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死んだらどうなるの?

『子どもの難問』より

「もし親が死んじやったら」と考えて、どうしようもなくこわくなる子どもは少なくないだろう。だいじな人を失うことへの恐れ。その痛切な気持ちは、しかし、自分自身の死に対する「こわさ」や「不安」ともまた違うように思われる。私が「無」に帰してしまうとは、いったいどういうことなのか、私には理解できない。それは逆に、自分がいま「ある」ことへと向かいもする。私は存在している。ただそのことに、眩暈のような気持ちに襲われる。

身体は遺体になる、人はいなくなってしまう

 東日本大震災は私たちにとって衝撃でした。数知れぬかけがえのないいのちが、こうも容赦なく、一瞬にして消されてしまうとは、なんということでしょう。今や「死んだらどうなるの?」は切実な心の叫びです。

 せめて遺体を弔い、葬ろうと、捜索が行われています(人の身体は、死ぬと「遺体」と呼ばれます)。身体が「死ぬ」とは、動きが止まって再び動き出すことはなく、変質(硬直したり、腐ったり)し始めることです。ですから、身体について言えば、こういう変化が「どうなるの?」への答えです。

 でも、私たちが本当に知りたいのは、「その人自身はどうなってしまうのか?」でしょう。「その人自身」とは「コミュニケーションの相手」のことです。確かに生きた身体が伴っているのでなければ、コミュニケーションはできません。でも、「その人自身」とは、身体そのものではなく、呼びかければ、応えが返ってき、仲良くしたり、喧嘩したり、また仲直りしたりと、人間同士の関係が続いてきた相手のことです。

 そこで「その人自身の死」は、その人との「永久の別れ」、つまりコミュニケーションが断たれ、再開することがないことを意味します。つまり相手がいなくなってしまったのです。ですから目下の問いは「いなくなってしまった--ではどうなってしまったのか?」ということです。答えは「どこにもいなくなった」なのかもしれません。が、人々は昔から、死者たちが行った(=逝った)先を想定して、「そこにいる」と言い合い、言葉によって死後の世界を創り上げてきました。そういう所があるという証拠はありません。それでも、そう言い合ってきたのですから、私たちもそう言い合ってもいいのです。

 問いは、「ボクは/ワタシは、死んだらどうなるのかな」でもあります。この場合、死は眠りに擬えられます。--私たちは、深く眠っている間、感じたり、思ったり、考えたりしません(=「意識がありませんと。私は何も思っていません。「何も思っていないぞ」とも思っていません(と目覚めてから振り返って思っています)。死ぬと、このような「意識のない」状態になるのかもしれません。そうだとすると、私は、身体もなく、「何も意識しない」状態で「あり続け」、眠っている場合と違い、再び何かを意識するようにはなりません。でも、もしそうなら、「私はあり続ける」といっても、「ない」のと同じではないでしょうか。

 あるいは、私たちが死んだ後の状態は、夢を見ているようなものかもしれません。身体は寝たまま、私は夢の世界でいろいろ感じたり、思ったり、考えたりします。そのように、私は、身体を離れた死後の世界で、夢を見ているようで、もっと活き活きとした本当らしい筋の通った物語りを生き続けるのかもしれません。そんな世界は「ない」とは断言できません。人間は昔からそういう世界を想像し続けてきたのです。でも、「ある」と断定もできません。何の証拠もないのですから。

人はただ一度の人生を死の観念で引き締める

 生の終わりについて考えたり、語ったりすることはできます。けれども、死の始まりや死の状態について考えたり、語ったりすることはできません。もしそれができるならば、この世に生を受けてから死ぬのではなく、はじめから死の世界に現れて、そこでひたすら死に続ける人間の物語がひとつやふたつあってもよさそうなものですが、そういう物語は聞いたことかありません。

 見るためには光が必要です。光のない闇の中では何も見えません。同様に、考えたり、語ったりするためには、五感で確かめることのできる具体的な情報が必要です。何の情報も得られない死の始まりや死の状態について、考えたり、語ったりすることはできません。

 そうはいえ、物は闇の中でも光のもとで見るのと同じ姿をしていると、私たちは信じています。暗くても明るい所と同じように物に触れることができますから、そのことを手がかりに、私たちは視覚の限界を乗り越えて闇の中でも物を見ようとします。同様に死というすべての終わりに対しても、人間はその限界を超えて死後の世界を考え、語ろうとします。この場合、手がかりは一切ありませんが、それでも私たちは考え続け、語り続けます。人間は、能力の限界、事柄の限界に直面すると、そこで引き返すことをせずに、その先に行こうとする特別な生物なのです。

 死後の世界は、天国か地獄ということになっています。善く生きた人間は幸福な天国に行き、悪いことをした人間は残酷な地獄に落ちると言われています。これは何を意味しているかと言うと、天国のイメージによって「善く生きる」ことを促し、地獄のイメージによって「悪いことをしない」ように戒めるということです。つまり、死後の世界は、「すべてが終わった後の状態」という「坊主の髪型」みたいな妙な話をすることによって、どのように生きるべきかを私たちに問いかけているのです。

 よく考えてみますと、日々の生活の中にも同じくらい不思議なものが登場します。それは未来です。未来はやがて経験することになる時間のことと思っている人が多いのですが、それは違います。現在や過去と異なり、未来は経験の彼岸に設定された時間です。日常的には、現在と過去だけでも人間は生きられます。それでも、世の中の動きにただ合わせるだけの人生に満足できずに主体的に生きようとする人々は、未来を見つめて生きています。その人たちの見つめる未来の像は、幸福の国、ひとつの天国です。

 死んだらどうなるかという問いは、ときに生きることから逃避する投げやりな姿勢の現れともなりますが、人類が長い歴史を通して問い続けてきた問いであることを考えますと、人類の生き残り作戦のひとつではないかと思われてなりません。

 人類は、医療によって寿命を延ばし、子孫を残すことによって生命のバトンタッチを行いますが、それらにくわえて、さらに人類は、死を絶えず思い起こすことによって、リセットの利かないたった一度の人生の質を高めようとしているのではないでしょうか。
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