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「資本主義」はどこへ? ポスト資本主義

『地方自治の再発見』より 混迷する世界と資本主義のゆくえ--超資本主義からポスト資本主義ヘ-- 「資本主義」はどこへ?

資本主義に代わる政治経済体制の構想を「ポスト資本主義」というコンセプトで説明している人もいます。

「ポスト資本主義」というのは、はじめ、アメリカの経営学者ピーター・ドラッカーが1993年に書いた『ポスト資本主義社会』(ダイヤモンド社)で打ち出した概念です。彼は、20世紀末から21世紀にかけて、数世紀に一度の大転換が起こっているのであり、資本主義は別の新しい政治経済体制に変貌しつつあると言いました。

いまや資本・資金の大きな部分を動かしているのは、資本家、経営者ではなく、年金基金などのファンド・マネージャーであり、その背後にいるのは年金を積み立て、受給している従業員である。また利潤を求めて活動する営利企業だけが経済主体ではなく、NPOなどの「社会セクター」が有力な経済・社会主体になりつつあるとして、資本主義がそれに代わる新しいシステムに変貌しつつあるという見方を打ち出したのです。ただし資本主義の後に来る体制は、まだその姿をはっきり描けないというので、ぼんやりと「ポスト資本主義」(「資本主義以後の社会」)といったのでした。

ドラッカーのこの見解は少し先走りすぎていて、たとえば安倍内閣の下で日本の「年金積立金管理運用独立行政法人」が、株式への投資を増やして運用損を出したように、年金基金もマネー資本主義に巻き込まれる可能性があります。ロバート・ライシュが言うように、従業員・労働者がいつの間にか投資家になってしまい、超資本主義の担い手になるのです。

同じ概念を使って、資本主義の限界を論じている人に広井良典氏がいます(『ポスト資本主義』岩波新書)。広井氏の議論は少なからず水野和夫氏と重なっています。広井氏も、資本主義を「拡大・成長」の体制ととらえ、このシステムが、1970年代の石油ショックなどで示された資源の有限性によって外的な限界に達し、同時に大衆消費社会の成熟に伴う需要の飽和によって内的な限界に達したとしています。つまり、資本主義という「拡大・成長」(自己増殖)の体制がその限界に達し、中世の時代に似た定常型の社会へ移行しつつあるのではないか、というのです。

広井氏の議論の面白いところは、資本主義が政府の市場経済への介入のようなかたちで、しだいに社会化(社会主義的な要素の導入)されてきていると考え、その延長上に「ポスト資本主義」の姿をみようとしていることです。ロバート・ライシュの超資本主義を民主主義によってコントロールするという考え方をさらに突き詰めて、資本主義のなかに生まれてくる社会玉義)的要素の向こうにポスト資本主義の輪郭をイメージしようとしているのです。この発想は、バーニー・サンダースの民主的社会主義論に通じますし、1990年代までのEUの「社会モデル」にもある程度通じるのではないでしょうか。

ポスト資本主義のシナリオのなかでも、とくに注目に値するのが、「ストックの社会保障」構想です。これは、フランスの経済学者トマ・ピケティの『21世紀の資本』(2014年、みすず書房)に依拠した構想です。

資本主義は資本の自己増殖のシステムであることは、すでにみたとおりですが、それは資本主義の黄金期には、生産高や所得のあくなき拡大としてあらわれます。しかし、資源の制約や消費の飽和が起こると、生産高や所得(「フロー」)の伸びが頭打ちになります。半面、フローが蓄積されてつくられた「ストック」としての、金融資産や土地、住宅などの価値が経済の中で比重を増し、こういった資産から生まれるリターン(収益)が経済成長率や所得(フロー)の増加率を上回るのが「21世紀の資本主義」だというのがピケティの見解でした。広井氏はこの考え方を下敷きにしながら、だからストックの分配・再分配、ストックレペルの「社会保障」が必要になるというのです。ストック、つまり金融資産や土地、住宅などの分配・再分配ということになると、キャピタルーゲイン課税の強化、所得税、固定資産税の累進課税の強化、土地・住宅の公有化などが考えられます。こうした「ストックの社会保障」は、たしかに「社会主義的要素」といえるでしょう。

広井氏の議論はさらに進んで、生産や労働、資産などの大もと、「富の源泉」である自然(土地、エネルギーや環境)を人間が使うことにも課税することで、再分配・社会化を進めるというアイデアを打ち出しています。つまり、土地や資源、環境を共有財産として社会的に管理し、フローやストックでの経済的格差を是正するにとどまらず、広く人間生活の大もとになる共有財産を分かち合う考え方だというのです。

このようなコンセプトにもとづいてかたちづくられる社会のことを広井氏は「緑の福祉国家/持続的福祉社会」と呼んでいます。フローやストックの社会化・再分配が行われている国では、環境保全の実績も高く、福祉政策や環境政策のパフォーマンスは相関しあっている。それらを相乗的に高めるのが「社会化」だというのです。

「ポスト資本主義」は、経済社会の空間的単位という面からも論じられています。

すなわち、経済社会が成り立つ空間は、①コミュニテイ(ローカル)--②国民国家(ナショナル)--③市場(グローバル)という3つの層から成り立ち、①から③へと広がってきたと考えられるのですが、人間関係の性質という面から見ると①は人間同士の助け合い(互酬性・共)にもとづいてまとまり、②は政府による調整(再分配・公)によってまとめられるが、③の空間単位では、人々をつなぐ共や公の原理が成り立っていないため、もっぱら自分の「得」・利益をもとめて行動する。ロバート・ライシュの言葉で言えば、投資家や消費者ばかりがいることになるので、「超資本主義」になるわけです。

しかしいまや、ナショナルな空間では、モノやサービスの供給・需要が飽和し、グローバルな空間ではマネー経済がバブル崩壊を繰り返していて、いずれも持続可能性を失っています。いま人々が必要としはじめているのは福祉、環境、まちづくり、文化といった「現在充足的」(必要充足的)な領域における活動やサービスです。そこに浮かび上がってくる経済は「地域内循環」を基本とした「コミュニティ経済」だというのが、広井氏の見解です。

広井良典氏の「ポスト資本主義」論は、大変興味深いものですが、そこに描かれている「定常型社会」は、人々がローカル・レベルで共同体をつくり、大もとの富の源泉である自然から果実を引き出し、自分の必要を充足するとともに他人と自然の富を共有する。コミュティでは解決できない問題や不平等が起こったらナショナルーレペルの再分配・社会保障機能を働かせる。こうして、資本主義社会よりも、スローな時間の流れの中で生活するというイメージです。

これはどこか、その昔ジョン・ロックやジャン・ジャック・ルソーが描いた「自然状態」、「社会契約」に通じるところがあります。文学や映像の分野で言えば、トルストイの『イワンのばか』や宮崎駿の『となりのトトロ』、倉本聴の『北の国から』、ドイツの児童文学者ミヒャエル・エンデの『モモ』や『オリーブの森での対話』などとも共通するコンセプトのように感じられます。

もっと言えば「ストックの社会化」や「地域内循環=コミュニティ経済」、「自然価値の社会化」「定常型経済」などは、宮本憲一氏や宇沢弘文氏などが、年来論じてきた「社会的共通資本」「内発的発展」、「維持可能社会」、金子勝氏の市場の中に公共空間を埋め込む「ルール・カップリング」などの理論にも通じるところがあるように思います(以上、宮本憲一『社会資本論』有斐閣、『現代日本の都市と農村』NHKブックス、『維持可能な社会に向かって』岩波書店、宇沢弘文『社会的共通資本』岩波書店、金子勝『新・反グローバリズム』岩波書店などを参照)。

「自然状態」とか「トトロ」「イワン」となると、多分にファンタジックなユートピアと受け止められそうですが、いずれも「資本主義以前」の人間や社会を描くことで、「資本主義以後」への想像力をかき立てる作品群だということが重要です。

水野氏や広井氏、ライシュやサンダースを眺めていると、いよいよ資本主義の向こうを考えようとする思想や理論の流れが輩出してきたという思いを深くしますが、同時にその前に卜ランプのような得体のしれない思想が立ちふさがろうとしているのかもしれないわけで、やはり「何か起こるかわからない時代」というイメージヘ後戻りします。
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