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新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

『後白河院』

2012年04月20日 | 本・新聞小説

NHKの大河ドラマ「平清盛」が放映されています。帝と上皇と法王が対立し、それを摂関家や公卿が取り巻き、それぞれが他を陥れるために策をめぐらし、それにまた抬頭した武家が加わり、よほど丁寧に観ていないとストーリーが混乱してしまいます。

Photo_2松田翔太扮する破天荒な雅仁親王(のちの後白河天皇)の登場は度肝を抜くほど印象的でした。その後白河天皇の事を書いた本が井上靖 『後白河院』です。以前に一度読んだことがありますが、人物相関図が複雑でもう忘れてしまいました。

今回の大河ドラマで登場人物の「顔」が設定されているので、再読するにはイメージしやすくいいチャンスでした。なんとこの本は新潮文庫の『人生で二度読む本』に指定されていたのです。二度読んでもすらすらと内容を話せるわけではありませんが・・・。

内容は四部に分かれていて、後白河院の周辺にいた四人の語り手が後白河天皇を中心に据えて、めまぐるしく変わりゆく世の中を語るという形式で構成されています。大河ドラマで出てくるであろう所を本の前半から記しておきます。

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雅仁親王は、今様の歌、田楽、猿楽に興味があり自身もなかなかの腕前。白拍子を宮中に呼び物議を醸しだしたこともある遊び好き派手好きの性格でした。天皇の継嗣問題では埒外にあり、弟君の近衛帝が先に御位についています。

後白河帝践祚は美福門院、法性寺(忠通)、鳥羽法王が押し、内裏では対立派の崇徳上皇と忠実、頼長が遠ざけられ、この時に姿を現したのが信西入道です。当時は頼長と並び称されるほどの「宏才博覧並びない」学者で、新帝に関する一切を取り仕切るようになります。

後白河帝の反対勢力(崇徳上皇、頼長)を後白河方の清盛、義朝が追い、崇徳上皇と頼長は逐電し保元の乱はあっという間に終わりました。信西がその後の混乱を鮮やかに収拾し、新しい時代を取り仕切り上下の心を一つにまとめていった手腕は卓抜なものでした。

しかし後白河帝は信西に対して自然に距離を置き憎しみすら感じるようになります。それと同じくして後白河帝は若き公達・藤原信頼を寵愛し重用し傍若無人ぶりを発揮します。後白河帝が譲位ののち院政を敷くようになると、院を挟んで信西と信頼は対立しあい、それが源平二氏の争いの平治の乱に発展していきます。

信西は清盛と結んでいましたが、清盛の留守中に信頼・義朝軍の追われ自刃。信頼は一時政権を握った格好になりますが周囲の朝臣たちに見限られ、清盛に信頼追討の勅命が下されます。わずか一か月足らずの間に信西と信頼の二人の権力者は後白河院の周辺から姿を消してしまいました。

「武家の興隆期に際して、力を持ったものとはあえて正面から敵対することを避け、対立勢力を巧みに操りながら力の牽制をはかり、善良な野心家たちが身を滅ぼしていくのを平然と見守っている」ような後白河院の姿は深いなぞとされています。

時代が動いて行くなかで、後白河院は義仲、頼朝、義経と接触し無節操な宣旨院宣を出しながら、「源氏の動静を鋭敏に見据える姿は周囲の人々にとっても理解をこえたもの」であり陰謀家と呼ばれる所以のようです。

第二部では、建春門院に仕える中納言の語りです。建春門院の姉時子は清盛の妻で、夫である後白河院と義兄である清盛の間で揺れ動く複雑な心境を描いています。病に伏していた建春門院の崩御を境として後白河院と清盛の間柄は張りつめたものになり鹿ケ谷事件がおこります。

第四部の最後に、後白河院崩御に際してその所領の処分の遺詔があり、鳥羽法皇と美福門の遺領と頼朝寄進の土地など広大な領地の大部分を後鳥羽天皇が受け継いだことを「実に見事と申し上げるほかはなかった」と語り、日録に『今法王、遺詔に於いて、巳に保元の先蹤に勝ること百万里、人の賢愚得失まことに定法無き異なり』と認めたとありますが、これは井上氏の言葉でもあるのかもしれません。

平安末期の院政の裏面史として権力の座にある人たちの心をえぐりだした歴史小説で、井上氏独特の繊細な描写や語り口にはいつも日本語の美しさを感じます。巻末にふられた注解が平安時代を理解するのに広がりを持たせてくれました。

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ドラマの最初に流れてくる『遊びをせんとや生まれけむ、戯(たわぶ)れせんとや生(む)まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ揺(ゆ)るがるれ…』は、後白河院が編んだ今様の歌『梁塵秘抄』から採られたものです。

「遊びをせんとや生まれけむ・・・」のフレイズはしばしば耳にしたので近代に作られたものだとばかり思い、子供の情景を的確にとらえていると感心していましたが、なんと12世紀に後白河院が後世に残すために本にしたものの一節だったのです。

後白河法皇『梁塵秘抄』も、かつてテストのためにだけ丸暗記した書名でした。これを横に広げていけばこんなに複雑な歴史が隠されていたのだと感じ入っています。

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