山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

06北陸・中四国晩秋の旅(第3日)その1

2008-11-11 03:38:06 | くるま旅くらしの話

第3日 <11月15日()

道の駅:井波→(R156)→瑞龍寺(高岡市)→(R8)→道の駅:倶利伽羅源平の郷(石川県津幡町)→(R8R157)→Mさん宅(石川県野々市町)(泊)  <79km

今日はくるま旅くらしの大先達のMさんご夫妻のお宅をお訪ねする日である。今日も楽しみな一日だ。お父さん、お母さんはお元気だろうか?Mさん宅をお邪魔するのは何度目になるのだろうか?邦子どのの数えによると、今回が7度目だという。毎年1回だから、もういつの間にか北海道で始めてお会いしてから足掛け7年近くにもなるのだ。本当に月日が経つのは早いものだ。初めてお会いした時のお父さんは79歳と伺ったから、現在は86歳になられることになる。今年の夏も北海道でご一緒に過ごすことができて、本当に良かった。毎年この季節にお邪魔しているが、今年も又楽しい歓談のときが持てるのが嬉しく楽しみだ。

今日も天気は機嫌が悪そうだ。一晩中降り続いた雨は、明け方になってようやく止んだが、又何時降り出すか判らない空模様である。近くの公園で水を汲んで補給し、トイレの処理をして出発準備をしながら、周囲を見渡していると、東側の山の斜面にかなり大きなお墓らしいのが見える。それがどうも気になって仕方がない。井波は瑞泉寺(ずいせんじ)に関わる彫刻の町だから、もしかしたら、あの墓石は彫刻で出来ているのかも知れないような気がし出したのである。それで、そこまで傘を持ちながら行って見ることにした。もしかしたら墓石の上に木彫りの彫刻が安置されているのかも知れない。遠くから見ると、丁度木彫りに使う樹の色をしているようにも見えるのである。

300mほど歩いてその墓所へ着いてみると、やはり木彫りではなく、石で造られた普通の墓標だった。しかし墓石の高さが皆2m以上もある立派なお墓だった。これほど大型の墓標が並んでいる墓地を見たことが無い。この地に住んで、代々、木彫りを生業(なりわい)とした人びとの、地縁社会における深く強い結びつきとご先祖様を大事にする信仰心が、このような立派な墓地を造り上げてきたのだなと思った。拓などは「馬骨」を自認する存在なので、このような立派なお墓を見ると、圧倒されるのである。早く亡くなったと聞く、自分の二人の祖父のことすら知らないのだから、ご先祖がどのような人だったかなどということは、拓にとって見れば埒外(らちがい)の世界に思えて、あえて馬骨と名乗ったりしているのである。

さて、お墓の正体を見た後は、Mさん宅に向かう前に、邦子どのの要望で、高岡の瑞龍寺(ずいりゅうじ)というのを訪ねることにする。少し道に迷いながら、10時過ぎ到着。幾つかの国宝のあるお寺だというから、どのようなものなのか見てみたい。駐車場に車を停めて八丁道というのを少し歩くと立派な総門のあるお寺が見えてきた。拓は、お寺なのに入場料を取るような所には原則として入らないことにしているのだが、このお寺は払ってもいいような気がした。かなり雨が降っていて、厳しい状況なのだが、垣間(かいま)見る山門や仏殿には、かなりの迫力を感じた。お寺の解説板を見ると、高岡の地の開祖である前田家2代藩主利長公の菩提を弔うために、異母弟の3代藩主利常公が20年の歳月をかけて建立したものだという。さすがの規模だなと思った。

中に入ってみると、中央に仏殿があって、それを囲むように幾つかの建物が回廊で結ばれている造りとなっていた。この内、山門、仏殿、法堂の3つが国宝だという。何故国宝なのかの説明がパンフレットには書いてあるが、詳しいことはよく判らない。回廊を一回りし、仏像に手を合わせながら、やはりここはイヤシロ地なのだな、と思った。イヤシロ地とは、人の心を癒すことが出来る平面・空間をいう。利常公は利長公のことを想いながらこの地を異母兄の魂の安らぐ場所としようと考えられたのであろうが、現在は全ての来訪者の魂を安らげせしめる場所となっているように思った。古来、神社・仏閣はそのような力を持った場所なのではないかと思うのである。お墓やお寺を怖いと思う人は、未熟な人だと思う。一番怖いのは死者ではなく、生きて悪さをする人間なのだ。死んだ者は、悪さなど出来るわけがないではないか。

   

瑞龍寺本殿の景観。この本殿を取り巻く回廊があり、スケールの大きさを誇っている。このお寺から八丁道によって利長公の墓所へとつながっている。

境内の外に出て、再び八丁道というのを反対方向に歩いて、利長公の墓所に向う。八丁道というのは、お寺と墓所を結ぶ参道のことで、ちょうど八丁(870)の距離があることから、そのように呼ばれているとのこと。その昔は参道の幅も15(27)という広さがあり、両側に老松がうっそうと茂っていたと説明板に書かれているが、明治以降だんだんと幅を狭められて、現在は10mにも満たない幅となっているとか。けれどもしっかりと石畳を敷き詰めた立派な道となっており、両側の建物の景観が現代そのものなのは止むを得ないとしても、散策には嬉しい場所のようだ。ドン詰まりの利長公の墓所に参詣した後、車に戻り出発。雨は止んで、天気は大丈夫のようである。

 再びR8に入り、金沢方面へ。小1時間走って、津幡町にある道の駅「倶利伽羅(くりから)源平の郷」にて昼食休憩。倶利伽羅峠といえば、その昔源平の戦いがあり、牛角に松明をつけて奇襲攻撃を行なった源氏側が、平氏側を破った場所として有名だが、拓はそのような話には大して興味は無い。日本人同士の権力争いは、今でも様々な社会の中で続いているが、その最も代表的なものの一つがこれら源平の争いではないか。拓はあくまでも百姓の味方なので、武士や公家などの争いを美化する考えなど持ち合わせていないのである。蕎麦をオーダーしたのだが、大して混んでもいないのに大変に遅かった。いつもだと、何の説明も無しに客を待たせる店では、こちらも無言で立ち去ることにしているのだが、今日は腹が減っていた所為か、我慢して待った。蕎麦は旨かった。

 晴れたかと思うと、急に黒雲が増えたりして、天気は相変わらず不安定だ。それでも富山近郊の空模様よりは金沢エリアの方が良いようだ。それほど離れてもいないのに、差があるのは、地形や海流などの影響が異なるからなのかも知れない。金沢に近づくにつれて天気は次第に回復しているようだ。  

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