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村雨庵 茶の湯日記

日々是茶の湯

ふじわらのかねすけ

2014-12-21 19:31:53 | 三十六歌仙
今日は三十六歌仙のひとり
藤原兼輔 ふじわらのかねすけ

堤中納言とも呼ばれ堤中納言物語
紫式部はひ孫にあたる
主君は醍醐天皇、朱雀天皇につかえた
平安期前期から後期
877~933
百人一首にも27番
みかの原 わきて流るる いづみ川
いつみきとてか 恋しかるらむ

妻は25番三条右大臣(藤原定方)の娘
名にし負はば 逢坂山の さねかづら
人にしられで 来るよしもがな



今日は藤原兼輔
藤原 兼輔(ふじわら の かねすけ、元慶元年(877年) - 承平3年2月18日(933年3月21日))は、
平安時代中期の公家・歌人。
藤原北家、右中将・藤原利基の六男。
官位は従三位・中納言。
また賀茂川堤に邸宅があったことから堤中納言とよばれた。
三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言兼輔。


醍醐天皇の外戚であったことから、その春宮時代より仕え、
寛平9年(897年)に醍醐天皇が即位すると昇殿を許される。
醍醐天皇に非蔵人として仕える傍ら、
讃岐権掾・右衛門少尉を経て、
延喜2年(902年)従五位下に叙せられる。

和歌・管弦に優れる。
従兄弟で妻の父である三条右大臣・藤原定方とともに
当時の歌壇の中心的な人物であり、
紀貫之や凡河内躬恒など多くの歌人が邸宅に集まった。
『古今和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に56首が入集。
家集に『兼輔集』がある。
≪ウィキペディアより≫



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こまち

2014-12-12 23:40:38 | 三十六歌仙
今日は 月に一度の茶の稽古
年末ゆえに難しい点前ではなく
七事式の
炭付花月と茶カブキをした
でも
それはそれなりに
難しいのだが
札を引いたり
茶を飲み当てるのも
見ているだけでも楽しい
簡単そうでも当てるのは
中々至難のわざ
今日は一人も ゛当たらず


写真は
小野小町

小野 小町(おの の こまち、生没年不詳)は、
平安時代前期9世紀頃の女流歌人。
六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
小野小町の詳しい系譜は不明である。
彼女は絶世の美女として七小町など数々の逸話があり、
後世に能や浄瑠璃などの題材としても使われている。
だが、当時の小野小町像とされる絵や彫像は現存せず、後世に描かれた絵でも後姿が大半を占め、素顔が描かれていない事が多い。故に、美女であったか否かについても、真偽の程は分かっていない。

出自
系図集『尊卑分脈』によれば
小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。
また、数々の資料や諸説から
生没年は天長2年(825年) - 昌泰3年(900年)の頃と考えられている。
しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、
他の史料には全く見当たらない。
そればかりか、小野篁の生没年(延暦21年(802年) - 仁寿2年(853年))を考えると篁の孫とするには年代が合わない。

血縁者として『古今和歌集』には
「小町姉(こまちがあね)」、
『後撰和歌集』には「小町孫(こまちがまご)」、
他の写本には「小町がいとこ」
「小町姪(こまちがめい)」
という人物がみえるが存在が疑わしい。
さらには、仁明天皇の更衣(小野吉子、あるいはその妹)で、
また文徳天皇や清和天皇の頃も仕えていた
という説も存在するが、確証は無い。
このため、架空説も伝えられている。

また、「小町」は本名ではなく、
「町」という字があてられているので、
後宮に仕える女性だったのではと考えられる
(ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する)。

前述の小町姉が実在するという前提で、
姉妹揃って宮仕えする際に姉は「小野町」と名付けられたのに対し、
妹である小町は「年若い方の”町”」という意味で
「小野小町」と名付けられたという説もある。
≪ウィキペディアより≫


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なりひら

2014-12-05 23:17:41 | 三十六歌仙
久しぶりに茶事の案内を書いた
確かにあったはず
ごそごそと巻紙を探した
嵩山堂の封筒と切手を用意し
硯を開ける
筆が固まってしまっている
あとはただ
墨を磨る

いざ書き始めると
文章がどんどん変わっていく
でも仕方ない
思うがままを巻紙に書きすすめ
四名様にお手紙を書いた
今日の仕事はこれのみ
明日投函しよう


写真はなりひら
色紙の歌は
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし — 『古今和歌集』撰歌。



在原 業平(ありわら の なりひら、825年(天長2年) - 880年7月9日(元慶4年5月28日))は、
平安時代初期の貴族・歌人。
平城天皇の孫。
贈一品・阿保親王の五男。
官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
六歌仙・三十六歌仙の一人。
別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。
全百二十五段からなる『伊勢物語』は、
在原業平の物語であると古くからみなされてきた。
≪ウィキペディアより≫




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へんじょう

2014-12-05 00:24:46 | 三十六歌仙
木曜稽古は
午後から雨になった
お弟子様は森金さまのみ
大円草を稽古
おひとりでは
稽古も 寂しい
その分
ミッチリお点前を直した
次回は指先まで
決まっている
ハズ




三十六歌仙
今日は 遍昭

遍昭
(へんじょう、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、
平安時代前期の僧・歌人。
俗名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)。
桓武天皇の子である大納言・良岑安世の八男。
母は光孝天皇の乳母とする説がある。
子に素性法師がいる。
六歌仙および三十六歌仙の一人。
官位は従五位上・左近衛少将。
花山僧正とも号す。
小倉百人一首などでは僧正遍昭。
≪ウィキペディアより≫

色紙に書かれている歌は

たらちめはかかれとてしもむばたまの我が黒髪をなでずやありけむ(後撰1240)


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さるまるだゆう

2014-12-01 21:13:42 | 三十六歌仙
短歌を学ぶもの
また茶の湯をするものとしても
歌仙を知ることは必須である

六歌仙では少ない、百人一首では多い
まずは三十六名を覚えたらいいのではと
紫先生に薦ススめられた

10月の京都でも
高台寺の圓徳院と、
三十三間堂を仏堂として持っている妙法院にも
三十六歌仙の扁額が飾ってあった

古筆でも絵画でも三十六歌仙を覚えておくと、
より楽しめるぞ

覚えよう
ひとまろ、あかひと、やかもち

今日は猿丸太夫
花札の紅葉に鹿の歌
奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の声聞くときぞ秋は哀しき


猿丸大夫(さるまるのたいふ / さるまるだゆう)とは、
三十六歌仙の一人。生没年不明。
「猿丸」は名、大夫とは五位以上の官位を得ている者の称。

元明天皇の時代、または元慶年間頃の人物ともいわれ、
実在した人物かどうかすら疑う向きもある。
しかし『古今和歌集』の真名序(漢文の序)には
六歌仙のひとりである大友黒主について、
「大友の黒主が歌は、古の猿丸大夫の次なり」と評していることから、
すくなくとも『古今和歌集』が撰ばれた頃には、
それ以前の古い時代の人物として
ある程度巷間に知られていたものと見られる。

さらにその出自についても、
その名が六国史をはじめとする公的史料に登場しないことから、
これは本名ではなかろうとする考えが古くからあり、
山背大兄王の子で聖徳太子の孫とされる弓削王とする説、
天武天皇の子弓削皇子とする説や道鏡説、
また民間伝承では
二荒山神社の神職小野氏の祖である「小野猿丸」とする説
など諸説あるが不明。
哲学者の梅原猛は、
著書『水底の歌-柿本人麻呂論』で
柿本人麻呂と猿丸大夫は同一人物である
との仮説を示しているが、これにも有力な根拠は無い
≪ウィキペディアより≫



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やかもち

2014-11-30 00:34:31 | 三十六歌仙
三十六歌仙の大伴家持
大伴 家持(おおとも の やかもち、養老2年(718年)頃 - 延暦4年8月28日(785年10月5日)
奈良時代の貴族・歌人。
大納言・大伴旅人の子。
官位は従三位・中納言。
三十六歌仙の一人。
小倉百人一首では中納言家持。

『万葉集』の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、
大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。
天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。
≪ウィキペディアより≫

色紙に書かれている歌は
読みづらいが
家持の代表歌のひとつだ

春の野に
あさる雉キぎしの
妻恋ひに
己オノがあたりを
人に知れつつ





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あかひと

2014-11-18 22:11:55 | 三十六歌仙
山部 赤人、
生年不詳 - 天平8年(736年)?)は、
奈良時代の歌人。
六歌仙の一人。
姓は宿禰。
大山上・山部足島の子とし、
子に磐麻呂がいたとする系図がある。
官位は外従六位下・上総少目。
後世、山邊(辺)赤人と表記されることもある。
≪ウィキペディアより≫


人麻呂とともに歌聖と呼ばれる

山部赤人の色紙に書かれている歌は

和歌の浦
汐満ちくれば片男波
芦辺をさして
田鶴鳴き渡る

明日は
羽田から石見空港へ行く
金曜日、厳島神社での献茶に参加する
ついでに観光して萩で一泊
翌日は広島へバスで向かう
宮島で一泊
二泊三日の小旅行
今日は早く寝よう



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ひとまろ

2014-11-14 23:41:04 | 三十六歌仙
今度の日曜日はデレラ嬢の茶事
社中の茶事で
客は三名
水屋は二名
亭主を入れて六名
少人数でも支度には変わりない
一人ではもう支度は出来ないので
手伝ってもらい何とか半分以上は片付いた
でもまだまだ仕事はある


柿本人麻呂
斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)頃)は、
飛鳥時代の歌人。
名は「人麿」とも表記される。
後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。
また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
≪ウィキペディアより≫

歌は
ほのぼのと 
あかしの浦の 朝ぎりに 
島がくれゆく 
舟をしぞ思ふ


他の代表歌は

天離アマザカルる
鄙ヒナの長道ナガヂを
恋ひ来れば
明石の門トより
大和島見ゆ


東ヒムガシの
野にかげろひの 立つ見えて
かへり見すれば
月かたぶきぬ


ま草刈る
荒野にはあれど
黄葉モミヂバの
過ぎにし君が
形見とぞ来し


近江の海
夕波千鳥
汝が鳴けば
心もしのに
いにしへ思ほゆ




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