未唯への手紙
未唯への手紙
心ってどこにあるの?
『子どもの難問』より
心は脳に大きく影響される。だけど、脳に心があるわけではない。私の脳は私の頭蓋骨の中、ここにある。では、私の悲しみも、この頭蓋骨の中に収まっているのだろうか。そんなことはないだろう。私の悲しみは、私が経験する世界全体をいろどっている。しかし私自身は、世界のほんの一部分にすぎないこの場所にいる。その私自身と心の関係はどうなっているのだろうか。ここには、私たちを、そして哲学者たちを悩ませる、最大級の難問がある。
心はどこにもないのに、どこにでもある
いま居場所を探している心とはなんだろう? 考えたり、見たり、感じたりするものだ。心は人それぞれがもつのだから、身体のどこかに宿っているに違いない。昔は、心臓にあると思われていたけれど、今では脳にあると言われている。
でも、脳にあると言っても、ぼくらの脳を解剖したって、そこに見つかるのはニューロンと呼ばれる神経組織や、血管や血液だけだろう。バッハを聴いているとき、チェンバロの「音」は脳の中でまったく鳴っていない。青い海を見ているときも、脳は少しも「青く」染まらない。
心の一番大事な特徴は、心とはぼくのすべての経験のただ一人の主人公であるということだ。ぼくの心は、ぼくの経験する内容だけからできている。他人にはわからない、ぼくだけがもつ経験を「一人称的経験」と言ったりする。「三人称的」に接近可能な、他人と共有できる世界の知識は、この「一人称的経験」を通してしか得られない。ぼくの心だけが感ずる、あの空の〈輝き方〉は一人称的経験だ。それに対して、「あの空が輝いていること」は、他人とも共有できる、「三人称的」に接近可能な世界の状態である。
さて、心がどこにもないというのは、ぼくの一人称的経験が、三人称的に確認可能な世界のどこにも、それどころか、なんとぼくの脳の中にさえもない、ということである。ためしに今度は、バッハを聴いているきみの脳の中を覗いてみよう。というのも、きみの音の経験は、バッハを奏でているチェンバロの中にではなく、きみの中にしか存在しないのだから。しかし、このとき、きみですら自分の脳の中に見つけるのは、きみが一人称的に経験する〈音の感覚〉そのものではなく、三人称的に観察できるきみの脳の神経活動にすぎない。ところで、客観的世界というのは三人称的に共有された世界のことだから、一人称的な心はその世界のどこにも居場所がないことになる。いつかきみが感じた未来へのかすかな不安が、三人称的世界のどこにも存在していないように。
でも、ぼくの心の一人称的な経験内容って、なんだろう? それは他人がわからなくても、自分にはよくわかる。いま感じている寒さだし、空に見えている飛行船だし、さっきのきみの脳の中身だ。あれ、なあんだ。それは結局、三人称的世界そのものじゃないか。一人称的な心は三人称的な世界のどこにも存在しないのに、ぽくには、心の経験内容が三人称的世界の中身になっている。そして、心とはそれが経験する内容に他ならないなら、心は世界のいたるところに存在していることになるだろう。なぜって、ぼくの経験のすべてが世界なのだし、ぽくが経験できない世界は〈無〉だからだ。
それじゃ、世界は心がつくったのか? いや、それも違う。三人称的世界の一部であるきみの脳の側頭葉辺りに障害が起きると、忘れていた歌が突然聞こえてきたりする。つまり、きみの一人称的経験は予想もつかない仕方でいやでも変化する。だから、一人称的経験はある意味で三人称的世界からつくられる。このこんがらがった事態をどう理解したらいいのだろう。残念だけど、簡単な答えはない。ぼくらはようやく、心や脳や経験や世界についての、存在論という哲学の入り口に立ったところなのだ。
心の正確な輪郭はどうなっているのか
心と言えるものはある。これは間違いない。自分に心があると思っていたがそれは間違いだった……ということはありえない。心無しに思い違えることなど不可能なのだから。すくなくとも、ひとつの心がここにある。そしてあなたの心がそこにある。
ひとつの心がここにあるとして、それはここからどれくらいの範囲に広がっているのだろうか。無限にではない。それは時間的に限定されている。私の心は百年前には(当然)無かったし、百年後には(残念ながら)無いだろう。空間的にも限界がある。たしかに人は遠くの星に思いを馳せられる。その星の様子を想像することさえできる。そのときに、たとえば「私の意識はアルデバランに飛んでいる」と言うのもよい。だがそれは、私の心が触手のように伸び、数十光年離れた巨大な赤い星に実際に到達しているという意味ではない。
とはいえ、心は広がりのない点のようなものではない。時間的にはもちろん、空間的にも。
指先の痛みについて考えてみよう。痛みのことを考えるのは、痛みもまた心の重要な構成要素だからだ。思ったり想像したりすることばかりが心を構成するのではない (だからこそ原始的な「心」が存在する)。指先の痛みはどこにあるか。もちろん指先にある。ある人は、心は脳の中にあると言う。しかし指先の痛みは頭の中にはない (頭にあったらそれは頭痛である)。心が脳にあると言う人はきっと、心の働きに神経の働きが不可欠だと言いたいのだろう。だがもしそうなら、脳のある場所にこだわることはない。心の位置づけは末梢神経にまで広げてもよいだろう。
指先には神経が通っていて、指先が痛むには機構上その神経が不可欠である。ならば心は、諸神経が輪郭づける人型の範囲に広がっているのだろうか。
事情はたぶんもうすこし複雑だ。指先が床の一メートル上空にあるとする。そのとき、指の神経も床上一メートルのところにある。だが、その指先が痛むとして、その痛みは床の一メートル上空にあるだろうか。床上一メートルが痛いだろうか。腕をぐるぐる回すとしよう。すると指先は円運動をする。指の神経も爪も。だがそのとき痛みは回るだろうか。さらに痛い指を口にくわえる。指は口の中だ。だが口の中は痛いだろうか。指先の痛みは歯痛や口内炎の痛みに近づくだろうか。私は何かおかしな話し方をしはじめてはいないだろうか。
私の指先は、部屋の空間の誰が見ても分かる位置を占めている。そして私の指の痛みは、あきらかに指先にある。にもかかわらず、痛みは室内の空間におなじみの仕方で位置づけられていないように見える。私たちは「床の一メートル上空に痛みがある」とも「床の一メートル上空には痛みがない」とも言わない。痛みの場所はそもそもそうした言葉では語られない。心は指先やつま先まで「広がり」をもつにしても、その広がりが、空間を公共的に語る「一メートル上空」といった言葉でそのまま輪郭づけられることはないだろう。
心はここやそこにある。そしてある意味ちょっとした広がりをもつ。しかしその広がりを正確に語る言葉はまだないのかもしれない。
心は脳に大きく影響される。だけど、脳に心があるわけではない。私の脳は私の頭蓋骨の中、ここにある。では、私の悲しみも、この頭蓋骨の中に収まっているのだろうか。そんなことはないだろう。私の悲しみは、私が経験する世界全体をいろどっている。しかし私自身は、世界のほんの一部分にすぎないこの場所にいる。その私自身と心の関係はどうなっているのだろうか。ここには、私たちを、そして哲学者たちを悩ませる、最大級の難問がある。
心はどこにもないのに、どこにでもある
いま居場所を探している心とはなんだろう? 考えたり、見たり、感じたりするものだ。心は人それぞれがもつのだから、身体のどこかに宿っているに違いない。昔は、心臓にあると思われていたけれど、今では脳にあると言われている。
でも、脳にあると言っても、ぼくらの脳を解剖したって、そこに見つかるのはニューロンと呼ばれる神経組織や、血管や血液だけだろう。バッハを聴いているとき、チェンバロの「音」は脳の中でまったく鳴っていない。青い海を見ているときも、脳は少しも「青く」染まらない。
心の一番大事な特徴は、心とはぼくのすべての経験のただ一人の主人公であるということだ。ぼくの心は、ぼくの経験する内容だけからできている。他人にはわからない、ぼくだけがもつ経験を「一人称的経験」と言ったりする。「三人称的」に接近可能な、他人と共有できる世界の知識は、この「一人称的経験」を通してしか得られない。ぼくの心だけが感ずる、あの空の〈輝き方〉は一人称的経験だ。それに対して、「あの空が輝いていること」は、他人とも共有できる、「三人称的」に接近可能な世界の状態である。
さて、心がどこにもないというのは、ぼくの一人称的経験が、三人称的に確認可能な世界のどこにも、それどころか、なんとぼくの脳の中にさえもない、ということである。ためしに今度は、バッハを聴いているきみの脳の中を覗いてみよう。というのも、きみの音の経験は、バッハを奏でているチェンバロの中にではなく、きみの中にしか存在しないのだから。しかし、このとき、きみですら自分の脳の中に見つけるのは、きみが一人称的に経験する〈音の感覚〉そのものではなく、三人称的に観察できるきみの脳の神経活動にすぎない。ところで、客観的世界というのは三人称的に共有された世界のことだから、一人称的な心はその世界のどこにも居場所がないことになる。いつかきみが感じた未来へのかすかな不安が、三人称的世界のどこにも存在していないように。
でも、ぼくの心の一人称的な経験内容って、なんだろう? それは他人がわからなくても、自分にはよくわかる。いま感じている寒さだし、空に見えている飛行船だし、さっきのきみの脳の中身だ。あれ、なあんだ。それは結局、三人称的世界そのものじゃないか。一人称的な心は三人称的な世界のどこにも存在しないのに、ぽくには、心の経験内容が三人称的世界の中身になっている。そして、心とはそれが経験する内容に他ならないなら、心は世界のいたるところに存在していることになるだろう。なぜって、ぼくの経験のすべてが世界なのだし、ぽくが経験できない世界は〈無〉だからだ。
それじゃ、世界は心がつくったのか? いや、それも違う。三人称的世界の一部であるきみの脳の側頭葉辺りに障害が起きると、忘れていた歌が突然聞こえてきたりする。つまり、きみの一人称的経験は予想もつかない仕方でいやでも変化する。だから、一人称的経験はある意味で三人称的世界からつくられる。このこんがらがった事態をどう理解したらいいのだろう。残念だけど、簡単な答えはない。ぼくらはようやく、心や脳や経験や世界についての、存在論という哲学の入り口に立ったところなのだ。
心の正確な輪郭はどうなっているのか
心と言えるものはある。これは間違いない。自分に心があると思っていたがそれは間違いだった……ということはありえない。心無しに思い違えることなど不可能なのだから。すくなくとも、ひとつの心がここにある。そしてあなたの心がそこにある。
ひとつの心がここにあるとして、それはここからどれくらいの範囲に広がっているのだろうか。無限にではない。それは時間的に限定されている。私の心は百年前には(当然)無かったし、百年後には(残念ながら)無いだろう。空間的にも限界がある。たしかに人は遠くの星に思いを馳せられる。その星の様子を想像することさえできる。そのときに、たとえば「私の意識はアルデバランに飛んでいる」と言うのもよい。だがそれは、私の心が触手のように伸び、数十光年離れた巨大な赤い星に実際に到達しているという意味ではない。
とはいえ、心は広がりのない点のようなものではない。時間的にはもちろん、空間的にも。
指先の痛みについて考えてみよう。痛みのことを考えるのは、痛みもまた心の重要な構成要素だからだ。思ったり想像したりすることばかりが心を構成するのではない (だからこそ原始的な「心」が存在する)。指先の痛みはどこにあるか。もちろん指先にある。ある人は、心は脳の中にあると言う。しかし指先の痛みは頭の中にはない (頭にあったらそれは頭痛である)。心が脳にあると言う人はきっと、心の働きに神経の働きが不可欠だと言いたいのだろう。だがもしそうなら、脳のある場所にこだわることはない。心の位置づけは末梢神経にまで広げてもよいだろう。
指先には神経が通っていて、指先が痛むには機構上その神経が不可欠である。ならば心は、諸神経が輪郭づける人型の範囲に広がっているのだろうか。
事情はたぶんもうすこし複雑だ。指先が床の一メートル上空にあるとする。そのとき、指の神経も床上一メートルのところにある。だが、その指先が痛むとして、その痛みは床の一メートル上空にあるだろうか。床上一メートルが痛いだろうか。腕をぐるぐる回すとしよう。すると指先は円運動をする。指の神経も爪も。だがそのとき痛みは回るだろうか。さらに痛い指を口にくわえる。指は口の中だ。だが口の中は痛いだろうか。指先の痛みは歯痛や口内炎の痛みに近づくだろうか。私は何かおかしな話し方をしはじめてはいないだろうか。
私の指先は、部屋の空間の誰が見ても分かる位置を占めている。そして私の指の痛みは、あきらかに指先にある。にもかかわらず、痛みは室内の空間におなじみの仕方で位置づけられていないように見える。私たちは「床の一メートル上空に痛みがある」とも「床の一メートル上空には痛みがない」とも言わない。痛みの場所はそもそもそうした言葉では語られない。心は指先やつま先まで「広がり」をもつにしても、その広がりが、空間を公共的に語る「一メートル上空」といった言葉でそのまま輪郭づけられることはないだろう。
心はここやそこにある。そしてある意味ちょっとした広がりをもつ。しかしその広がりを正確に語る言葉はまだないのかもしれない。
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