『死とは何か』より ペストの時代 災害の時代
たしかに、含みを持たせた方がよいだろう。中世後期、死の勝利は異論のないものだったとする融通のきかない悲劇的な見方に対しては、歴史家たちが立ち上がり、人口衰退は全ヨーロッパを見舞ったのではない、ということを指摘している。衰退現象はスラヴ人の東ヨーロッパでは見られなかった。他の地域では、黒死病の影響は強かったり弱かったり、様々である(イタリアでは強く、フランドル地方では弱い)。だが、立ち直りは早い時期に起こり、顕著なものだった。さらに、南ドイツの都市の繁栄に思いをいたすならば、間違いなく樵悴している顔を見せるのは百年戦争で疲弊した二つの国、フランス(フランドル地方まで)とイングランドくらいのものだろう。
おそらく、そのとおりだろう。そして、様々な土地と社会の人々が死に対してとった態度を理解するためには、このようなニュアンスは我々にとって貴重なものとなるだろう。にもかかわらず、ヨーロッパ世界は黒死病による大混乱を体験し、さらに一〇年毎の伝染病の再来によって死の存在は身近なものとなった。一四〇〇年代には、死ぬということはまったく新しい体験となったのである。
人口変動と心性の境界で、人々は、人生がより短く、もろく、脅かされていると感じる。彼らは、まるっきり間違っていたのだろうか。イングランドにおける生誕時平均余命についてのラ。セルの研究は、今でも示唆的である。一三二六年と一三四六年の間には二七歳だったものが、続く二五年間には一七歳にまで落ちている。これは、黒死病による死がもたらしたものだが、一四〇〇年には二〇歳で止まっており、一四二五年には二四歳となり、一四五〇年頃になってようやく一三世紀末の水準に戻る(三三歳前後)。
特権的だったことによって、よりよく知ることができるいくつかの集団については、中世末期の平均余命が計算され始めている。ただし、生誕時平均余命ではなく、二〇歳か、三〇歳からの平均余命である(これらの有力者は成人年齢しか分かっていないが、それでも指標となる)。結局のところ、結果はヨーロッパのあちこちで非常に似かよっている。
王族、貴族、あるいは高位聖職者においては、平民とほとんど同じくらい、命が短いように思われる。しかしながら、彼らは、おそらく伝染病からはよりよく護られていて、飢えや貧困で苦しめられることもない。一四世紀と一五世紀に調査された四三三人のイングランドの大貴族のうち、ペストで亡くなったことが確かなのはわずかに七人だった。
逆に、戦士であるこの特権的支配層の自己崩壊過程が非常に効果的だったことが分かる。百年戦争の諸戦役とばら戦争の諸抗争の間、つまり一三五〇年から一四五〇年までの間に、大貴族における非業の死は顕著に上昇する。
そこにあるのは、一世紀以上にわたって命が短く、しばしば脅威にさらされていた時代である。長期にわたって慢性化したこの新しい死の体制は、客観的にも心理的にも、いかなる表象を生み出したのだろうか。なんらかの印象主義的な叙述に依拠することを拒否するとしても、ぴったりした資料が足りないために、そのような研究は稀である。それだけに、一四〇〇年代のフィレンツェに関する研究は、時宜を得たものである。選ばれた地点は典型的と言えるだろうか。イタリアはより早く危機を脱し、おそらくはすでに回復局面にあったのだが、より正確に言えば、まさしくフィレンツェにおいて然りであった。それでも一覧表からは、依然として一五世紀という灰色の時代が見えてくる。一四二七年にはフィレンツェの住民の半数が三〇歳未満で死亡し、大よその平均余命を見積もってみるなら、男性は二七歳、女性は二八歳である。死は若い世代に激しく襲いかかる。生後六ヶ月までの乳児期の死亡を算入しないなら、三人の子供のうち一人は一五歳未満で亡くなる。次に死は四五歳以上の人々に新たな猛威を振るう。この現実の認識は、時代の著作の中に色濃く刻み込まれている。『饗宴』〔一三〇七年頃〕のダンテと、『老人の生涯の災厄と悲惨さについて』を書いたシエナのベルナルディーノ[一三八〇-一四四四。フランチェスコ会の説教師?〕は、老化において回転の早いこの世界の代表者である。D・ハーリヒーが書いているように、才人はすばやくチャンスをつかみ、すばやく舞台から消えていく。
しかしながら、明らかに逆説的ではあるが、若くして歳をとるこの世界は、歳とって夫となり、歳とって父となる世界でもある。どういうことかと言うと、この都市社会は、ますます一つの婚姻モデル、つまり女性は早婚(平均して一七歳)で、男性は晩婚(三四歳)というモデルを実施するようになる。文人たちが、この慣習を規範化するだろう。例えばアリオスト〔一四七四-一五三三。イタリアの詩人。『狂乱のオルランド』の作者〕は、三〇歳の男が一二歳か一三歳年下の娘と結婚するのが理想的だと提案するだろう。年老いた夫は、これまた年老いた父となる。さらに、当時は珍しくないことだが、産揖時に妻が死んだりすると、寡夫は若い娘と結婚し、夫婦の間の年齢差はさらに開いていく。この社会的慣習は、当時の人口変動の拘束から機械的に生ずるものでは決してないのだが、結果としては重大なもので、そのいくつかは直接、我々に関わってくる。つまり、この時代の子供にとっては、若い母親がより長生きする継続的な実在であるのに対して、父親は、この時代の通例では、四〇がらみの年取った旦那であり、ちょっと出会ったかと思うと、すぐに消え去ってしまう、所詮、つかの間の存在にすぎない。それゆえ、父親の死亡にとても早く向き合う子供たち尽とってと同様、寡婦たちの集団にとっても、こうした社会的習慣は死が至る所にあることをさらに強調することになる。
恵まれた区域に住むエリートの慣習を、フィレンツエのモデルをもとにして一般化できるだろうか。確実に、それは間違いである。しかしながら、他にも重ね合わせてみたいと思わせる事例はひとつならずある。年代記作者コミーヌ〔一四四七-一五一一〕は、五八歳で自らのことを「ひどい古物」と言った。また、一七歳でシャルル七世となった王太子シャルル・ド・フランスは、四二歳で「賢明な老人という評判とともに」死去した(E・ペロワ)。こうしたことが思い起こされる。
ジャン・メシノ〔一四二〇頃-九一〕のような〔押韻派の〕詩人たちも、それを歌にしている。
戦争があって、大量の死、飢饉があった
……要するに、貧困が支配している
命短き、我らのみすぼらしい肉体を
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