、概ねまずワキとしての旅の僧が登場してシテが登場するための場づくりを行い、やがて主役のシテの登場を待つのだが、そのシテは、この世の者ではなく、幽界に身を置く著名人や、或いは美しさを秘めた人間以外のものの「精」なのである。例えば、「胡蝶」という演目では、冬に咲く梅の花には決して止まることの叶わぬ蝶であり、「杜若(かきつばた)」においては、カキツバタ(アヤメの一種)の花の精が、実は在原業平の妻の、紀有常の娘だったというように、この世とあの世とを自在に行き来する、人間の心象の世界を表現しているのである。

   

「杜若(かきつばた)」の上演風景。立っている右がワキの旅の僧。左が杜若の精として現れる紀有常の娘。能の世界では、この世とあの世がつながっている。(椎崎諏訪神社:薪能)

話は変わるが、中国の怪奇小説集に「聊齋志異(りょうさいしい)」というのがある。昔これを読んだとき、この世とあの世を自在につないだ、薄気味悪い内容だなと思ったのだが、能のストーリーも本質的には同じような気がする。しかし、そこに取り上げられている内容は、人間や生き物の悲しみや美しさであり、不気味で怪奇な異臭のようなものは皆無なのだ。そのテーマがたとえ亡執に絡むものであっても、能の場合は、浄化され精華された魂の姿がそこに表現されているのだと思う。それゆえに、能楽というのは、人間の心の深淵を揺さぶる美の表現なのだとも思った。少し理屈の先走りした言い方なのかもしれない。しかし、ズブの素人の自分にでも、それほどに課題を投げかけた鑑賞でもあった。

けれども、これで能の全てが解ったわけではない。むしろ、迷路に入り込んでしまったのかもしれない。この先は能の全体を眺めるだけではなく、その表現の個々の動きに込められたものを、自分の心にバイブレート(=共振)させて受けとめる必要がある。例えば、演者が何をどのように表現しているのか、その基本を知らなければならないし、又謡の文句の内容も理解できなければ、本当に能を知ることは出来ないと思う。そのためには、もう一度佐渡に来なければならないし、より多くの能の上演を見なければならないと思った。ま、生きている間の楽しみとしては、残りの時間が少なくなっているので、どれほど願いが叶うかは分からないけど、チャレンジしてみたいと思った。

能の表現の要素としては、シテやワキの存在の他に音曲がある。太鼓(たいこ)、大鼓(おおつづみ)、小鼓、笛そして謡である。これらの役割にも興味があったが、5回の鑑賞を通して判ったのは、メインは大鼓と小鼓、場面の切り替えが笛、そしてクライマックスの強調が太鼓だなと思った。謡は、主にシテの思いを強調する際に和すという形で謡(うた)われているように思った。いずれも真に簡明な表現であり、しかも全体の進行の上では、それぞれが重要な役割を果たしているなと思った。

今のところ能楽に関してはこの程度の理解である。これからはこの5回の鑑賞体験を振り返って、もう少しこの芸能のことを考えてみたいと思っている。

この他に狂言も2度観る機会を得た。同じ演目を同じ役者でのプログラムだったが、とても同じようには思えず、「柿山伏」という演目を楽しむことができた。狂言は、文字通りややふざけめいた戯言(ざれごと)の表現であり、能と比べると単純である。「柿山伏」は、さして悪げもない柿ドロボーと化した山伏を、柿の木の持ち主が揄(からか)うというストーリーだが、大らかさがあって、緊張無用の笑いを楽しむことができる。今の世の、エゲツない笑いばかりが多いのとは大分レベルが違うなと思った。狂言は、能の幽玄の世界を際立たせるための重要な役割を果たしているのかもしれない。狂言が能の上演とセットになっているが多いのは、そのような狙いがあるのかなと思ったりした。

   

狂言「柿山伏」の一場面。左がアドの柿の木の持ち主。右がシテの山伏。丸い台が柿の木の枝の上という設定となっている。(大膳神社:鷺流狂言)

   

もう一枚追加して、これは牛尾神社宵宮で奉納された薪能の「羽衣」の一場面。右手隅に座っているのがワキの漁師であり、左の立ち姿は、衣の返還を願う天女である。(牛尾神社:薪能)

 

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