『図説 世界史を変えた50の指導者』より
最初のキリスト教会の指導者となったイエスの忠実な弟子
ナザレのイエスの一番弟子であるぺ卜ロは、イエスから初期のキリスト教徒の指導者に選ばれた。ペトロは覚悟の決まった風格ある生き方で、初期のキリスト教信徒たちを導く理想の指導者となった。
初期のキリスト教徒のなかでペトロが権威を獲得したのは深い示唆に富む逸話による。聖書の「マタイによる福音書」によれば、イエスが弟子たちに自分を何者だと思うかとたずねると、ベトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(「マタイによる福音書」16・16)と答えた。イエスはこの絶対的な信仰の堂々たる表明にこたえて、ペトロは岩でありその岩の上に教会(キリスト教団)を建てようと宣言する。
このできごとによってペトロには新たなアイデンティティができた。イエスに従った12人のなかでも最初に弟子になったひとりであるペトロは、もともとヨハネの子シモンという名前だった。イエスの正体について堂々と発言した彼に、イエスはギリシア語で「岩」を意味するペトロスからとったペトロという新たな名を授ける。ペトロの発言には可能性を受け入れる開かれた心だけでなく、自信と勇気が表れていた。イエスを「キリスト」とよぶことで、シモン・ペトロはイエスが神の計画を実現するために遣わされたと言ったのである。「キリスト」とは「メシア」のギリシア語訳で、「神から使命をあたえられた者」を意味する。
覚悟と自然な風格
イエスは旅の説教師として活動した。弟子たちをっれて各地をめぐり歩くうち、彼はシモン・ペトロが弟子たちのなかで突出した存在であることを認めるようになる。たとえ話の意味を最初にたずねるのはペトロで、それは知識欲と思っていることを率直に発言する自信の表れだった。「マタイによる福音書」に、弟子たちのなかでのペトロの立場がわかる話がある。徴税吏がイエスのもとを訪れて神殿税を納めたかとたずねたとき、彼らはペトロに話しかけているのだ。徴税吏たちはペトロが弟子たちのりーダーだろうとあたりをつけたのであり、ペトロもグループを代表して答えている。
この自然な風格にくわえて、ペトロには指導者としての忍耐力、強靭さ、洞察力もそなわっていた。失敗を克服し、挫折を糧にさらに決意を固めるという人物だった。聖書でイエスの磔刑を語るくだりには、ベトロがイエスを知らないと言うエピソードが出てくる。しかしこの挫折にもかかわらず、ペトロは弟子たちの長の地位をとりもどし、聖書によればのちに3度(イエスを知っているかと問われて3度否定したことに対応して)イエスヘの愛を明言する。ベトロが主であるイエスに「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(「ヨハネによる福音書」21・15)と答えるたびに、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。(中略)わたしの羊を飼いなさい」(「ヨハネによる福音書」21・15-17)と返した。初期のキリスト教徒の世話役としてペトロにあたえられた権威が、ここで再確認されたのである。
イエスはペトロが3度自分を知らないと言うだろうと予言していたが、ペトロが立ちなおってふたたび一番弟子の地位につくことも最初から知っていた。彼はペトロにこれから起こることを警告したうえで、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(「ルカによる福音書」22・32)、つまりほかの信徒たちを支えなさいと指示している。イエスの目には、信仰を否定したのち立ちなおることで、初期キリスト教徒に対するペトロの権威がむしろ増すのが見えていたのだ。どんなリーダーも挫折を体験することがある。ペトロのように人格にかかわるような失敗もあるだろう。しかし失敗はかならずしも権威を傷つけない。ペトロの場合がそうであったように、困難からの立ちなおりを示すことでむしろ評判が高まる者もいる。
とらわれない心、独立独歩の人
ペトロが開かれたとらわれない心の持ち主であったことは、聖書でイエスが死からよみがえった日にも示されている。イエスが十字架にかかった3日後に、マグダラのマリアとヨハンナとヤコブの母マリアの3人の女性たちがイエスの遺体に塗るための香料と香油をたずさえて墓を訪れたが、着いてみると墓はもぬけの空だった。イエスの遺体がなかったのである。女性たちは急いで戻って弟子たちに報告するが、弟子たちは彼女たちを信じない。しかしペトロだけは墓に走って自分の目で確かめる。聖書では、ペトロが復活後のイエスに最初に出会う弟子であるとしている。
聖書の話では、イエスの昇天後、ペトロがエルサレムのキリスト教信徒たちの指導者となる。彼はイエスを裏切ったイスカリオテのユダのかわりに新たな弟子マッテヤを選ぶという重責を果たし、心を動かす説教をし、エルサレムの宗教当局の前で弟子たちの代表者として行動した。イエスに認められたペトロの自然な風格が、指導者の役割を担い、迫害や数々の困難のさなかで弟子たちをしっかりと導くことを可能にしたのだ。
ローマの指導者--最初の教皇に
ベトロは44年頃までエルサレムを活動の本拠地とした。そのあいだに広く各地を旅して、イエスの名のもとで説教をした。また、異邦人(非ユダヤ人)をはじめてキリスト教に改宗させた。その後エルサレムを出て、まずアンティオケ(現在のトルコのアンタキヤ近郊)に滞在したようだ。そしてローマのキリスト教徒の長となる。その地でネロ帝の治世に十字架にかかったとされている。ネロ帝は初期のキリスト教徒を激しく弾圧した人物である。
言い伝えによれば、ベトロは死ぬ前に最後にもう一度イエスに会ったという。ネロによるキリスト教徒迫害をのがれるためローマを去ろうとしていたペトロは、イエスが自分がかけられた十字架を背負って反対側から歩いてくる幻を見る。ペトロが「主よ、どこに行かれるのですか」とたずねるとイエスは「ローマでふたたび十字架にかかるのだ」と答える。
これを自分はローマに戻らねばならないという意昧だと理解したペトロは、ただちに引き返した。ローマに着いた直後、ペトロは十字架にかけられた。ペトロは頭を下に十字架にかかることを願ったという。自分はイエスと同じ姿で処刑されるに値しないという考えからだった。イエスの弟子として最年長かつもっとも忠実だった弟子は、初期教会の指導に捧げた数十年をこうして幕引きしたのだった。今日にいたるまで、ベトロはローマ教会の精神的象徴、2015年現在のフランシスコ教皇まで266人を数える歴代の教皇たちの初代として名高い。
最初のキリスト教会の指導者となったイエスの忠実な弟子
ナザレのイエスの一番弟子であるぺ卜ロは、イエスから初期のキリスト教徒の指導者に選ばれた。ペトロは覚悟の決まった風格ある生き方で、初期のキリスト教信徒たちを導く理想の指導者となった。
初期のキリスト教徒のなかでペトロが権威を獲得したのは深い示唆に富む逸話による。聖書の「マタイによる福音書」によれば、イエスが弟子たちに自分を何者だと思うかとたずねると、ベトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(「マタイによる福音書」16・16)と答えた。イエスはこの絶対的な信仰の堂々たる表明にこたえて、ペトロは岩でありその岩の上に教会(キリスト教団)を建てようと宣言する。
このできごとによってペトロには新たなアイデンティティができた。イエスに従った12人のなかでも最初に弟子になったひとりであるペトロは、もともとヨハネの子シモンという名前だった。イエスの正体について堂々と発言した彼に、イエスはギリシア語で「岩」を意味するペトロスからとったペトロという新たな名を授ける。ペトロの発言には可能性を受け入れる開かれた心だけでなく、自信と勇気が表れていた。イエスを「キリスト」とよぶことで、シモン・ペトロはイエスが神の計画を実現するために遣わされたと言ったのである。「キリスト」とは「メシア」のギリシア語訳で、「神から使命をあたえられた者」を意味する。
覚悟と自然な風格
イエスは旅の説教師として活動した。弟子たちをっれて各地をめぐり歩くうち、彼はシモン・ペトロが弟子たちのなかで突出した存在であることを認めるようになる。たとえ話の意味を最初にたずねるのはペトロで、それは知識欲と思っていることを率直に発言する自信の表れだった。「マタイによる福音書」に、弟子たちのなかでのペトロの立場がわかる話がある。徴税吏がイエスのもとを訪れて神殿税を納めたかとたずねたとき、彼らはペトロに話しかけているのだ。徴税吏たちはペトロが弟子たちのりーダーだろうとあたりをつけたのであり、ペトロもグループを代表して答えている。
この自然な風格にくわえて、ペトロには指導者としての忍耐力、強靭さ、洞察力もそなわっていた。失敗を克服し、挫折を糧にさらに決意を固めるという人物だった。聖書でイエスの磔刑を語るくだりには、ベトロがイエスを知らないと言うエピソードが出てくる。しかしこの挫折にもかかわらず、ペトロは弟子たちの長の地位をとりもどし、聖書によればのちに3度(イエスを知っているかと問われて3度否定したことに対応して)イエスヘの愛を明言する。ベトロが主であるイエスに「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(「ヨハネによる福音書」21・15)と答えるたびに、イエスは「わたしの小羊を飼いなさい。(中略)わたしの羊を飼いなさい」(「ヨハネによる福音書」21・15-17)と返した。初期のキリスト教徒の世話役としてペトロにあたえられた権威が、ここで再確認されたのである。
イエスはペトロが3度自分を知らないと言うだろうと予言していたが、ペトロが立ちなおってふたたび一番弟子の地位につくことも最初から知っていた。彼はペトロにこれから起こることを警告したうえで、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(「ルカによる福音書」22・32)、つまりほかの信徒たちを支えなさいと指示している。イエスの目には、信仰を否定したのち立ちなおることで、初期キリスト教徒に対するペトロの権威がむしろ増すのが見えていたのだ。どんなリーダーも挫折を体験することがある。ペトロのように人格にかかわるような失敗もあるだろう。しかし失敗はかならずしも権威を傷つけない。ペトロの場合がそうであったように、困難からの立ちなおりを示すことでむしろ評判が高まる者もいる。
とらわれない心、独立独歩の人
ペトロが開かれたとらわれない心の持ち主であったことは、聖書でイエスが死からよみがえった日にも示されている。イエスが十字架にかかった3日後に、マグダラのマリアとヨハンナとヤコブの母マリアの3人の女性たちがイエスの遺体に塗るための香料と香油をたずさえて墓を訪れたが、着いてみると墓はもぬけの空だった。イエスの遺体がなかったのである。女性たちは急いで戻って弟子たちに報告するが、弟子たちは彼女たちを信じない。しかしペトロだけは墓に走って自分の目で確かめる。聖書では、ペトロが復活後のイエスに最初に出会う弟子であるとしている。
聖書の話では、イエスの昇天後、ペトロがエルサレムのキリスト教信徒たちの指導者となる。彼はイエスを裏切ったイスカリオテのユダのかわりに新たな弟子マッテヤを選ぶという重責を果たし、心を動かす説教をし、エルサレムの宗教当局の前で弟子たちの代表者として行動した。イエスに認められたペトロの自然な風格が、指導者の役割を担い、迫害や数々の困難のさなかで弟子たちをしっかりと導くことを可能にしたのだ。
ローマの指導者--最初の教皇に
ベトロは44年頃までエルサレムを活動の本拠地とした。そのあいだに広く各地を旅して、イエスの名のもとで説教をした。また、異邦人(非ユダヤ人)をはじめてキリスト教に改宗させた。その後エルサレムを出て、まずアンティオケ(現在のトルコのアンタキヤ近郊)に滞在したようだ。そしてローマのキリスト教徒の長となる。その地でネロ帝の治世に十字架にかかったとされている。ネロ帝は初期のキリスト教徒を激しく弾圧した人物である。
言い伝えによれば、ベトロは死ぬ前に最後にもう一度イエスに会ったという。ネロによるキリスト教徒迫害をのがれるためローマを去ろうとしていたペトロは、イエスが自分がかけられた十字架を背負って反対側から歩いてくる幻を見る。ペトロが「主よ、どこに行かれるのですか」とたずねるとイエスは「ローマでふたたび十字架にかかるのだ」と答える。
これを自分はローマに戻らねばならないという意昧だと理解したペトロは、ただちに引き返した。ローマに着いた直後、ペトロは十字架にかけられた。ペトロは頭を下に十字架にかかることを願ったという。自分はイエスと同じ姿で処刑されるに値しないという考えからだった。イエスの弟子として最年長かつもっとも忠実だった弟子は、初期教会の指導に捧げた数十年をこうして幕引きしたのだった。今日にいたるまで、ベトロはローマ教会の精神的象徴、2015年現在のフランシスコ教皇まで266人を数える歴代の教皇たちの初代として名高い。
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