goo blog サービス終了のお知らせ 

村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

ふじわらの あつただ

2015-05-24 00:19:15 | 三十六歌仙
土曜日
今日もかたづけ
幼馴染のK君が
ゴミに捨てられない大ごみを
壊して捨ててくれるというので
お願いしたところ
すぐにきて自宅で小さくするという
頼んだのは
長い長い物干しざお
分解した本棚
押入れにあった押入れダンス
茶箱くらい大きな木箱
その木箱は
外は綺麗なふすまの紙が貼ってある
蓋を開けると
内側は
写経した用紙が貼ってあった
日付は平成元年
そのころ父親と祖母が続いて亡くなり
わが家と従姉の家では写経を毎日していた
願文は
一千万以上の宝くじに当たりますように


思わず噴き出した
25年前だ
みな若く 
もっと元気だった
と懐かしい気持ちが湧き出るが
いやいや
それより先のこと
今日は
かたづけがまだ済まない
明日は
靖国神社へ茶会に行く
そう思って
すぐさま
大きな箱の蓋をした



藤原 敦忠(ふじわら の あつただ、
延喜6年(906年) - 天慶6年3月7日(943年4月18日))は、
平安時代中期の公家・歌人。
藤原北家、
左大臣・藤原時平の三男。
官位は従三位・権中納言。
三十六歌仙の一人。

通称は
枇杷中納言・本院中納言。
小倉百人一首では
権中納言敦忠。

天慶6年(943年)3月7日薨去。享年38。

美貌であり、和歌や管絃にも秀でていた。
『後撰和歌集』や『大和物語』などに、
雅子内親王(醍醐天皇皇女、伊勢斎宮)ほか
多くの女流歌人との贈答歌が残されている。
『後撰和歌集』(10首)以下の勅撰和歌集に30首入集。
家集に『敦忠集』がある。

小倉百人一首 43番
あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり
『拾遺和歌集』巻十二:恋二

《ウィキペディアより》




茶の湯・茶道ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふじわらのあさただ

2015-05-09 23:23:05 | 三十六歌仙
藤原 朝忠(ふじわら の あさただ、
延喜10年(910年) - 康保3年12月2日(967年1月15日))は、
平安時代中期の公家・歌人。
藤原北家、三条右大臣・藤原定方の五男。
三十六歌仙の一人。
官位は従三位・中納言。
土御門中納言または堤中納言と号する。
小倉百人一首では中納言朝忠。
(中略)
歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首が入集。
家集に『朝忠集』がある。
小倉百人一首の歌は『天徳内裏歌合』で六番中五勝した中の一首である。
また、和歌のほかに笛や笙に秀でていた。
《ウィキペディアより》




茶の湯・茶道ランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みなもとの しげゆき

2015-05-04 00:30:58 | 三十六歌仙
源 重之(みなもと の しげゆき、
生年未詳 - 長保2年(1000年)頃?)は、
平安時代中期の歌人。
清和天皇皇子貞元親王の子である従五位下源兼信の子。
子に有数・為清・為業・宗親・源重之女がいた。
伯父の参議源兼忠の養子。
官位は従五位下・筑前権守。
三十六歌仙の一人。

冷泉天皇が皇太子であった頃に帯刀先生(たちはきせんじょう)、
967年(康保4年)村上天皇が崩御し、
冷泉天皇が即位すると左右の近衛将監となり、
11月に従五位下に叙爵するが、
その後976年(貞元元年)相模権守を皮切りに、信濃守、日向守など
地方の微官に任ぜられるが
官職には恵まれなかった。
995年(長徳元年)以後、
陸奥守藤原実方に従って陸奥国に下向し、
その地で没したという。
享年は60余。
《ウィキペディアより》


小倉百人一首 48番 
風をいたみ 
岩うつ波の己のみ 
くだけて物を 
思ふころかな
   (「詞花和歌集」恋上210)




茶の湯・茶道ランキング





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さかのうえ これのり

2015-04-13 00:00:20 | 三十六歌仙
坂上 是則(さかのうえ の これのり、

生年不詳 - 延長8年(930年))は、
平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。
右馬頭・坂上好蔭の子。
子に望城がいる。
官位は従五位下・加賀介。
三十六歌仙の一人。

延喜8年(908年)大和権少掾、
のち少監物・中監物・少内記を経て、
延喜21年(921年)大内記、
延長2年(924年)従五位下・加賀介に至る。

「寛平后宮歌合」や「大井川行幸和歌」など、
宇多朝から醍醐朝にかけての和歌行事に度々進詠し、
『古今和歌集』の撰者らに次ぐ歌人であった。
『古今和歌集』(7首)以下の勅撰和歌集に39首が入集。
家集に『是則集』がある。

また、蹴鞠に秀でていたらしく、
延喜5年(905年)3月2日、
宮中の仁寿殿において
醍醐天皇の御前で蹴鞠が行われ、
そのとき206回まで続けて蹴って
一度も落とさなかったので、
天皇はことのほか称賛して絹を与えたという。

小倉百人一首 31番
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪(『古今和歌集』冬332

《ウィキペディアより》



茶の湯・茶道ランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おおなかとみ の よりもと

2015-04-07 23:40:02 | 三十六歌仙
朝から雨が降っている
今日は
月に一度の茶の稽古日
紋付を着て出かけるのだが
雨なのでちりめんはやめて
こげ茶色の綸子の色無地に決めた
これなら80歳になって大丈夫



大中臣 頼基(おおなかとみ の よりもと、
仁和2年(886年)頃? - 天徳2年(958年)?)は、
平安時代中期の歌人・官人。
備後掾・大中臣輔道の子で、
子に梨壺の五人の1人大中臣能宣がいる。
三十六歌仙の1人。
官位は従四位下・祭主・神祇大副。


大中臣氏は代々神祇をつかさどる家系であるが、
頼基は能宣・輔親・伊勢大輔とつらなる
大中臣氏における歌人の祖となる。

伊勢神宮祭主となり、
従四位下・神祇大副に至る。
宇多上皇の信任が厚く、
『大井川行幸和歌』や『亭子院歌合』への参加のほか、
屏風歌・賀歌などへ進詠した歌が多く残されている。

『拾遺和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に10首入集。
家集に『頼基集』がある。

《ウィキペディアより》


写真は秋田県立美術館の
コーヒーを飲むところ
この美術館の設計者は安藤忠雄だそうな



茶の湯・茶道ランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そせいほうし

2015-03-28 23:37:44 | 三十六歌仙
素性法師
素性(そせい、生年不詳 - 延喜10年(910年)?)は、
平安時代前期から中期にかけての歌人・僧侶。
桓武天皇の曾孫。
遍照(良岑宗貞)の子。
俗名は諸説あるが、
一説に良岑玄利(よしみねのはるとし)。
三十六歌仙の一人。



素性は遍照が在俗の際の子供で、
兄の由性と共に出家させられたようである。
素性は父の遍照と共に宮廷に近い僧侶として和歌の道で活躍した。
はじめ宮廷に出仕し、殿上人に進んだが、早くに出家した。
仁明天皇の皇子常康親王が出家して雲林院を御所とした際、
遍照・素性親子は出入りを許可されていた。
親王薨去後は、遍照が雲林院の管理を任され、
遍照入寂後も素性は雲林院に住まい、
同院は和歌・漢詩の会の催しの場として知られた。
後に、大和の良因院に移った。
宇多天皇の歌合にしばしば招かれ歌を詠んでいる。

古今和歌集(36首)以下の勅撰和歌集に61首が入集し、
定家の小倉百人一首にも採られる。
家集に『素性集』(他撰)がある。
《ウィキペディアより》


明日は茶会を披く
場所は五島美術館
お客様は72名様
水屋は21名
午後から雨らしい
日頃の行いが出るというから
仕方ない



茶の湯・茶道ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みなもとの むねゆき

2015-03-23 20:54:37 | 三十六歌仙
先日五島美術館の茶会へ行った
掛物はこより切
紙縒コヨリ切は藤原佐理筆
歌切れだが
中古三十六歌仙の一人の歌
名前は忘れてしまったが
説明された五島の名児耶先生が
中古三十六歌仙です解りますね
と仰った

中古三十六歌仙というのがある事だけしか知らない
それに三十六歌仙は
ただいま勉強中
それが済んだら中古に行こうぞ


今日は百人一首の28番
みなもとのむねゆき
小倉百人一首 28番 

山里は 
冬ぞ寂しさ 
まさりける 
人目も草も 
枯れぬと思へば


源宗于
源 宗于(みなもと の むねゆき、生年不詳 –
天慶2年11月22日(940年1月9日))は、
平安時代前期から中期にかけての官人・歌人。
光孝天皇の皇子是忠親王の子。
娘に閑院大君がいる。
官位は正四位下・右京大夫。
三十六歌仙の一人。


894年(寛平6年)源姓を賜与され、
臣籍降下する。
丹波権守、摂津権守、三河権守、相模権守、信濃権守、伊勢権守などの国司を務めるなど
地方官を歴任し、
また兵部大輔、右馬頭を務めた。
天慶2年(939年)正四位下・右京大夫に昇進したが、翌年に没した。

「寛平后宮歌合」などの歌合に参加、
紀貫之などと交流があった。
『古今和歌集』(6首)以下の勅撰和歌集に15首入集。
家集に『宗于集』がある。
『大和物語』に右京大夫として登場する。
《ウィキペディアより》


茶の湯・茶道ランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みなもと の きんただ

2015-03-22 21:32:28 | 三十六歌仙
源公忠

源 公忠(みなもと の きんただ、
寛平元年(889年)- 天暦2年10月29日(948年12月7日))は、
平安時代中期の官人・歌人。
光孝天皇の孫。
大蔵卿・源国紀の子。
官位は従四位下・右大弁。
三十六歌仙の1人。
滋野井と号す。


歌合や屏風歌で活躍し、
紀貫之からは辞世の歌を贈られた。
『後撰和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に21首が入集。
家集に『公忠集』がある。
また、香道や鷹狩に優れていた。

公忠は鷹狩の名人で、
『大鏡』に以下の逸話がある。
公忠は公務の間、予め馬をどこかに繋いでおき、
公務が終わるとすぐに
そのまま鷹狩に毎日のように出かけていた。
また、久世の雉と交野の雉の
味の違いを識別できるとの話があったので、
ある人が両方の雉を混ぜて料理し、
目印を付けて献上したところ、
公忠はそれぞれの雉を味わい分けたという。

ほかにも
『大和物語』・『宇治拾遺物語』・『江談抄』に逸話が残されている。
《ウィキペディアより》



茶の湯・茶道ランキング


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふじわらのとしゆき

2015-03-15 20:18:20 | 三十六歌仙
藤原敏行
藤原 敏行(ふじわら の としゆき、生年不詳 –
延喜7年(907年)、または、延喜元年(901年))は、
平安時代初期の歌人、書家。
藤原南家、藤原巨勢麻呂の後裔。
陸奥出羽按察使・藤原富士麻呂の子。
官位は従四位上・右兵衛督。
三十六歌仙の一人。

勅撰歌人として、
『古今和歌集』(18首)
以下の勅撰和歌集に28首が入集。
家集に『敏行集』がある。
《ウィキペディアより》


すみの江の岸による浪よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ(古今和歌集、百人一首18、)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる(古今和歌集、秋歌上、169)
白露の色はひとつをいかにして秋の木の葉をちぢに染むらん




茶の湯・茶道ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おきかぜ

2015-03-07 23:02:07 | 三十六歌仙
藤原興風
(ふじわら の おきかぜ、生没年不詳)は、
平安時代の官人・歌人。
藤原京家の出身、参議・藤原浜成の曾孫。
相模掾・藤原道成の子。
官位は正六位上・治部少丞。
三十六歌仙の一人。

900年(昌泰3年)父と二代続けて相模掾に任ぜられる。
904年(延喜4年)上野権大掾、
914年(延喜14年)上総権大掾と地方官を歴任し、
正六位上・治部少丞に至る。

官位は低かったが『古今和歌集』の時代における代表的な歌人で、
「寛平后宮歌合」・「亭子院歌合」などの歌合への参加も多く見られる。
『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首が入集。
家集に『興風集』がある。
管弦にも秀でていたという。

小倉百人一首 34番 
誰をかも 
知る人にせむ 
高砂の 
松も昔の 
友ならなくに   (『古今和歌集』雑上909)
《ウィキペディアより》

午前中にお道具屋さんが見えた
大きな包みの中からひとつずつ取り出しては
次々と箱を開ける
新物の茶入と火入、
それに色々な茶碗が五つと
棗がひとつ
いくつかは箱書きもあり
茶碗もそれなりに良い
しかし
棗はあまりに高価なので
保留
その他は買うことにした

まだまだ道具を買う
茶道具を欲しいのだという
自分の欲にあきれ返る
それだけ
元気だということだろう 
茶事、茶会でご披露しよう

五島美術館の茶会の
茶券が出来た
明日にはご出席の皆様に
お送りするように
さあ これから封筒書きだ




茶の湯・茶道ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いせ

2015-02-27 23:04:42 | 三十六歌仙
玄関のベルがピンポンと鳴る
お向かいの奥さんだ
今月の俳句の兼題が「椿」だそうで
近所を探していたら
灯台下暗し、ここにたくさん咲いているから
見せてね
との事
お友達と狭い庭へとご案内すると
それぞれ違う色や形に感動していた
お年は七十代後半だろうが
少女のようだった
感性は年を取らないのだ




三十六歌仙の今日は 伊勢

伊勢 (いせ、872年(貞観14年)頃 - 938年(天慶元年)頃)
平安時代の日本の女性歌人。
三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
藤原北家真夏流、伊勢守藤原継蔭の娘。
伊勢の御(いせのご)、伊勢の御息所とも呼ばれた。

はじめ宇多天皇の中宮温子に女房として仕え、
藤原仲平・時平兄弟や平貞文と交際の後、
宇多天皇の寵愛を受けその皇子を生んだが早世した。
その後は宇多天皇の皇子敦慶親王と結婚して中務を生む。

情熱的な恋歌で知られ、
『古今和歌集』(22首)以下の勅撰和歌集に176首が入集し、
『古今和歌集』・『後撰和歌集』(65首)・『拾遺和歌集』(25首)では女流歌人として最も多く採録されている。
また、小倉百人一首にも歌が採られている。
家集に『伊勢集』がある。
《ウィキペディアより》

小倉百人一首 19番
難波潟 みじかき芦の ふしのまも あはでこの世を 過ぐしてよとや







茶の湯・茶道ランキング





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みぶのただみね

2015-02-24 20:41:44 | 三十六歌仙
百人一首30番
有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし(古今・恋三・625)
壬生 忠岑


壬生 忠岑 みぶのただみね
貞観2年(860年)頃 - 延喜20年(920年)頃)は、平安時代前期の歌人。
三十六歌仙の一人。
身分の低い下級武官であったが、
歌人としては一流と賞されており、
『古今和歌集』の撰者として抜擢された。

(中略)
また、『大和物語』によると藤原定国の随身であったという。

後世、藤原定家、藤原家隆から
『古今和歌集』の和歌の中でも秀逸であると
作風を評価されている。
藤原公任の著した『和歌九品』では、
上品上という最高位の例歌として
忠岑の歌があげられている。

『拾遺和歌集』の巻頭歌にも撰ばれ、
通常は天皇や皇族の歌を置いて
儀礼的意義を高める勅撰集の巻頭歌に
忠岑の歌が撰ばれたのは、
彼の評価がそれだけ高かったからと言える。

また、歌学書として『和歌十種』を著したとされるが、
近時は10世紀後半以降、
『拾遺和歌集』成立の頃に忠岑に仮託されて
作られたものとみる説が有力である。
『古今和歌集』(34首)以下の
勅撰和歌集に81首が入首。
家集『忠岑集』を残している。
《ウィキペディアより》

茶の湯・茶道ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

とものり

2015-02-05 23:47:50 | 三十六歌仙
雪が降るかもしれないから
予定はとりやめ
ゆっくり
のんびり出来たか な




秋風に
初雁がねぞ聞こゆなる
誰たが玉づさを
かけて来つらむ(古今207)


紀 友則
き の とものり、
承和12年(845年)? - 延喜7年(907年))、
平安時代前期の歌人・官人。
父は宮内権少輔・紀有友(有朋)。
子に清正・房則がいる。
紀貫之の従兄弟にあたる。
官位は六位・大内記。
三十六歌仙の一人。


40歳過ぎまで無官であったが、
和歌には巧みで
多くの歌合に出詠している。
寛平9年(897年)土佐掾、
翌昌泰元年(898年)少内記、
延喜4年(904年)に大内記に任ぜられる。

紀貫之・壬生忠岑とともに『古今和歌集』の撰者となったが、
完成を見ずに没した。
『古今和歌集』巻16に
友則の死を悼む貫之・忠岑の歌が収められている。
『古今和歌集』の45首を始めとして、
『後撰和歌集』『拾遺和歌集』などの勅撰和歌集に
計64首入集している。
歌集に『友則集』がある。

《ウィキペディアより》




茶の湯・茶道ランキング

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

みつね

2015-02-01 21:43:38 | 三十六歌仙

いづことも春の光はわかなくにまだみ吉野の山は雪ふる(後撰19)



凡河内躬恒

凡河内 躬恒おおしこうち の みつね
貞観元年(859年)? - 延長3年(925年)?)、
平安時代前期の歌人・官人。
姓は宿禰。一説では淡路権掾凡河内利の子。
三十六歌仙の1人。
官位は六位・和泉大掾。

寛平6年(894年)2月に甲斐権少目、
延喜7年(907年)1月に丹波権大目、
同11年(911年)1月に和泉権掾、
同21年(921年)1月に淡路権掾に任ぜられるなど、
地方官を歴任。
延長 3年(925年)、
和泉から帰京して後まもなく没したという。

歌人としては三十六歌仙の1人に数えられ、
延喜5年(905年)に紀貫之・紀友則・壬生忠岑と共に
『古今和歌集』の撰者に任じられる。
歌合や賀歌・屏風歌において活躍し、
宇多法皇の大堰川行幸(907年)、
石山寺御幸(916年)、春日社参詣(921年)などに
供奉して和歌を詠進した。
官位は低かったものの、
古今和歌集への58首をはじめとして
勅撰和歌集に194首入集するなど、
宮廷歌人としての名声は高い。
家集『躬恒集』がある。
《ウィキペディアより》



茶の湯・茶道ランキング




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つらゆき

2015-01-30 23:30:44 | 三十六歌仙
さくら散る 木の下風は 寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りける 紀貫之


雪が降った
少しだが出光に行く予定をとりやめた
転んでもいけないからというのが理由だ
雪が降っているせいか
昼間でも眠い 
何も考えず ただただ眠った
雪の日は 眠くなる




紀貫之 きのつらゆき

貞観8年(866年)または貞観14年(872年)頃?
天慶8年5月18日(945年6月30日)?
主君 醍醐天皇 → 朱雀天皇
紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人。
『古今和歌集』の選者のひとり。
また三十六歌仙のひとりでもある。
紀友則は従兄弟にあたる。

紀望行の子。
幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという。
貫之の母が内教坊出身の女子だったので、
貫之もこのように称したのではないかといわれる。

延喜5年(905年)、
醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を
紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に編纂し、
仮名による序文である仮名序を執筆した。
(真名序を執筆したのは紀淑望)
「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」
で始まるこの仮名序は
後代の文学に大きな影響を与えた。
また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。
理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。


日本文学史上において、少なくとも
歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。
種々の点でその実例が挙げられるが、
勅撰歌人としては『古今和歌集』(101首)以下の
勅撰和歌集に435首の和歌が入集しているのは
他の歌人に比べて最高数であり、
三代集時代の絶対的権威者であったといえる。

散文作品としては『土佐日記』がある。
日本の日記文学で完本として
伝存するものとしては最古のものであり、
その後の仮名日記文学や随筆、
女流文学の発達に大きな影響を与えた。
《ウィキペディアより》



茶の湯・茶道ランキング



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする