新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

『嵯峨野明月記』

2012年04月27日 | 本・新聞小説

061031toruko_215本が少々汚れていようと折れ曲がっていようと要は中身が問題で、それが「本の役割」なのだと単純素朴にずーっとそう思い込んでいました。

そんな私に衝撃を与えたのが、’05年に世田谷美術館で見たコーランの書かれた金ぴかの重厚で豪華な美しい本でした。

その後スペインやトルコ旅行で展示されている本を見るたびに、イスラム社会の高度な文明に深く心を打たれました。「日本にはこういうのはないな・・・」と。(写真はトルコのコンヤで見た本です)

そしてつい先ごろ、京都の古書展で5000万円の豪華「嵯峨本」が売りに出されるというニュースを耳にしました。日本にも豪華本があったのだ・・・、とさっそく調べてみると、日本の印刷の歴史において有数の美しさを持つといわれている本で、その出版を起こしたのが角倉素庵。書を本阿弥光悦、下絵が俵屋宗達という豪華メンバーだったことを知りました。その本が出来上がるまでの芸術家たちの生き方、生きざまを描いた本、辻邦生『嵯峨野明月記』を知り、さっそくAmazonでお取り寄せ。

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時代は織田信長の京都制圧、本能寺の変、豊臣政権、大阪城の落城、徳川の台頭と殺伐な戦乱の世でした。一の声:本阿弥光悦 「私」。二の声:俵屋宗達 「おれ」。三の声:角倉素庵 「わたし」を使い分けて、それぞれの内面を深く掘り下げた独白形式でストーリーはすすんでいきます。三つの声が、それぞれの幻の嵯峨本を目指して途中から微妙に交わり一つに編み上がっていくという筋書きです。

本阿弥光悦(1558~1637)は刀剣の鑑定、研磨の家業を継ぎ、傍ら寛永の三筆といわれる書、陶芸、茶の湯などを愛し、当代の知識人と交流し、秀吉 家康 前田利家に重用されます。

俵屋宗達(~1643)は裕福な織屋の一門に生まれ、染め織の下絵を見ながら絵の才能を膨らませていき、それまでにない画法を編み出すべく苦悩します。

角倉素庵(1571~1632)は海外貿易で財をなし、土木工事に力をつくした豪商の家にうまれ家業を継ぎます。父は著名な了以。蔵にある膨大な書を読みこなし、実学と学問のはざまで悩みますが、本の出版という強い欲求を成し遂げます。

当時の歴史的な背景の中で、文化意識の高い上層の人々の交流、公家から町人に至るまで本を求める心、戦乱で荒廃した中から感じ取ったもの・・・などが絡み合って「嵯峨本」が出来上がっていきます。3人が同時代に生きたということは素晴らしいめぐりあわせだったと思います。

宗達が平家納経の修復に携わったことから豪華な絵を着想し、商人から得た料紙の知識などその時々のひらめきも面白く、表現に苦悩する場面ではここに風神雷神図の着想があったのかもと想像していくのも楽しく思われました。

辻文学はとにかく日本語が美しく、どの場面をとっても抒情的な日本の四季の美しさとそれからくる精神性が感じられます。司馬さんのすぱっと歯切れの良い文体は歴史文学にぴったりだし、芸術的な展開のストーリーには辻さんの文体はまさにぴったりです。

  ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪  嵯峨本  ♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪:;;;:♪

嵯峨本は手書きではありません。手書きの味わいを損なわないように木製の活字(木活字)で印刷されたものです。原則的には一文字の木活字ですが、ひらがなの美しさを表すために二文字、三文字・・と長方形に彫られたものもあります。雲母の粉を紙に刷り込んだ「雲母刷り(きらずり)」の用紙を使い、装丁にも意匠が凝らされた豪華本です。

織田から徳川へと変革期に作られた木活印刷は江戸初期を最後に途絶えます。江戸の安定した世の中になると庶民にまで高い需要をもたらし、一枚版の木版印刷に変わっていきます。

時代が生んだ豪華本。その『嵯峨本』を実際に見たことはありませんが、日本にこんな美麗な豪華本が存在したという事実が残っているのは嬉しいことでした。

Cimg8969左の写真は嵯峨本ではありませんが、書:本阿弥光悦、下絵:俵屋宗達 『四季草花下絵和歌巻』で、『嵯峨野明月記』の表紙に使われている絵です。

’10に福岡市美術館で開催された「シアトル美術館展」 (過去ブログ)で、やはりこの二人になる『鹿下絵和歌巻』を見ました。その展示の巻物全部がシアトル美術館のHPで見ることができます。

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