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ホットドッグはアメリカそのものである

『ホットドッグの歴史』より ⇒ NYPLでホットドッグを食べに行こう

NYPLへ行きたい

 あるときニューヨーク公共図書館近くの西42丁目を歩いていたら、小さなファストフード店の前にかなり太った男女が立っていた。ふたりとも両手にホットドッグを持っている。合わせて4つ。その横を通りすぎるとき、ひとりがしみじみとした声で、「なんといってもホットドッグだね!」と言うのが聞こえた。思わず振り返って見ると、ふたりは幸せそうに目をきらきら輝かせ、マスタードだらけのくちびるに笑みを浮かべていた。たった二言と身ぶりだけで、ホットドッグヘの愛情とそれを食べる経験がどんなものかを完璧に表現していた。

 世界中のホットドッグースタンドで同じような表情を見ることができる。これは単にソーセージとトッピングの絶妙な味わいが引き起こす現象ではなく、ホットドッグにまつわる文化的な背景によるものでもある。

 19世紀の終わり頃から、ホットドッグはさまざまな伝承と商業の発達によってアメリカ文化の一部になった。もともと「ホットドッグ」という語は、アメリカ社会の大変革の時代に人気になった、ごく普通の大量生産されるソーセージに対して使われるようになったものだ。ヨーロッパからの大量の移民、大都市圈の本格的な発達、新しい人衆娯楽、情報テクノロジーの進歩のすべてが結びついて、期待に満ちあふれたアメリカの新たな川家アイデンティティ、伝説の「人種のるつぼ」が生まれた。ホットドッグはこの国家アイデンティティの宋置となり、当時の川民的スポーツだった野球ともしばしば結びつけられた。ある自動車メーカーが1975年に、「ホットドッグ、野球、アップルパイ、そしてシボレー」という記憶に残るキャッ子フレーズでブランド化を目指したのも偶然ではない。

 アメリカ人は公共の場所でホットドッグを食べるとき、自分たちが共有するアイデンティティのすばらしさをかみしめることで、この小さなソーセージに大きなおいしさを見出しているのである。

ホットドッグ誕生

 「ホットドッグ」という名前はきわめてアメリカ的だ。社会の厳しい現実を皮肉たっぷりにとらえるアメリカ人ならではのユーモア感覚と、伝説好きの彼らの性分から生まれた名前である。また、アメリカは商魂たくましい人々の国であるから、この名前はマーケティングのツールでもある。こうして名づけられた「ホットドッグ」は、まぎれもないアメリカの食べ物といえるだろう。

 これまでわかっているかぎり、「ホットドッグ」という言葉が最初に使われたのは1893年9月28日付の『ノックスヴィル・ジャーナル』紙のある記事においてであり、「ヴィーナーヴルストの職人たちでさえ、上曜の夜に売る『ホットドッグ』の準備を始めた」と書いてある。ホットドッグの名前の由来については1920年代以来、いくつかの〝公式の〟話が流布している。なかでもよく知られている次のストーリーは、この名前の由来とされる出来事とともに、アメリカ人の考え方と文化についても多くを教えてくれる。

 1901年4月、この時期にしては寒い日のことだ。ニューヨークの野球場、ポロ・グラウンズにやってきた数少ない観客は、厚いコートに身を包むか、スタジアムで貸し出される毛布にくるまって震えていた。しかし、荒れた天気もニューヨーク・ジャイアンツ(ジャイアンツは1958年に本拠地をサンフランシスコに移動し、サンフランシスコ・ジャイアンツとなる)の熱狂的なファンたちの士気をくじくことはなかった。ここに来ているのは、数こそ少ないものの骨の髄からのファンたちだった。この負け続きのチームの観客動員数は数年前から目に見えて減少していた(ジャイアンツが伝説の選手兼監督ジョン・J・マッグローのもと優勝と多数の観客を取り戻すのは翌年の1902年以降のことだ)。

 当時の野球場はどこもそうだったが、ポロ・グラウンズも木造の建物で、座席数は少なかった。同じ場所に鉄筋コンクリート造の〝近代的〟な野球場が建てられるのは、火災で古い木造観客席が焼け落ちたあとの1911年のことである。この頃から、全米メジャーリーグチームのスタジアムが危険な古い木造から鉄骨造に建て替えられるようになった、が、それもまたやがて旧式の建築となり、現在はほとんどすべてが再改築されている。

 その4月の寒い口、ジャイアンツのファンたちは暖をとるもうひとつの手段を見つけた。食べ物である。20世紀を迎えるずっと以前から、アメリカの野球場では、ほかの公共イベントの会場と同じように、食べ物の屋台や売り子は風景の一部となっていた。ピーナッツ、チューイングガム、タバコ、ソフトドリンク、アイスクリームが、当時の人気商目川だ。球場で商品を売るのは、通常は球団が許可した販売業者だった。

 こうした販売業者のなかでも人きな成功を収めたひとりがハリー・M・スティーヴンズ(スコアブックを発明したイギリス人で、熱狂的なジャイアンツのファンでもあり、名監督のマッグローとも個人的に親しかった)で、1895年にポロ・グラウンズでの独占‥販売権を獲得していた。伝えられるところによれば、この目からニューヨークで野球と結びつけられるようになった食べ物を売るように指示されたのは、スティーヴンズのもとで働く売り子たちだった。そう、話の続きはおわかりだろう。いまでは日常語になっているその食べ物は、この日名前が与えられたのである。

ホットドッグはアメリカそのものである

 個人主義はより一般的なテーマヘとつながる。いわゆる「アメリカ例外卜義士だ。19世紀後半から20世紀のアメリカ人は、メディアや学校教育を辿して、ヨーロッパのような幟争や暴力を経験することなく物質的成功と最終的なぶぃ福を実現しつつあるのは、世界のすべての国のなかでもアメリカだけだと教えられた。ここは他の大陸、とくにヨーロッパで抑圧された人たちが、自分の力で成功をつかめる土地だった。天然資源に恵まれ、「個人の主張と達成それ自体が価値あるものとして認められる」場所だった。ジャイアンツのファンの多くとおそらくは選手たちも、同じように考えていただろう。彼ら自身も多くが貧しい移民の息子たちだった。

 ホットドッグの物語はこのすべてを映し出している。かつてはドイツのソーセージの一種にすぎなかったものが完全にアメリカ的なものとして認識され、アメリカで「発明」され、アメリカ人にとって自己アイデンティティの象徴とされるものになった。ホットドッグに込められた特別な性質のすべて--野心的な人々のためのファストフード--は、自分たちは特別なのだと考えるアメリカ人の心をつかんだ。スティーヴンズのストーリーは、この「アメリカ例外主義」を表す寓話なのである。

 この話にはもうひとつ関連したモチーフがある。宣伝と広告という、現代社会を解き明かすカギとなるものだ。

 クエンティン・レイノルズの記事は、ポローグラウンズの常連客、スティーヴンズのビジネスを引き継いだ息子たち、そしてT・A・ドーガンにとって、背中を押してくれるちょっとした応援材料になった。スティーヴンズ白身も、謙遜とはほど遠い人物であることは明らかだった。彼のジョン・マッグローとの友情と、ニューヨーク・ジャイアンツヘの愛着はたしかに本物だったが、それはすばらしい宣伝材料でもあった。彼のケータリング会社は1930年代までに多くのスポーツ施設を顧客に持ったため、その名前は競技場で売っている食べ物の代名詞にさえなった。

 スポーツイベントでのケータリングビジネスは競争が激しい。参入する企業は、優位に立つためにはどんな手段でも使う。影響力がある企業や佃人に収り入る機会をつねに探しているジャーナリストたちが、そうした話を熱心に報じるのも当然ではないだろうか。そのうえ、そこにはアメリカのサクセスストーリーのすべての要素、が詰め込まれている。つまり、私たちが実話として信じていることの多くは、広告宣伝企業のライターたちの創造物なのである。現代の神話は、彼らが生み出したものなのだ。
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