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世界史を高校で学ばないということ

高校の授業で世界史を外している。だから、卒業単位が足りないとか、補習が必要だとか、センター試験後に集中的に行うとか出ている。これって、本質を忘れているよね。高校のときに、世界史を学ばないということが、その人の一生にどれだけ悪影響を及ぼすかが議論されていない。

世界史を受験から外すことは大学でも世界史観が作られないということになります。基本となる、疑問がないし、日本史だけで比較することができない。これは歴史の流れを絶つということですよね。人間を止めるということですよね。

私の場合は大学の教養部で、数学以外に行ったもので一番覚えているのが、ドイツの戦間期の勉強です。あのドイツに第1次大戦と第2次大戦の間に何が起こって、ナチスの台頭を起こしたのか、を夏休み中、図書館で『わが闘争』とか、『西洋の没落』『自由からの逃走』などを読んでいた。ヒットラーの「ミュンヘン一揆」「クリスタル・ナハト」などの言葉もその時に習得した。

当然、その中でレーニンとかスターリンのロシアの状況、その間にあるフィンランド、バルト三国、ハンガリーなどの翻弄された歴史。それらがあって、今のEUがあり、フィンランドがあり、「キートス」「シス」という概念があり、「ノキア」の体質も出来上がった。

その歴史の出発点なしに、社会に出てから、何を元に考えようとするのか。受験というのはそんなに音楽大学のように、専門性が問われるのか? 大学は考えることのために行くはずです。そして、自分の価値観とか歴史観を作り、社会を通して、それを確認すると同時に、社会を変えていくための道具です。

高校時代に世界史は好きでした。そのダイナミックさが。日本史のせせこましいのとは、大違いでした。今はそれを教わることもできません。

ちなみに、「未唯への手紙」の最終章は「歴史」認識です。そこまでまとめるまで続けます。
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