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宗教が社会に果たす役割

『メカ屋のための脳科学入門』より

社会の複雑化と心の発達

 これまで紹介してきたように人々は、とかく神々を創造し、それらに従おうとするようだ。神の創造は、意識システムの必然的な働きだったと筆者は考える。前講で解説したように、意識システムの発明により、脳はものごとの因果性を見出せるようになった。しかし一方で、意識システムは、認知的負荷を増大させてしまった。そこで冒頭に述べたように、脳は、すべてを神々に押し付けることで、認知的負荷の低減を図った。

 この脳の戦略は、単純な社会では、とてもうまくいった。単純な社会では、深く考えなくても、それなりに適切な行動を取れる。その行動の根拠を意識システムが探ったとしても、深く考えずにとった行動では、その根拠は何でもよい。たとえば、神の声に従ったことにしておけば、意識システムは納得する。

 しかし、社会が複雑化すると、適切な行動には熟慮が必要となる。その結果、意識システムが見出す行動の根拠は、神の声ではなくなった。このような行動は、絶対的な神に従ったわけではないので、さまざまな悩みや葛藤が芽生える。その結果、意識システムはフル回転し、心を劇的に発達させた。

宗教の発達

 複雑化した社会でも適切に行動するためには、神の声に代わる拠り所が必要となった。それが宗教である。つまり、複雑化する社会に脳が適応するために、生き方のマニュアルとして宗教は創り出された。その効用は、神の声と同様に脳の認知的負荷の低減である。これを裏付けるかのように、宗教的な思考では、論理的な思考と同様に前頭葉や頭頂葉が賦活する(情動系が活性化するわけではない戸。逆に論理的な思考により、宗教的な信仰心が薄れることも示されている。

 ただし当然のことながら、社会が変化すれば、適切な行動規範も変化する。たとえば、比較的単純な社会では、旧約聖書のように禁止形の行動規範で十分だった。しかし、次第に社会が複雑化すると、もっと積極的な教えが必要になった。そのような社会的な要請のもとに新約聖書が完成したと考えられる。

 最近の報告では、懲罰的な神の信仰により、知らない人との協力が助長されることが示されている。同様に地獄があると信じる人は向社会的だ。このような宗教は、複雑化した人間社会の発展を支えている。

意識はミーム?

 複雑化する社会に適応するため、脳は、心の理論や社会的知性を発達させ、他者を予測できるようになった。その結果、内観能力が発達し、意識が出現したと、二コラス・ハンフリーは論じている。社会の複雑化はさらに加速し、意識と心を劇的に発達させた。そしてジェインズが論じたように たったの1000年で、現在のような意識が確立した。しかし、このような短期間で、どのように脳は意識を発達させたのだろうか? 脳の構造(ハードウェア)を生物学的に進化させるには、1000年(≒40~50世代)は短すぎる。

 DNA以外に世代を超えて伝わる情報を考えてみよう。たとえば、言語、文化、宗教などは、人々の間で心から心ヘコピーされ、発達していく。そのような情報は「ミーム」と呼ばれる6)。意識も、ミームかもしれない。つまり、人間の意識は、DNAに設計図として書き込まれているわけではなく、ソフトウェア的に脳に実装され、発達してきた。

 われわれの意識がソフトウェアならば、人エシステムに対しても、「意識プログラム」をアップロードする日も近いかもしれない。

科学技術VS.宗教

 科学技術を極めんとする工学部の講義で、宗教を話題とすることに違和感を覚える読者もいるかもしれない。その理由は、宗教が科学技術の対極にあると考えるからだろう。しかし、脳のリバースエンジニアリングという視点に立てば、科学技術も宗教も、「幸せに生きる」という共通の要求機能を実現するために、脳が生み出した別解であると筆者は考えている。

 エンジニアの使命は、言うまでもなく、科学技術を駆使して社会を豊かにしていくことである。しかし、科学技術で豊かになった社会は、人類に幸せをもたらしているのだろうか? そのような素朴な疑問を筆者が抱く理由は、脳のメカニズムにある。われわれが幸せを感じるとき、ドーパミンをはじめ、特定の化学物質が分泌される(第29講)。そうすると、先の疑問は、次のように言い換えられる。豊かな社会により、ドーパミンをはじめ、特定の化学物質の分泌量は増えたのだろうか?

 100年前に比べれば、生活は桁違いに豊かになった。しかし、ヒトの脳の構造は大して変わっていないのだから、ドーパミンの分泌量は桁違いに増えるはずはない。したがって、ドーパミンの分泌量は、生活の豊かさに比例するわけではない。そうだとしたら、何により幸せはもたらされるのだろうか?

 ドーパミンが顕著に分泌されるのは、初めての成功を体験したときである。それまでできなかったことができるようになると、脳内では報酬信号としてドーパミンが分泌され、その結果、われわれはとても嬉しくなり、幸せになれる。これが原動力となり、科学技術の発展を支えてきた。ここで少し見方を変えれば、「できない」ことが多いほど、われわれは幸せになれる可能性が高い。子供が大人より幸せそうに見える理由もここにある。

 しかし現在では、科学技術が非常に発展したがゆえに、「できない」ことが少なくなってきた。これは、逆説的ではあるが、幸せを感じる可能性が低くなってきたということである。ここに現代社会の閉塞感の要因があると筆者は考える。ひと昔前、「できない」ことが多い社会で幸せになるためには、エンジニアは技術を磨き、いいモノを作れば良かった。しかし、大抵のことを実現できる現代社会では、技術を磨くだけでは、幸せを実感できなくなった。このジレンマに日本の産業界は苦しんでいる。米国でも、科学技術の社会的な価値は次第に低下しており, 2017年に発足したトランプ政権は、ついにアンチ科学政策を推進するに至った。

 一方で宗教は、科学技術とは全く異なる方法で(科学技術による成功体験によらずに)、幸せに生きることを追求してきた。幸せに生きるという要求機能が同じなのだから、宗教を作り出す脳のメカニズムには、エンジニアが学ぶべきヒントが隠されているはずである。世の中が求める「価値」を創出するために これからのエンジニアは、技術を磨くばかりでなく、科学技術以外の価値にも目を向けなければならない。
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