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未唯への手紙

未唯への手紙

『ニュルンベルク裁判1945-46』

2023年10月12日 | 4.歴史
329.67ハイ『ニュルンベルク裁判1945-46』

ジョウ・J・ハイデッカー

被告人第一号、国家元帥ヘルマン・ゲーリング、死を遁れて連合国の捕虜となる

未曽有の大捜索が全開され、特にバイエルン・アルプスでは精力的に行わ連合国の捜査部隊の地図には重要地区として二ヵ所に、すなわち北はハンブルクとフレンスブルの間の地域、南はミュンヒェンからベルヒテスガーデンにかけしるしが付けられていた。首脳部の一部は陥落寸前のベルリンからデーニッツ提督のもとへとすでに脱出を敢行していた。ヒムラー、リッベントロップ、ローゼンベルク、ボルマンがこの中におり、それ以外の連中はバイエルンに潜んでいるものと見られていた。

このような状況の中で五月九日早朝、驚いたことにひとりのドイツ軍大佐がアメリカ第七軍第三六師団の最前線哨所に出頭してきた。アルプスのこの地区にはドイツ軍部隊が集結し、絶望的状況が判然としないうちは独力でまた作戦を展開しようとしていると見られていた。

ドイツ軍の大佐はベルント・フォン・ブラウヒッチュと名乗り、「ヘルマン・ゲーリング国家元帥の命を受け、軍使としてやって来た」と告げた。

最大級の獲物を捕獲するという栄誉が転がり込んできたアメリカ軍の最前線哨所は大騒ぎになった。ラウヒッチュ大佐はジープで師団司令部に連れていかれた。



ドイツの軍使が来たことはすぐに電話で司令部に知らされ、師団長のジョン・E・ダールキスト少将と副官のロバート・J・スタック准将が間髪入れず現われた。

ベルントフォン・ブラウヒッチュはアメリカの将軍たちに、ヘルマン・ゲーリングから降伏したいとの指示を受けてきた、そして元帥はツェル・アム・ゼーの近くのラートシュタットにいると語った。

実際のところ、ゲーリングは窮地に陥っていた。彼の頭上にはヒトラーのいわばダモクレスの剣が吊るされており、ナチズムの主体的崩壊にもかかわらず、射殺命令を執行しようとする狂信的なSS隊員がいないとは言い切れなかった。その数日前、ゲーリングはソ連軍包囲下の首相官邸に打電していた。

総統閣下、ベルリンの要塞で持ちこたえるとのご決断をうけ、一九四一年六月二十九日付の法律の規定に従い、今後は私が(ドイツ)国家の内政・外交の全権を行使することにご同意いただけますか?二十二時までに回答をいただけないときは、閣下は行動の自由を奪われておられますので、上記法の要件が満たされたものとみなさせていただきます。

返答は二十二時前に来たが、受取人は別の人物だった。それには次のように書かれていた。

ゲーリングは、ヒトラーの後継者たることを含めて全ての役職を解任され、反逆罪で即刻逮捕されるべし。

これには次の命令がついていた。

総統の死の際には一九四五年四月二十三日の裏切り者を処刑すべし。

最後の空軍総参謀長のカールコラー大将は、のちに次のように語っている。「SSはしかし、国家元帥に暴力を行使することをためらっていた」

「私はある部屋に連れていかれたが、そこにひとりの将校がいた」ゲーリングはニュルンベルクで尋問に答えた。「ドアの前にはSSが見張りに立っていた。そのあと、ベルヒテスガーデンが空襲を受けたあとの五月の四日か五日に、家族とともにオーストリアへ連れていかれた。マウテルンドルフという町だったが、たまたまそこを行軍していた空軍の部隊が私をSSから救出してくれた」

ゲーリングを保護下に置いたコラー大将はヒトラーから射殺命令が出されていることを知っていた。「私はかねてより政治的敵の殺害には反感を覚えており、この場合の殺害にも反対だった。結局、この命令は実行されなかった」と、コラーはニュルンベルク裁判の(ゲーリング弁護人のヴェルナー・ブロスに語っている。

ゲーリングが夫人と娘のほか、従者、女中、料理人と一緒に拘禁されたマウテルンドルフの狩猟用館で警備に当たっていたドイツ空軍軍曹のアントン・コーンレは、ゲーリングと顔を合わせたときの様子を次のように伝えている。

「私が声をかけると、彼[ゲーリング]は驚いた様子で立ち止まり、私をじろじろと眺め所属を尋ね、気さくに話しかけてきました。自分の話をきちんと聞いてくれていたら、事態は全く違っていたのだが、と語りました。彼は私に、ヒトラーが誇大妄想にかかていたことをにおわせ、戦争が終わった今、彼、すなわち国家元帥みずからドイツ政府を引き継ぐつもりだとも語りました」

コーンレはさらに続けた。「話し終えて二十歩ほど離れたとき、彼が突然地面に倒れ伏しました。彼の大きな体を抱き起こすのは大変でした。ゲーリングはモルヒネ中毒にかかっていたのです。体調がよくなかったのは、拘束されている間、SSがモルヒネを渡さなかっためだと思われます」

ゲーリングの身柄拘束とその後の救出について関係者は冷静に述べるが、少なくともこの時点では、事態がどのように展開していくか国家元帥にも皆目見当がつかなかった。彼を奪回するために、SSが反撃してくるかもしれなかった。このような状況では連合軍の保護に身を委ねるほうが良策のように見えたのである。

全てが今や終った!

ベルント・フォン・ブラウヒッチュ大佐が指定した待合せ場所にスタック准将みずからが運転してやって来た。狭い国道がカーブしていたところで、米軍のジープとゲーリングの防弾仕様のメルセデスが適当な距離を置いて停まった。スタック准将は道路に飛び降りた。ゲーリングが大儀そうに車から出てきた。

ゲーリングは挨拶のつもりで元帥杖を振り上げ、米軍人に挨拶。スタツク准将は帽子に手を当てて敬礼し、歩を進めた。全てきちんと軍人礼に適っていた。ふたりは道の真ん中で出会って正式に自己紹介し、手を差し出した。

もっともスタック准将にとって、この握手は苦いものとなる。この報道はいたるところで憤激の嵐を呼び起したからだ。

「戦争犯罪人と握手!」「人殺しと握手!」

こんな調子でアメリカ、なかんずくイギリスは、新聞が大見出しで取り上げた。騒音があまりにも大きかったので、アイゼンハワー将軍は公式に遺憾の意を表せざるを得なかった。英政府も、復興相のウールトン卿が上院で「戦争は握手で終わるゲームではない」と述べることで正式に遺憾の意を表明した。

スタック准将としては、こんなことで自分が苦況に追いこまれるとは考えてもいなかった。自分は礼を尽くしただけだと思っていた。ゲーリングは師団司令部に連行され、ダールキスト少将がこの大事な捕虜を出迎えた。第七軍司令部に報告すると、この高価な獲物を引き取るために防諜部長のウィリアム・W・クイン准将がすぐ師団に向かうと連絡してきた。



この間、第三六師団長はゲーリングと短く会話を交わした。歴戦のジョン・E・ダールキストは開放的な性格で政治に全く無知無関心だったが、その彼にも、ゲーリングが最初に言ったことはまさに驚天動地だった。

国家元帥は語った。「ヒトラーは了見が狭く、ルードルフ・ヘスはエキセンリでリッペントロップは悪党だった。なぜリッペンドロップが外務大臣になれたのか?かつて私のところにチャ―チルが語った言葉が秘かに伝えられた。次のような内容だったと思う.『なぜやつらはゲーリングのような有能な若造でなく、いつもリッベントロップを送ってくるのだろう?』そういう次第できょうは、ここにこうして自分がやって来ているのだ。いつ私をアイゼンハワーの本営へ連れていってくれるのか?」

ダールキストは、ゲーリングがドイツの代表としてまだ連合国と交渉できると信じこんでいるのを知った。こうした判断がいかに見当外れかということを、この捕虜は全く考えていなかった。一時はヒトラーに次ぐ権力者だったこの人物でも、本当の状況が分かっていなかったのではなかろうか?

ゲーリングは自分の強力な空軍について長々と話したが、同じ頃、自分の後任のローベルト・リッター・フォン・グライム元帥がキッツビューエルで捕らわれ、次のように述べていたのを知らなかった。「自分はドイツ空軍の司令官である。しかし、自分には空軍機がない」

「いつアイゼンハワーから迎えがくるのか?」ゲーリングは再び訊いた。

「そのうち来るでしょう」ダールキストはあいまいに答えた。

会談のあと、ゲーリングは運ばれてきた鶏肉、マッシュポテト豆が盛られた皿に目を見張った。ダールキスト少将を驚かせた食欲で国家元帥はこれを平らげ、デザートに出されたフルーツサラダをおいしそうに食べ、さらにアメリカン・コーヒを褒めちぎった。

「これはアメリカの兵士が普通に取っている食事である」この提供料理も世界中に憤激を招いたため、アイゼンハワー司令部は以上のような追加声明を出さなければならなかった。

師団司令部に着いた第七軍の諜報担当のクイン准将は、ゲーリングを直ちにキツビュ―エルの民家に連行するよう命じた。サレルノとモンテ・カッシーノで戦ってきたテキサス出身の七名の歴戦の兵士が、国家元帥を新たな宿舎に護送した。道中ゲーリングは護送兵に笑いながら話しかけた。

「私を抜かりなく見張りたまえ!」

彼はこれを英語で話したが、臨戦態勢にある兵士に冗談は通じなかった。

兵士に同行していたアメリカの一記者は、「彼らがいったい何と答えたかはちょっと明らかにできない」と打ち明けている。もちろん記者たちはその場に居合わせた。ゲーリング逮捕のニュースは戦場特派員たちに知れ渡り記者たちは急遽駆けつけていた。報道陣に好意的だったクイン准将が国家元帥の記者会見を保証していたからでもあった。

この間にもヘルマンゲーリングは自分のために用意された部屋を見て満足していた。家族も到着し、トラック十七台に積まれた荷物も届いた。まるでホテルに滞在しているようだった。国家元帥は大きなお風呂に入り、時間をかけてお気に入りの、重々しい金のモールがついた薄い灰色の軍服を身につけた。

その同じ時間に何万、何十万のドイツの兵士が、食事や水さえ与えられず、衛生設備もなく、雨とぬかるみの中、野ざらし状態で詰め込まれていた収容所とは、まるで全てが違っていた。

かくも悲惨なドイツ兵士の状態は、ゲーリングには全く想像もつかなかった。さっぱりとひげをって上機嫌で、気持ちのよい午後の陽光の中、二十数人の記者たちの前に軽快な足取りで現われた。

記者たちは半円を描くように、彼を取り囲んだ。壁際に小さな円卓と華麗な肘掛け椅子が置かれ、そこにこの有名な捕虜が座った。マイクロホンも用意され、カメラのシッターが切られた。「こんにちは、元帥。笑ってください!」

「こちらに顔を向けてください!」

「ありがとうございます!」

「もう一枚、帽子をかぶった写真をお願いします!」

ゲーリングは金色のひさしのついた帽子をかぶったが、いらいらして

「急いでくれ」彼はカメラマンに言った。「腹が減っているんだ」

そのあと質問が浴びせかけられた。最初は型どおりのものだった。ヒトラーはどこにいるのか?彼の死を信じているか?なぜイギリス上陸が試みられなかったのか?戦争が始まったとき、空軍はどれほど強かったのか?

「世界最強の空軍だった」ゲーリングは誇らしげに答えた。

「飛行機はおおよそ何機あったのですか?」記者はより正確に知りたがった。

「六年前のことであり、このような質問は想定していなかったので、当時どれだけの飛行機を保有していたかについては、今ここでは話せない」

「あなたはコベントリーの爆撃を命じましたか?」

「命じた。コベントリーは工業の中心地であり、大きな飛行機の製造工場があるという報告を受けていた」「カンタベリーは?」

「カンタベリーの爆撃は、ドイツの大学町への空襲に対する報復として、上の方から命令が来た」「ドイツの大学町とはどこですか?」

「覚えていない」

「戦争に負けそうだと思うようになったのは、いつごろですか?」

「(連合軍による)ルマンディー上陸作戦と東部での連軍による戦線突破の直後だ」

「この結末をもたらした最大の要因は何だったと思いますか?」

「間断ない空襲だ」

「勝利の見込みがなくなったということを、ヒトラーは知らされていましてか?」

「知らされていた。多くの軍人がヒトラーに、この戦争は負けるかもしれないと分析説明した。ヒトラーはこうした見方に拒否反応を示し、以後このことについて話すことは禁じられた」

「誰が禁じたのですか?」

「ヒトラー自身だ。彼は敗戦の可能性そのものをそもそも考えないようにしていた」

「これはいつごろ禁止されたのですか?」

「最初にこのことが人々の口に上り始めた、一九四四年半ばごろだ」

「ヒトラーがデーニッツ提督を後継者に指名したということを信じますか?」

「信じない!デーニッツあての電報にはボルマンの署名しかない」

「なぜボルマンのような取り柄のない人物が、ヒトラーにかくも大きな影響を及ぼすことができたのですか?」

「ボルマンは昼夜ずっとヒトラーのそばにいて、彼を次第に自分の意思に従わせ、ついには彼の生活全体を支配するようになった」

「誰が対ソ攻撃を命じたのですか?」

「ヒトラー自身だ」

「強制収容所については、誰に責任があるのですか?」

「ヒトラー自身だ。これらの収容所に何らかの形で関係していた連中は、全員ヒトラーに直属していた。国家機関は一切これに関係していない」

「あなたはドイツについて、どのような未来を期待していますか?」

「もしドイツ国民に生存の可能性がないなら、ドイツだけでなく全世界にとっても暗黒の未来しかないだろう。全ての人は平和を望んでいるが、今後何が起こるかを予想するのは難しい」

「国家元帥の心境としてさらにまだここで表明したいことがおありですか?」

「ドイツ国民の助けになるような状況理解を喚起したいと思っている。勝利の展望がまるでなくなったことが明らかになったときでも、武器を手放さなかったこの国民には大いに感謝している」

会見の模様をできるだけ速く自分の新聞社に打電するために、記者たちは急いだ。しかし、この日はついていなかった。アイゼンハワー将軍の命令で、連合国司令部の検閲官は電報の発信を許可しなかったからである。そのまま九年が経過し、一九五四年五月になってようやイン准将は秘密にされていた記者会見の速記録をアメリカのニュース雑誌に公表した。

もっとも、記者会見の前にゲーリングに対して出された一つの質問だけは、検閲を潜り抜けてアメリカの新聞に掲載された。

「あなたが戦犯リストに載せられていることは御存知ですか?」

「いいや、知らない」ゲーリングは答えた。「それは意外だ。何故なのか、見当もつかない」

夜になった。国家元帥は床についた。スプリングの効いたやわらかなベッドで眠ることができたのは、これが最後だった。部屋の前にはニューヨーク出身のジェローム・シャピロ少尉が見張りに立っていた。

SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの最期

一九四五年二月の下旬、スウェーデンの赤十字の代表が、航空機からもはっきり判別しうるように赤十字のマークが描かれた白い自動車で、廃墟となったドイツを走っていた。この人物こそ、国際連合の調停委員として、三年後にイェルサレムで暗殺されることになるフォルケ・ベルナドッテ伯爵その人だった。

彼は、恐怖の組織SSの恐るべき首領、不気味な秘密国家警察(ゲスターポ)の頭脳、絶滅収容所、ガス室、死の工場の支配者ヒ・ヒムラーと会おうとしていた。彼はドイツ警察および国内予備軍の司令官でもあったヒムラーを説得して、強制収容所に収容されているデンマーク人とノルウェー人を解放し、赤十字組織によってスウェーデンまで連れ帰ろうとしていた。

二月十九日、伯爵はベルリン郊外ホーエンリューヒーの野戦病院でヒムラーと会見。このSS全国指導者ンの崩壊が迫る中、多重の任務を果たせなくたため、仮病を使って入院し、厄介な問題の処理を他の連中に任せていた。

会談は悪名高い病院長カール・ゲープハルトの部屋で行われた。フォルケ・ベルナドッテは回想録で次のように述べている。

角縁眼鏡をかけ、階級章のない緑色の武装SSの制服を着たヒムラーが突如、目の前に現れたが、最初は木端役人のように見えた。街中で出会ったとしてヒムラーであるとはわからないぐらいだった。彼の手は小さく繊細でぴりぴりし、マニュキュアさえ施されていた。悪魔的なところは全く見られず、彼の表情にも冷酷非情さは感じられなかった。

しかしこの人物は、ほんの少し合図だけで何十万もの命を奪い、何百万人も根絶できると、長いあいだ全ヨーロッパで恐れられていた人物でもあった。

偏狭な狂信者、優柔不断とサディスティックな支配欲に凝り固まっていた男――中流家庭出身のこの人物の父親はバイエルン王国の王子ハインリヒの家庭教師を務め、ヒムラーの名前も王子が名付親になったことに由来していた。

ヒムラーは、はじめシュライスハイムで養鶏業と化学肥料の販売につとめていたが、モンゴルの専制支配者チンギス・ハーンに熱をあげ一九二〇年代の反革命義勇軍に入り、造反者グレーゴル・シュトラッサーの秘書になった。その後ヒトラーに次ぐ強大な権力者となっても薬草の栽培を奨励する一方で、身の毛もよだつような人体実験も行った。次第に全ての権力を自分の手に集め、無制約に命令を出せるようになり、ついにはヒトラーの後継者になることが唯一の目標となっていた。

ベルナドッテの人道的要請にはどう応えようとしていたのだろう?ヒムラーは、強制収容所のスカンディナビア人収容者を解放してスェーデンに運ばせるという要請を最初は拒否した。

「もし私があなたの要請に応じたら、戦争犯罪人ヒムラーは自分の行為の報いを恐れており、そのため土壇場で身代金のかわりに捕虜を自由の身にすることで、世界に対して嫌疑を晴らそうとしたとスウェーデンの新聞は大見出しで報ずるだろう」と述べた。

彼は全体状況と自らがおかれた立場を正確に認識していた。

当時、ヒムラーの心中に何が起こっていたのだろうか?彼は警察、SS、ゲスターポ、国内補充軍等―権力を振るう主要機構を手中にしていた。そのため、さしたる抵抗も恐れることなく、クーデターを起こすことも可能だった。彼がしばしばこの考えにとり憑かれていたことは、今日では明らかになっている。しかし、彼の生涯において始終見られたように、躊躇し、優柔不断だった。ヒトラ―への忠誠を保ちたいと思う一方で、あわよくばそのくびきから逃れたいと考えていた。

「私はドイツ国民のためには何でも行う覚悟でいる」と、彼は四月はじめのベルナドッテ伯爵との二回目の会談で語った。「しかし、自分は戦い続けなければならない。私は総統に忠誠を誓い、この誓いに縛られている」

「一体全体あなたは、ドイツが戦争に事実上敗れたことがお分かりにならないのですか?」とスウェーデン人の伯爵は単刀直入に尋ねた。「あなたのような立場にある人は、盲目的に上の者の言うなりになりません。自国民の利益のためあらゆる措置を講ずる勇気を持たなければなりません」

 重信メイがいたからしーちゃんのANNでなく、パレスチナの報道を見ていた #重信メイ #久保史緒里
 入植者という言葉からは満州への百万戸政策を思い出す。
 重信メイ『「アラブの春」の正体』―欧米とメディアに踊らされた民主化革命
アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実
先週 豊田市図書館から借りて vFlat化しました
「アラブの春」の半年前にナイル川 ほとりで ツアー通訳のアムロさんからムバラク失脚させる決意を聞いていた

 アムロさんはイスラエル国旗の二本線はナイルとユーフラテスの領域を表していると言っていた

 奥さんへの買い物依頼
卵パック       148
糸コン          88
牛肉            580
食パン8枚   108
午後の紅茶   78
サッポロポテト           98
いか塩辛      298
シメサバ       358
テリヤキチキン           177
白菜            99
味噌煮込み   159
カレー煮込み 159

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