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162『宗教が変えた世界史』

162『宗教が変えた世界史』

宗教の歴史から今を知る

中東の宗教史年表

610頃神の啓示を受けたムハンマドがイスラーム教を創始

622ムハンマドがメッカからメディナに移住(聖遷)

632正統カリフ時代が始まるイスラーム教徒が各地で聖戦を行う

650頃『コーラン』が成立する

661イスラーム教がシーア派とスンナ派に分離

661ムアーウィヤがウマイヤ朝を成立

750アッバース朝が成立

751タラス河畔の戦いでアッバース朝が唐に勝利製紙法が伝来

786~ハールーン=アッラシードの治世にアッバース朝が最盛期を迎える

909シーア派の王朝ファーティマ朝が成立

932シーア派の王朝ブワイフ朝が成立

1038トルコ系の王朝セルジューク朝が成立

1056べルベル人の王朝ムラービト朝が成立

1099第1回十字軍が聖地イェルサレムを占領し、イェルサレム王国を建設

1187サラディン(サラーフ=アッディーン)が十字軍に勝利イェルサレムを奪還

1299オスマン帝国が成立する

1453オスマン帝国がビザンツ帝国を滅亡させる

1498ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を経由してインドのカリカットへ到達

1501シーア派の王朝サファヴィー朝が成立

1526インドにムガル帝国が成立する

1538オスマン帝国がスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍を撃破地中海制海権を握る

ムハンマドがイスラーム教を創始

ムハンマドは唯一神アッラーの啓示を聞き、イスラーム教を創始。ムハンマドの生誕地メッカはイスラーム教最大の聖地とされ、ムスリムたちはカーバ神殿に向かって毎日礼拝をする

ムスリムがスンナ派とシーア派に分裂

ムハンマドの後継体制の正統カリフ時代が終わると、イスラーム教はアリーの子孫のみ指導者として認めるシーア派と、多数派のスンナ派に分裂した。ウマイヤ朝はスンナ派となる



イスラーム帝国の勢力拡大

アッバース朝はタラス河畔の戦いで唐に勝利すると、中央アジアの覇権を握り、ユーラシア大陸の交易路を獲得。首都バグダードは大いに繁栄した

イスラーム帝国のアフリカ進出

7世紀前半からアフリカにも勢力を広げたイスラーム教。11世紀に成立したベルベル人によるイスラーム王朝ムラービト朝はモロッコのマラケシュを首都とした

オスマン帝国によりビザンツ帝国が滅亡

オスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落。ビザンツ建築の傑作アヤ=ソフィア聖堂は、イスラーム教のモスクとなった(のち一時博物館化、現在またモスクに)

「聖戦(ジハード)」で拡大したイスラーム教の版図

ムハンマドがイスラーム教を創始

イスラーム教はアラビア半島の都市メッカの商人だったムハンマドが創始しました。彼が唯一神アッラーの啓示を聞き、人々に伝える預言者として活動を始めたのは40歳過ぎの頃。同地には多神教が根付いており、イスラーム教は迫害されたため、ムハンマドは教徒を連れてメディナに逃れます。この出来事は聖遷(ヒジュラ)と呼ばれ、ムハンマドはそこで「ウンマ」とよばれるイスラーム教徒の共同体を築きました。メディナでユダヤ教徒ら他勢力との抗争も制し、イスラーム教徒たちはメッカの征服を果たします。このムハンマドとメッカの異教徒の戦いを「聖戦(ジハード=アラビア語で「努力する」)」と呼びます。

聖戦でイスラーム教の版図が拡大

ムハンマドの死後、イスラーム教徒は各地で聖戦という名の侵略戦争を繰り広げます。東方ではササン朝ペルシアを滅亡に追い込み、西方ではビザンツ帝国(東ローマ帝国)領のシリアやエジプトを奪って危機に追いやりました。そして、5代目カリフ(イスラーム教の指導者)ムアーウィヤがウマイヤ朝を打ち立てます。ウマイヤ朝は、西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島を征服。東はインダス川流域まで支配を広げ、8世紀中頃まで続きました。

征服された地では、「啓典の民(イスラーム教で、ユダヤ教徒やキリスト教徒のことを指す)」は地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)を納めれば、生命・財産・信仰が保護されました。イスラーム教が版図を広げた一因には、その寛容さがありました。ジハードは自分の内面での「奮闘努力」、つまり信仰心を高めることを意味します。しかしムハンマドがメッカを制圧したようにジハードは神の大義の下で「侵略戦争」となって発展し、世界各地へ影響を及ぼしました。

ムハンマドの後継者争いが今も続くイスラーム教の分裂に発展

イスラーム教がシーア派とスンナ派に分裂

ムハンマド亡き後、「カリフ」と呼ばれるイスラーム共同社会の指導者(正統カリフ)が選挙で決められました。ところが、4代カリフ・アリーが暗殺されるとウマイヤ家のムアーウィヤがカリフの世襲制をとったのです。

これに対し、「アリーとその子孫」にカリフの資格を認める少数派グループが誕生。この一群が現在のイラン、イラクに広がったシーア派です。

一方、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝をはじめ、多数派はスンナ派とよばれるようになります。スンナ派は啓典「コーラン」とともに開祖ムハンマドの言動集「ハディース」を重視します。

イランとサウジアラビアの対立が激化

スンナ派とシーア派の対立は現在も続いています。その最たる例がイランとサウジアラビアの対立です。イランとサウジアラビアはペルシア湾を挟んだ大国ですが、イランはシーア派、サウジアラビアはスンナ派国家です。この2国は政治、経済面でもライバル関係にありますが、2016年、サウジアラビアがシーア派指導者を処刑したため両国は国交を断絶。関係改善はいまだ道半ばです。

スンナ派とシーア派の緊張関係が続く国としてレバノンも挙げられます。多数の宗派を内包する同国では首相はスンナ派、議長はシーア派、大統領はキリスト教マロン派から選ぶことで各派に配慮してきました。しかし、国内のシーア派は親シリア・イランに傾き、スンナ派は親サウジアラビア寄り。各派の対立は治安悪化を招いています。サウジアラビアの隣国イエメンでは15年にスンナ派政府とシーア派系のホーシー派の紛争が激化。このように、宗派問題は中東情勢を理解する上でも重要なのです。

「イスラーム教徒は平等」がアッバース朝の繁栄を導いた

アッバース朝がイスラーム教徒を優遇

ムアーウィヤが起こしたウマイヤ朝はイベリア半島からインダス川までを領域として繁栄しましたが、8世紀半ばにアッバース朝に敗れました。

滅亡の要因はアラブ人優遇策への不満でした。ウマイヤ朝の支配者層であるアラブ人は免税ですが、イスラーム教に改宗しても、非アラブ人は、地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)の両方を負担させられたのです。これは神の前での平等という『コーラン』の教えに反します。不満を持った非アラブ人によりウマイヤ朝は倒れました。そして後を継いだアッバース朝ではアラブ人の特権はなくなり、イスラーム教徒であれば、人種や民族に関係なく、人頭税は免除とされました。

アッバース朝が繁栄する

ウマイヤ朝はアラブ帝国、アッバース朝はイスラーム帝国と呼ぶことがあります。イスラーム教徒全てを平等に扱ったアッバース朝はイスラーム教による多民族統治を実現した王朝となったのです。

アッバース朝のイスラーム教徒優遇により各地で改宗者が増加し、帝国は巨大化していきました。首都バグダードは最盛期に150万人もの人口を誇ったといわれます。

8世紀後半に登場したカリフであるハールーン=アッラシードは、巨大化した帝国が瓦解していくのを防ぐため、地方の有力者が各地を治めることを認めました。

その結果、中央アジアのサーマーン朝やエジプトのトゥールーン朝(わずか3年で滅亡)など、帝国内に事実上の独立王朝が築かれます。これらの地方王朝はアッバース朝の権威を尊重していましたが、帝国の統治は緩やかなものへと変化していきました。それはアッバース朝弱体化への始まりでもありました。

唐とイスラーム帝国の戦いから製紙技術が世界に広まった

アッバース朝がイスラーム帝国を拡大

アッバース朝が成立した翌751年、シルクロードの要衝とされた中央アジアで、唐とアッバース朝が衝突しました。これをタラス河畔の戦いといいます。唐軍の犠牲者は5万人以上ともいわれる激戦の末にアッバース朝に軍配が上がります。

こうしてアッバース朝は中央アジアの覇者となり、イスラーム勢力がユーラシア大陸の交易路を手中に収めたのです。アッバース朝の都市バグダードと各地を結ぶ交易ルートは、イスラーム教徒の商人によって発展し、インドやイランなど諸地域の文化がアッバース朝に流入しました。そして交易路は同時にメッカ巡礼の道ともなりました。

製紙技術が世界に広まる

タラス河畔の戦いでアッバース朝は唐の軍兵を多数捕虜にしたといいます。その中には製紙技術者が含まれており、彼らによってイスラーム世界に紙がもたらされました。最初はサマルカンドに製紙工場が建てられました。

中国でつくられていた紙は、西方世界で使われていたパピルスや羊皮紙と違い、軽量かつ安価で、書きやすさの面でも優れていました。紙はやがてバグダードなどイスラーム世界の各都市に普及し、12世紀にはアフリカ大陸のモロッコにも伝わりました。

紙はイスラーム世界から、さらにヨーロッパへもたらされました。12世紀半ばにモロッコからイベリア半島へ伝播したのがヨーロッパへの伝播ルートの一つ。

もう一つはシチリア島を経て、イタリアへ伝わったルートです。15世紀にドイツやイギリスで活版印刷が発明されて紙が生産されるようになるまでは、イタリアがヨーロッパの紙生産を担い、ヨーロッパ文化の成熟を支えていました。

イスラーム帝国はアフリカに進出し、ギリシアの文化を吸収した

イスラーム教勢力がアフリカに進出

勢力を増したイスラーム教勢力は、正統カリフ時代に本格化する聖戦でアフリカにもその支配を広げていきます。10世紀になると、シーア派のイスマーイール派が北アフリカ西部に住んでいたベルベル人を率い、チュニジアでファーティマ朝を開きました。その後、11世紀にモロッコのマラケシュを首都としてベルベル人による王朝ムラービト朝が成立。12世紀にムワッヒド朝(ムラービト朝に代わって成立した王朝)が衰え、キリスト教勢力が侵入するまでは、イベリア半島にまでイスラームの支配が及んでいました。

そして、13世紀になるとアフリカ内陸部にもマリ王国などのイスラーム教国が建国されていきます。

ギリシア・ローマの文化が中東に影響

イスラーム勢力が支配した地中海沿岸の征服地では、古代オリエントやギリシア・ローマの諸文明に起源を持つ学間が脈々と受け継がれていました。イランにあったササン朝ペルシアの学間の中心地ジュンディーシャーブールでは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)から追放された学者たちが様々な研究活動を続けていました。その後この地がアッバース朝の支配下に入ると、カリフ首都バグダードに「知恵の館」を設立し学問研究の伝統を継承していきます。

征服地の北アフリカには、カイロ以前のエジプトの中心都市アレクサンドリアがありました。同地はアレクサンドロス大王が建設したギリシア風の都市で、数学者アルキメデスら古代ギリシアの名だたる学者が活躍した街です。そうした風土にあって、イスラームの学者たちは古典の学問を吸収していきました。

十字軍運動の時代には、シチリア島やイベリア半島で、ギリシア語文献やアラビア語の科学書などがラテン語に翻訳され、ヨーロッパに紹介されます。

イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた

イスラーム商人が商業活動を行う

商業都市メッカから興ったイスラーム教は、キリス-教(カトリック)などと違い商業により利益を得ることを卑しいと捉える考えはありませんでした。そのため代々のカリフが帝国の版図を広げ、交易路の治安も安定させて商業的利益も高まっていきました。海のルートは地中海から紅海を通りインド洋へ、陸のルートは中央アジアを通り中国まで発達し、その中心の都市バグダードには莫大な富がもたらされました。

イスラーム商人の影響は富や交易品だけではありません。彼らはまた学問を求める研究者でもあったのです。彼らは中国やインドからも学問を帝国に持ち帰りました。

イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた

イスラーム商人が商業活動を行う

商業都市メッカから興ったイスラーム教は、キリス-教(カトリック)などと違い商業により利益を得ることを卑しいと捉える考えはありませんでした。そのため代々のカリフが帝国の版図を広げ、交易路の治安も安定させて商業的利益も高まっていきました。海のルートは地中海から紅海を通りインド洋へ、陸のルートは中央アジアを通り中国まで発達し、その中心の都市バグダードには莫大な富がもたらされました。

イスラーム商人の影響は富や交易品だけではありません。彼らはまた学問を求める研究者でもあったのです。彼らは中国やインドからも学問を帝国に持ち帰りました。

ポルトガルがオスマン帝国に対抗して、大航海時代が始まった

オスマン帝国が地中海を制覇

アナトリア(現在のトルコ)の北西部に興ったイスラーム系のオスマン朝は、セルビアやハンガリーなどの勢力と争いながら発展します。そして1453年、ついにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させました。その地はイスタンブルと改名され、オスマン朝の首都となります。

このトルコ系イスラームの帝国は「オスマン帝国」と呼ばれ、宗教面での寛容さやイスラーム法による統治で繁栄。15世紀にはプレヴェザの海戦で、スペイン連合軍側を破ると、オスマン帝国は地中海の制海権を握り、ヨーロッパとアジア圏を結ぶ首都イスタンブルを要にして発展します。

ヨーロッパで大航海時代が始まる

オスマン帝国が地中海を支配したことで困ったのは、インド進出を目指していたヨーロッパ諸国です。そんな中で活発に航路を開拓したのがポルトガルでした。12世紀、スペインやポルトガルは「レコンキスタ(国土回復運動)」を起こし、イスラーム勢力をイベリア半島から追い出すことに成功。しかしイベリア半島の多くはスペイン領となりました。そこで、ポルトガルはインド洋への航路を開拓し、貿易の利益を得ようとしたのです。しかし、地中海から紅海を通るルートはオスマン帝国の領土内。そこで、ポルトガル船はアフリカ大陸の西側を回り、喜望峰を通ってインド洋へ抜ける航路を切り開きました。こうしてヨーロッパ諸国のアジア進出が可能になり、大航海時代を迎えました。17世紀になると、海洋交易路はイスラーム商人、ポルトガル・スペイン商人、東インド会社を設立したオランダ商人、イギリス商人などが行き交い、国際色豊かに。しかしこうした繁栄は、各国の植民地政策の対立にもつながっていくことになりました。

世界中に建てられた美しきイスラーム建築


イスラーム教圏ではドームやアーチ、幾何学的な文様を特徴とする美しいイスラーム建築がつくられた

偶像崇拝が禁じられたイスラーム教では、キリスト教や仏教のような神聖人をモチーフにした絵画・彫刻はつくられませんでした。一方で、イスラーム教圏では建築技術が発展し、宮殿やモスクなどの美しいイスラーム建築が、世界各地でつくられました。

イスラーム建築の特徴はドーム(半円型の屋根)とアーチです。両方ともビザンツ帝国の様式を真似したものですが、7世紀に岩のドームがつくられて以来、継承されています。

また偶像崇拝が禁じられているため、建物の装飾には幾何学的な文様があしらわれました。文様と同じくアラビア語の文字装飾も発展し、「コーラン」の言葉が壁に刻まれることもあります。

イマーム=モスク(イラン)

イランにシーア派の帝国を築いたサファヴィー朝のモスク。青色の壁には植物模様とアラビア文字が装飾されている

ウマイヤ=モスク(シリア)

ウマイヤ朝時代に建設された世界最古のモスク。ギリシア正教の教会を転用しており、壁にはモザイクがあしらわれている

メスキータ(スペイン)

スペインに建つ後ウマイヤ朝のモスク。元はキリスト教の聖堂だったが、モスクに改築された。幾重にも連なる円柱が特徴で、「円柱の森」とも呼ばれる

スルタン=ハサン=モスク(エジプト)

14世紀に竣工したモスクで、教育施設も付随。中には教室や宿舎、沐浴用の泉を完備している。ドーム部分は墓廟になっている

シェイク=ザイード=グランド=モスク(アラブ首長国連邦)

2007年に竣工した巨大モスク。様々な建築様式を取り入れており、ペルシア絨毯にドイツ製シャンデリアと内装も豪華

スルタンアフメト=モスク(トルコ)

オスマン帝国時代に建てられた、通称「ブルー「モスク」。細長い塔はミナレット(尖塔の意)。この上から礼拝の始まりを告知する

世界遺産ガイド

~中東編~

中東では土着の神々を祀る神殿や、イスラーム教のモスクなど、様々な宗教施設が世界遺産に指定されています。

Aヨルダンペトラ遺跡

アラブの一族ナバテア人が、断崖に築いた大都市遺跡。写真はエジプトのファラオの宝物庫ともされるエル=カズネ。

登録年:1985年

Bイスラエルイェルサレム

登録年:1981年

ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教、それぞれの聖地。写真はユダヤ教の聖地・嘆きの壁です。

Cアフガニスタンバーミヤン石窟登録年:2003年

5世紀造営の巨大な石仏が、2001年にイスラーム教過激派のターリバーンに破壊されました。

Dサウジアラビアメッカ

イスラーム教を創始したムハンマドの生誕地で、イスラーム教最大の聖地。世界中のムスリムが、メッカの方角に向かって礼拝します。

登録年:2014年

Eウズベキスタンサマルカンド

トルコ=モンゴル系のイスラーム教国家であるティムール帝国の首都。青の都と呼ばれています。

登録年:2001年

トルコアヤ=ソフィア

登録年:1985年

元は東ローマ帝国時代のキリスト教の大聖堂。オスマン帝国が支配するとモスクに改築されました。
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