山本馬骨の くるま旅くらしノオト

「くるま旅くらしという新しい旅のスタイルを」提唱します。その思いや出来事などを綴ってみることにしました。

軽井沢・越中おわら風の盆紀行(その5)

2017-09-21 00:28:13 | くるま旅くらしの話

05日 <9月02日(土)> 

 <行程>

八尾スポーツアリーナ駐車場 →(シャトルバス)→ おわら風の盆会場 →(徒歩)→ 八尾スポーツアリ-ナ駐車場(泊)

 今朝もまたいつものように5時前には目覚めて、今日も旧町中へ歩きに出かけることにした。駐車場の車がかなり少なくなっていたのは、昨夜出て行った車が結構多かった様である。近郊から来られた人たちは帰って行ったのであろう。泊っているのは県外の遠地からの来訪車ばかりである。茨城県などは未だ近い方で、北海道や関西以西のナンバーの車も散見されていた。これほど多くの人たちを引寄せる風の盆というのは、その名称だけでも日本人の心に触れる何かの魅力があるのかもしれない。しかし、昨夜それを実感できなかったのを残念に思った。

今朝は昨日とは別の道を歩くことにした。井田川の側道に近い道を行き、昨日は行っていなかったJR越中八尾駅の方へ寄ることにした。ここは風の盆では唯一新しい町内である福島町がある。これはふくしまではなく、ふくじまと濁って読むのだそうな。八尾に越中とわざわざついているのは、大阪に八尾という市があったからなのであろう。尤も今は東大阪市となっており八尾はやつおではなくやおである。地名の呼称は難しい。駅まで行って見ると、まさに祭の後という感じがした。やや疲労感を漂わせて、半ばたたまれたテントの出店の脇に、ゴミの袋などが積まれていて、これからの祭の再開を待っている感じがした。ここを走っているJRが高山線であることにも不思議を感じた。というのも高山線と言えば、何度か名古屋方面から乗っただけで、終点まで行ったことがなく、それが富山駅であることも知らなかったからである。そういえば、昔の八尾は越中富山においては、飛騨の高山辺りとの交易の中心地だったというのがどこかに書いてあった。土地勘がないというのは情けないなと改めて思った。

越中八尾駅から踊りの行われている福島町の通りをしばらく歩いて、坂のまち大橋というのを渡り、天満町に出る。そこからは昨日と同じように坂を登って城の山公園まで往復する。今日は通りの途中にある幾つもの神社やお寺などを見ながらの往復だった。古い町には必ずその町と結びついて町を支え守ってきた寺社があるものだ。それぞれの由緒までは調べなかったけれど、立派な建物が多いのはやはりこの町が昔から繁栄していた証なのだと思った。

町を歩いていると、町内ごとに公民館があるのに驚かされる。小さくて狭いエリアの町内会なのに、である。これはやはり風の盆や曳山祭りなどと大きく係わった歴史がらみの背景があるのだろうなと思った。自分の住む守谷市などには町内会や自治会単独での公民館などは皆無で、6万5千人も人が住んでいるのにそれらしき公共の建物は小規模な何とか会館が3~4箇所しかない。それに比べると、この町の町会ごとの公民館というのは、その結束を強く示すものとして凄いなと思った。

坂を登って行くと、道端というか、家々の軒下辺りから水音が聞こえてくる。どこへ行っても聞こえてくるのだ。蓋がしてあるので、どのような水が流れているのかは知らないのだけど、何か理由があるように思った。調べてみたら、これはエンナカと呼ばれているもので、火防や融雪用として昔から整備されていたとか。そうか、ここは雪国だったのかと、改めて気づかされた。八尾という町がどのような昔を持っているのかが、少しずつ見えて来ているのが楽しい。

城の山公園に上り町を俯瞰した後は、なるべく来た時とは違う道を探して帰途に就く。自分的には風の盆の踊りの見物などよりも、この朝の散策の方がずっと楽しい。2時間ほど歩き回って車に戻る。

今日も天気は上々で、時間が経つに従って暑さが増して来た。幸い直ぐ傍にプラタナスの木が一本あって午前中は日射しを和らげてくれているので助かっている。今日は何としても21時頃に出かけるつもりでいるのだが、それまでをどう過ごすかが大変である。読むべき本も持参しておらず、TVなど見ていても直ぐに飽きてしまう。外を歩くにも日射しが強くて、うっかりするとそれこそ熱中症になりかねない。時々スーパーまで買い物に出かけたり、周辺の状況を観察に歩き回ったりしながら時間を過ごす。16時頃になって、夜食用におにぎりでも買ってこようかとスーパーまで出掛けたのだが、驚いたことに昨日まではかなり多く並んでいた食品売り場の弁当や総菜が、殆ど売り切れて無くなっていた。祭りの会場からはかなり離れているスーパーなのだが、祭の影響はここまで直接及んで来ており、そのパワーは絶大なものなのだなと改めて思い知らされたのだった。

ようやく日が傾きかけてきた。昨日以上に駐車する車が続々と入って来て、河川敷の方に向かっている。間もなく19時近くになるけど、自分たちは今日は簡単に動き出すつもりはない。シャトルバスには長い列が出来ているようだけど、その列が解消する頃に出かければいいのだと決めて、誘惑には負けない待ち時間だった。夕食を済ませ、暗くなり出したので、そろそろ準備をしようかと思っていると、何だか急に空模様が怪しくなり出した。20時を過ぎたので、とにかく準備を終えて外へ出て靴紐を結んでいると、雨粒が落ちて来たではないか。空はかなり黒雲に覆われていて、ちょっと心配になってきた。これからが本番なのだ。今さら行くのを止めるわけには行かない。念のため傘などの雨具を用意し、シャトルバスの方に向かう。

バスに向かって歩いていると、雨は本降りとなり出したようで、駆け込むようにしてバスに乗る。この時間帯となるとさすがに会場に向かう人は少なく、直ぐに乗ることが出来た。直ぐに発車したのだが、雨はますます強く降り出した。バスは昨日と同じコースを走っているのだが、今日はなぜか一般道を走る車が多いらしく、渋滞が始まってなかなか前に進まない。どうせ雨なのだからゆっくりでもいいのだけれど、と思いながらも21時にはまだ間があるのに、急く気持となっている自分が可笑しくなったりした。20分ほどかかってようやく渋滞を抜けて会場に着く。

雨は少し小降りとなったみたいである。一時の通り雨だったのかもしれないなと思った。バスの外を見て驚いた。渋滞でなかなか戻って来ないバスを待つ長蛇の列が出来ていた。昨日も40分待つ状態だったが、それでも4~5台で回転しているバスの動きは順調だったのだが、今日は渋滞で狂ってしまっている。それなのにこの雨で見物を諦めて戻る人たちの数は昨日の比ではないようだ。降りて東町の通りの方へ歩いてゆくと長蛇の列は通りの中にまで連なっていた。戻るのには歩いてゆくしかないのだから、待つ外ないからなのであろう。小さい子連れの人も混ざっており、気の毒だなと思った。

ごった返している踊りの行われている通りを歩いて上新町まで来ると、何やら放送があって、聞くとどうやら踊りは雨で中止ということらしい。但し22時になったら

輪踊りというのは行うということらしかった。今はもうすぐ21時になるという時刻である。中止だというのだが、それは上新町だけなのか、他の町内はどうなっているのか、それはさっぱりわからない。風の盆の全体を仕切っている組織があると思うのだが、そこではどう判断しているのか何の情報も伝わってはこなかった。とにかく帰るわけには行かないので、混雑する通りを一番上の方まで行って見ることにした。幸い小降りとなっていた雨も止んだようで、走っている雲の間から時々月が見えるようになってきた。

 坂の最上部近くの東新町に入り、諏訪町通りの方を見下ろすと、どうやら踊りは止めとなっているらしく、大勢の人がうごめいていた。どうやら坂を上る人よりも下る人が多いようなのは、諦めて帰ろうとする人が多いのを表わしているようだった。東新町の踊りは中止されているらしく、踊りの一団が休憩なのか解散なのか一息入れて休んでいた。風の盆は雨が降ると中止となるらしい。それは演奏する楽器が三味線と胡弓、それに太鼓であり、これらの楽器は特に雨に弱いからなのであろう。そう思いながら西新町の方へ向かう。

 西新町は東新町よりも一つ西寄りの筋にある町内で、こちらの方が坂の最上部に位置しており、ここの通りは上新町につながっている。ここに来て見たらやはり踊りの一団が休憩しており、相棒がその中の一人に踊りは再開されるのかを訊いたりしていた。はっきりしない返事だったが、止めにしたという雰囲気でもない。どうなのかなとしばらく様子を見ていると、10分も経たない内に踊りを始めるらしく、そのような動きとなった。今度は最前列で、初めから終わりまでを見ることが出来たのである。動画を撮ろうとカメラを回し続けながら、踊りの一部始終を観察し続けた。

優雅な女踊りは流しの最前列で、これは6人ほどが踊り、その後に関係者らしい子ども交じりの一団が踊り、続いて演奏の一団が唄い手を交えて進み、更にその後に法被姿に編み笠を被った男踊りの数人が続くという構成は昨日と同じだった。それは当り前なのであろう。踊りの内容が全く同じなのかどうかはわからない。途中から踊りの隊列が変化し、女踊りと男踊りの数人が前に出て来て、一緒に踊るという形となった。男踊りは逞しく、雪駄の地面を叩く音が揃って、なかなか見事だった。女踊りはあくまでも優雅で、特に後ろに反って踊る姿には女性らしさが溢れている感じがした。又これらの踊り手が3組ほどペアになって踊る場面があり、その時には観衆の中からやんやの喝采や口笛が飛んだりして、何故か、なるほどなと思ったりした。

15分ほどで踊りは終わり、歩きながらしばらく休憩となったが、引き続き流れに乗って見物することにした。間もなく次の踊りが開始された。内容は同じで、どうやらこの繰り返しが何度か行われるようだった。二度目なので、少し余裕が出来て慌てずに見物することが出来て満足した。相棒は今日はカメラを持って来なかったので、その分じっくり観察出来て満足したようだが、こんなことになるのならカメラを持って来るべきだったと少し悔いもあった様である。

余裕を持って2度も風の盆の踊りを見ることが出来たので、満足して坂を下って上新町の方へ行くことにした。9時半を過ぎた頃からの人混みは、雨で諦めて帰る人たちが続出して、かなり余裕があるようになった。そんな中を歩いている内に22時となり、上新町では輪踊りというのが始まった。どんなのかなと見ていたら、通り全体が踊り場となって、400mほどの大きな踊りの輪をつくって、見物客も一緒に自由に参加して、踊るのだという。

そのチャンスを待ち構えていた相棒は、直ちに自分に荷物を預けて輪の中に入って行った。輪の内側に設けられた小さな舞台の上では、踊りの手本を示すかのように着物姿に深編みがさの若い女性が、優雅なしぐさを繰り返していた。相棒などは良く踊り方を知らず、地元の小さな女の子に仕草を教えて貰いながら踊っていたとか。これはあとで聞いた話である。とにかく大変な大きさの踊りの輪なので、一回りするには優に1時間以上を有するに違いないと思った。それまで相棒を待っていることが出来るのかと少し心配になった。せいぜい30分ほどが限界なのである。「どうせ阿呆なら踊らにゃ損々」は阿波踊りの唄の文句だけど、損が百溜まっても踊らないのが自分の信念なので、ちんたら踊りを見続けているのは到底無理なのである。と、まあそのようなことを考えていたら、それを察したのか、20分ほどで相棒が戻ってきた。踊りの練習も皆無だったので、うまく踊れず自分のことも気になって止めにしたようだった。とりあえず安堵した。

その後は輪踊りの場を離れて、更に坂の下の方の町内の踊りを見物しながらぶらぶら歩きをする。おちこちに踊りの一団がいて、昨日とは大違いの風の盆本来の雰囲気を味わうことが出来た。見上げる空には月も輝いていて、先ほどの雨が天の恵みだったように感じた。雨が降らなかったら、昨日と同じ状況だったのかもしれないなと思った。最後に坂の一番下の天満町まで来て、踊りの流しの始まるのを見物しながら帰途に着くことにした。もう既に23時を過ぎていて、シャトルバスは終わりとなっているので、歩いて帰ることにした。

昨日今日と2往復して歩いているので、夜道であっても迷うことはない。それに月明かりもあるので、今日の感想などを話しながら歩いている内にたちまちスポーツアリーナの駐車場に着く。とにかく今日は一時どうなるのかと思ったのだが、その後は本来の風の盆を味わうことが出来て満足した。車に戻って、ビールで乾杯して寝床に入った時は、既に0時を回っていた。これで風の盆の見物は終わり、明日は家に戻るだけとなった。

※  この日の写真は、すべて動画ばかりで、それを載せる方法を知らないため、文字ばかりとなりました。ご免なさい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 軽井沢・越中おわら風の盆紀... | トップ | 軽井沢・越中おわら風の盆紀... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

くるま旅くらしの話」カテゴリの最新記事