goo

教養のヘーゲル『法の哲学』での「所有の放棄」

『教養のヘーゲル『法の哲学』』より ⇒ 未唯空間の最終結論のキーターム「所有」に関して、へーゲルでの見解を抜き出した。自由の出発点を「所有」にしているのは意外。未唯空間では、「所有」が自由の到達点です。シェアすることで自由と平等が同時に得られる。「所有の放棄」がキーになる。

A.所有

 a.所有と自由

  「抽象法」というのは、いわゆる法、法律のことを指す。法が自由と直結するものであるということは、すでに繰り返し述べた。しかし注意しなければならないのは、ヘーゲルが、法の段階では、まだ意志が「抽象的概念」のうちにある状態でしかないと決めつけていることである。そこでは、自由の問題が個人にとって外的なものでしかない法律という次元で問題にされるだけだから「抽象的」と呼ばれるのである。しかし『法の哲学』のなかでは、ここだけが普通の意味で法学的な内容が展開されていると言える所である。では、その自由は何を出発点としているのかというと、それは所有であるとヘーゲルは答える。

   法は、まず、第一に、自由が直接的な仕方で自己に与える直接的な定在、すなわち

   (a) 占有である。これは、自分のものという意味の所有である。

  何であろうと、物件を自らの手でつかみ取ること、つかみ取って、放さないこと、それが占有(Besitz)と呼ばれているものであるが、それこそが自由の端的なあり方であるという。占有は所有とも言われている。所有という言葉はドイツ語でアイゲントゥーム(Eigentum)という。アイゲン(eigen)は「自分の」という意味である。私たちが物件を所有するということのうちには、それによって自分の特定の欲求を満足させるためという側面が重要なこととしてあるであろうが、しかし、その前に、「自由の直接的な定在」という性格、自由が「直接的」に具体的な形を取って示されるという意味があって、それこそが重要だというのである。「直接的」という言葉の原語はウンミッテルバール(unmittelbar)である。「無媒介的」とも訳せる。その方がここではその意味を伝えていると言えよう。いずれにせよ、自由というものが、他のなにものかによって媒介されて分かるというのではない特質、その端的な現れが所有であるという特質が示されるのである。そして、所有に自由が結びつけられたことに対応して、所有する主体は「人格」と呼ばれる。人格はドイツ語ではペルゼーンリッヒカイト(Personlichkeit)と言い、英語のpersonalityと同じく、もともとラテン語のペルソナ(persona)を語源にしている。ヘーゲルは、この言葉を、一般に考えられるように道徳的な意味にしたがってではなく、所有する個人という法学的概念として使っている。

  ところで、この所有する権利、所有権を有する人格は、自分と所有する物件との間の閉鎖的関係に閉じこもっているだけではない。他の人格との関係にも入っていかざるをえない。自分が所有を通じて自分の自由を自覚することができるというのと同じ権利を他の人格もまた持っているという事態に出会わざるをえないということである。そのようにして、お互いに相手の権利を認め合うということが実現されれば、所有の主体である人格は「普遍的人格」として「法的能力」を持つ存在とみなされることになる。その際注目すべきことは、このような人格は、彼が人間一般であることを意味しているというだけのことであって、彼が具体的にはどのような個人、どのような顔つきをし、どのような生まれの人物であるか、ドイツ人なのか、イタリア人なのか、ユダヤ人なのか、カトリックなのか、プロテスタントなのか、親切な人間なのか、感じの悪い人物なのかなどに関わることではないとされることである心)。そのような形で、人格による所有は、「形式的」で「抽象的」なものとして法の基盤をなすと言われる。そのような抽象性こそは、法の、とりわけ近代法の特徴をなすものということで、その考え方をヘーゲルも全面的に取り入れている。このような所にも、ヘーゲルの『法の哲学』が近代法の基本原則を前提としているものであることが示されていると言えよう。

  次には、ヘーゲルの論述にしたがって、この所有の問題を、①人格としての個人における物件の所有、②所有物の人格同士の間での移行を可能にする「契約」、③「契約」を支える法秩序に反する違法行為、すなわち「不法」の順序で検討することにしよう。

 b.人格と所有

  【自己の肉体の所有】

   所有ということで、まず第一に思い浮かぶものは、私たち一人一人による自らの肉体の所有である。ただ、肉体の所有がまず最も手近な所有の例であるとはいえ、それ以外の物件の所有とは大きく異なるものであることも事実である。たしかに私の肉体には、物件同様に私の意志にしたがって所有されるという側面がある。だから、良し悪しはともかく、自分の肉体を傷つけることも、極端な場合、自殺することも可能となるのである。しかし、私は、肉体のうちに生きている存在、肉体のお陰で生きている存在でもある。肉体と心とは不可分なものなのである。自由が心の問題だといっても、肉体が囚われの状態にあっては自由などとはとても言えないし、また、自分の肉体だからといって、勝手に扱って良いというものではないという気持ちは誰の心にもあることだろう。これは、自殺や不摂生などへの諌めといった古来続いてきた問題であるだけではなく、臓器移植が問題とされる現代においてこそ、改めて注目すべきこととなっていると言えるであろう(とは言え、この問題に対するヘーゲルの答えも、肉体は単なる所有物でもあれば、そうとも言い切れない所もあるというようなものなのだから、言ってみれば煮え切らない、常識的なものに終始しているという所はある。しかし、この常識性を深めていく所にこそ、彼の思想の最大の特徴があると言えるのであろう)。

 c.所有権の確立と時効

  次には、この肉体を介して人格が物件を占有取得すること、それによって所有権が確立されることについてである。所有権が成立する際の契機としてあげられることとしては、まず、何かしらの物件がたまたま最初にそれを手にした者に属するという、早い者勝ちの方式が考えられる。次には、その物件に標識をつけるとか、自分で手を加えて自分の思い通りの形に変形するといった契機もつけ加えられるであろう。しかし、何よりも重要なことは、所有する人格の意志というものが所有の根拠をなしているということである。そのことは、物件の所有と物件の使用との関係の考察という場面で注目すべき段階に達する。

  ある物件を所有しているということは、その所有者が自分の意向でその物件をいかようにも使用することが許されているということを意味する。ヘーゲルが考える近代の自由な所有においては、使用者はすなわち所有者でなければならない。しかし、過去の権威による封土の所有といったことはいまだに行われている。そうなれば、使用者と所有者とが別人だということもあることになる。農民が地主から土地を借りて、耕作し、農作物を年貢として地主に捧げるといった場合の農民と地主との関係がその例である。その際、名義上の所有者と実際の使用者との間では、深刻な係争が生じる可能性がある。その所有と使用との確執との関連のなかで、ヘーゲルは「時効」という概念を導入するのである。

   占有に与えられた形式と、標識とは、それだけでは外面的状態であり、意志の主観的現存を欠いている。主観的な意志の現存だけが、これらの形式と標識の意義と価値とをなしている。しかし、使用であれ、利用であれ、あるいは意志のそれ以外の表明であれ、この主観的な意志の現存は時間に属する。そしてこの時間という観点から見れば客観性というものは、この表明の持続である。この表明の持続なしには、物件は意志と占有の現実性から見放されたものとして無主物となる。それゆえに、私は時効によって所有を失ったり、あるいは獲得したりするのである。

  ある物件に対して自分の所有権を主張するために標識をつけておいたとしても、それだけでは外面的なものでしかない。肝腎なことは、この物件が自分のものだと主張する「主観的な意志の現存」がそこに注入されていなければならないことである。ある物件を自分で現に使っているとか、利用しているとかだと話はすっきりするが、そうでない場合には、言葉で主張するといった形でも自分の所有権を表明し続けなければ駄目だということになる。そのように、これは私のものだという意志を表明し続けていなければ、その物件は持ち主のいない無主物と化し、それを横取りして勝手に使用する別の人の所有物になってしまう。意志を表明し続けている持続の時間の長さこそ大事な要件であって、表明を怠っている時間が長くなると元の所有者の所有権の方が危なくなる。まさに時効だというわけである。物件に投入される主観的な意志の現存というものは、所有の意志表示がされたか否かにかかっているのであり、客観的なものとしての所有権を支えるものは、意志を表明する時間の長さなのである。

  一般には、時効というものは司法業務の能率化のために一定期間を過ぎた法的権利、法的義務を消滅させることというほどに解されているであろう。殺人を犯しても15年も逃げていれば帳消しになるといった悪評高い時効もその例であったかもしれない。それに対して、ヘーゲルは、時効問題を法の根源をなす所有権の規定に遡って考察し、所有権を支える要の位置に所有物に対する個人の意志とその意志の表明の時間という契機を浮上させて説明しようとしているのである。時効はローマ法以来のものであるとしても、時効概念を欠いて、伝統的権威が幅を利かせるようでは、合理的商取引や契約関係によって成り立つ資本主義経済などの存立も不可能なこととなるであろう。そうであってみれば、このような時効の捉え方に、ヘーゲルによるいかにも近代法にふさわしい法理解の性格を読み取ることは可能であろうし、抽象的な権利関係の背後に存在する具体的な意志の存在の理解を読み取ることも可能になってくるであろう。

 d.所有の放棄

  すでに見たように意志の自由が所有の源泉をなすというのならば、この所有を放棄することもまた同じ意志の自由にもとづいてのこととなるだろう。否、むしろ、物件に関する所有権を放棄すること、それによって私に属していた物件を無主物にするなり、他人の占有に委ねることの方が、物件を超越する度合いが増すのだから物件の占有取得の場合よりも多く自由意志が表明されているということになるというのが、ヘーゲルの見解である。そこで、「放棄は真の占有獲得である」というような一見逆説的な言葉も語られることになる。この所有の放棄ということは、譲渡される物件をめぐって他の人格との緊密な関係を作り出すという側面も持っている。物件が譲渡される際には、それをめぐって合意に基づく契約が結ばれなければならない。これに関し、ヘーゲルは、

   契約は、契約を締結した者達が相互に人格として所有者として承認し合うことを前提とする。

  と言う。法関係を支えるものが、独立した人格同士の承認(アンエアケンネン〔anerkennen〕)関係であるという考え方が明確に打ち出されているのである。

  「承認」概念は、ヘーゲルにとってイエナ期という初期の段階から重要な概念である。『精神現象学』では、いわゆる、主人と奴隷の自立をめぐる弁証法の場面で登場する。常に、個人ではなく、全体というものを出発点とするかに見えるヘーゲルの社会哲学であるが、それとは異なり自立した個人というものを出発点とする思想もないわけではない。その個人相互の自由意志に基づいて共同体を形成する理論として、相互承認の概念が存在する。そのような自立した個人が相互の承認関係を結ぶことを通じて社会が形成される、少なくとも形成されねばならない。そのような理論への願望から、相互承認の理論が持てはやされたのである。たとえば、ユルゲン・ハバーマスに見られる、ヘーゲルの承認論の導入を拠点とした革新的理論の展開もその例と見ることができるであろう。それによって全体主義的ヘーゲル解釈からの解放が図られるのである。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 地政学 ドイ... 17thシングル... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。