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未唯への手紙

未唯への手紙

指導者 ペリクレス アテネの民主制

2016年02月22日 | 4.歴史
『図説 世界史を変えた50の指導者』より

古代ギリシアの民主政を育て、アテナイ帝国を築いた偉大な将軍

古代ギリシアの政治家で将軍だったペリクレスは都市国家アテナイを繁栄に導き、民主制度を育てた。なによりも明晰かつみごとな構成の演説を行なった演説家として名高い。

紀元前431年に、ペリクレスはペロポネソス戦争の開戦1年目のアテナイの戦死者をたたえる追悼演説を行なった。その感動的な演説は、アテナイとスパルタのあいだで勃発したペロポネソス戦争(紀元前431~404年)を書き残した古代ギリシアの歴史家トゥキディデスの手によって伝えられている。この演説でペリクレスは、数百年のちまで語り草となる無類の弁舌の才と説得力のある話術を披露しながら、アテナイの偉大さを「世界に開かれた」都市国家、「すべての人間に平等な正義を」あたえる法を有する、ギリシア全土の輝かしい手本--[教訓]となる都市であるとはめたたえた。

アテナイには年末に戦死者の国葬を行なうならわしがあった。そしてもっとも位の高い市民のひとりが追悼演説を行なうことになっていた。しかしペリクレスの演説は異例のもので、まずアテナイ市民の先祖やその年の戦死者ではなく、アテナイという都市国家そのものの偉大さをとりあげ、次のように述べた。アテナイ市民は心のままに暮らしつつ、いつでも危険に立ち向かう覚悟がある。これほど自立し、有事に対処する覚悟があり、万能な市民は世界のどこにもいないであろう。ペリクレスは、先祖が築いたかけがえのないわが都市国家のためにいさんで戦いにのぞめと生き残った市民たちを励まして、情熱的な演説を終えた。[幸福とは自由の身で生きることであり、自由であるとは勇敢に行動することである]

頭脳明晰で説得が巧み

 ペリクレスは人を説得する才能によって権力の座についた。頭脳明晰で哲学の素養があり、意思決定にすぐれていた。しかし彼のリーダーシップの本質は、人々の理性に訴えかけた説得力ある話術の才にあった。

 ベリクレスの権威は、とるべき行動について聴衆を納得させる能力から生まれていた。これは、リーダーをめざす者ならだれもが必要とする資質である。リーダーに他人を納得させる力がなければ、自分の構想を実現するのに苦労するだろう。ペリクレスには名演説家もうらやむ弁舌の力があった。なかでも紀元前431年の追悼演説(トゥキディデスが後世に残した)は、歴史家たちから1863年11月19日にリンカーン大統領が行なったゲティスバーグの演説になぞらえられる。こちらも、戦没者を悼みつつ、彼らが命に代えて守ろうとした価値観をたたえた有名な演説である。

哲学の徒にして改革の推進者

 ペリクレスは裕福で有力な家系の出身で、学問に熱心だった。プロタゴラス、エレア派のゼノン(パラドックスを提唱したことで知られ、哲学者仲間のアリストテレスから弁証法の創始者とされている)、アナクサゴラスといった哲学者と交流し、彼らから学んだ。とくにアナクサゴラスからはトラブルに際しても平静を保つことを学んでいる。彼は劇作家のアイスキュロスのパトロンとなり、民会(エクレシア)と評議会と法廷を導入して貴族の政治権力に対抗したエフィアルテスの民主改革を支持した。紀元前461年にエフィアルテスが暗殺されたのち、ベリクレスは政治家として頭角を現すようになる。

 紀元100年頃にペリクレスの生涯を著したギリシアの伝記作家プルタルコスによれば、ペリクレスは非常に勤勉だったという。自分の時間をすべて政治の仕事に捧げ、自分の財産管理にはいっさい時間をさかなかった。社交の場に顔を出したのは一回きりで、それも途中で退出してしまったらしい。アテナイの民主制度を巧みに運営し、一見どれほどむずかしい事態が起きても冷静さと明晰な思考力を失わないことで有名だった。

パルテノン神殿を建設

 ペリクレスが後世に残した形あるもののうちもっともよく保存されているのは、パルテノン神殿とアテナイのアクロポリスの建築物群である。彼は紀元前447年にはじまったパルテノン神殿と437年にはじまった壮麗で巨大な門、プロピュライアの建設を監督した。ペリクレスの召集によってギリシアの諸都市国家の会議が開かれ、ペルシア人(紀元前480年にアテナイを略奪した)によって破壊された神殿を再建する計画が討議された。アテナイ主導の同盟の参加都市国家からの貢租を原資にして莫大な出費をすることに、トゥキディデス(のちにペリクレスの伝記を著す歴史家のトゥキディデスとは別人)が異議を申し立てた。ペリクレスは同盟国の貢租はアテナイによる保護への対価であり、アテナイが同盟国に保護をあたえているかぎり、得たお金は好きに使うことができるという理屈で論破し、トゥキディデスは追放された。説得の力で勝利をものにしたペリクレスは紀元前443年以降、押しも押されもせぬアテナイのリーダーとなる。

戦争での一歩も引かぬ姿勢

 紀元前460年に勃発したギリシア都市国家間の戦争は、紀元前445年、アテナイとスパルタの30年和平条約によって停戦を迎えた。その後おおむね平和的な関係が維持されるが、430年代後半になって戦争がしだいに避けられない状況となってくる。アテナイはアテナイ帝国全域でメガラ(スパルタの同盟国)の農産物を輸入禁止にし、コルキュラ(コリントスの植民都市)と同盟を結んだ。スパルタがアテナイに戦争をちらつかせてメガラからの輸入禁止の解除を迫ると、ペリクレスは妥協せず毅然とした態度をとるべきだと主張した。ささいなことに見えても、ここで引き下がればそれをきっかけに今後スパルタからの要求がエスカレートしかねないという論理である。こうして紀元前431年にペロポネソス戦争がはじまった。ペリクレスはアテナイの海軍力を基盤に、守備を柱とする戦略を立てた。

 戦争は結果的にアテナイの惨敗だった。その大きな原因はアテナイを率いるべきペリクレスの不在である。彼は紀元前430~429年にアテナイを襲った疫病に倒れていた。後継者たちはなすすべもなく、アテナイは紀元前404年にスパルタとその同盟都市国家に敗北する。しかしペリクレスの名声が翳ることはなく、アテナイの民主政と哲学の黄金期を確立した人物、古代ギリシアの象徴として世界的に有名なパルテノン神殿の建設者として、歴史に燦然たる地位を占めている。ペリクレスは彼を崇拝していたトゥキディデスの言葉を借りれば、全盛期の「アテナイの第一の市民」だった。

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