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「思考すること」について思考する

『いかにして思考するべきか』より

本書のタイトルは、「いかに思考すべきか」ではなく、「いかにして思考するべきか?」である。思考することがどんなことかは分かっていると思っているひとが、どんな姿勢や態度やきっかけでそれができるかということについて、あるいは今日どんな主題でどのような方向でそれをすればいいかということについて書こうとしたものではない。まして、思考することは義務であるとか、正しい思考法はこれこれだというようなことを主張しているのではない。

そうではなくて、「思考するということはどのようなことをすることなのか」という問いについて書いたのである。「思考する」とは意外に内容不明なことであって、記憶を呼び出すことやパズルを解くことなど、それに近い他のことときわめて紛らわしいものなのであるが、近代の哲学者たちが、それらを厳しく批判しつつ、それがどのようなことであると論じてきたかについて書いた--それをふまえておくならば、今日において思考するときに、より深く徹底的に思考することができるのではないか。

なお、前著『差異とは何か--〈分かること〉の哲学』(世界思想社)との連関についてであるが、そこにおいて、わたしは思考と言葉のあいだにある切っても切れない関係について論じておいた。言葉は思考そのものではないが、思考は言葉抜きには成りたたない。とはいえ、思考とは、必ずしも論理的に述べられた言葉のことではない。筋道の通って見えるその言葉が、ひとびとを熱狂的に「分かった」と思い込ませるだけの、音楽と変わりないものであったり、論理の伴わない曖昧ないいまわしのひとことが、ある文脈、ある場面において、ひとの人生に深遠な動揺や決定的な確信を与える思考であったりする。

一番やってはならないことは、理路整然と述べられた書き言葉(エクリチュール)をもって思考とみなしてしまうことである。それは、近代社会の倫理、近代的思考の規範ではあったのだが、思考は言葉の形式に宿るのではなく、言葉を語ることを含むそのひとの行為と、それを聞くひとびとにとって起こる「出来事」においてある--それがその書物で述べたわたしの主張であった。

そこまでは論じたのだが、書いたあとになって、ある言葉がどのようにして思考と呼べるものとなり得るのか、ある言葉はなぜ思考と呼ぶべきではないのか、それを考察する仕事が残っているように思われた。

考える技のようなもの。学問的思考はもちろん、生活の知恵においても、「真の思考」ないし「深い思考」と呼び得ることをなすために自覚しておくべきことは何か。これまで思考を価値あるものとみなしてきた哲学者たちは、思考をどのような営みと解し、どのような理由から価値あるものとみなしてきたか--そのことについて考えてみたい。

本書で扱った哲学者たちは、高校「倫理」を学んだひとならば知っている著名な哲学者たちばかりである。ただしその要約をしたようなものと少し違うのは、かれらと対話し、近代をふり返りながら、現代における問題を論じようとしている点においてである。

とはいえ、それで何か分かるのか、と尋ねられるかもしれない。哲学は、ときどき、「答えのない学問だ」といわれる。それは誤解を招きやすいいい方である。何かを問う以上、答えがないなどと前提するわけがない。だからその言葉の意味は、クイズのようには正解がないということである。正解があるのは、試験だけである。われわれが遭遇する生活上のさまざまな問いにもみな正解はない。

哲学的問題を探究することは、クイズに答えるようなこととはまったく違う。思考することは、単に全体像を描くことでないように、目的に対する最も有効な手段を思いつくことでもなく、--それらはコンピュータによって代替可能なことであってー、どんな応用問題でもない、だれもまだ答えを出せないでいる問いに向かうことである。自分の個人的問題を解決してくれるのではない、それをも一般性のなかに包み込む哲学独自の問いがある。哲学がめざしているのは、答えではなくて発見である。問いを巡り、何らかの発見をすること、それが哲学のしようとしていることなのだから、ただ答えがないというわけではない。

新しい思考法、簡単な思考法を説こうとしているわけではない。思考は、パズルの解法や、将棋の戦略や、ゲームの攻略法のようなものではない。それらは、-熱中するひとはするであろうが--、思考ではない。それらは心理学実験室で迷路をたどるネズミの学習と同様のものであり、あるいはAIのプログラムがすでに人間を打ち負かせるようになったものであり、「知性」の働きではあるが、思考ではない。くり返すことで慣れてしまうようなものは、思考ではない。

とはいえ、哲学だからといってむずかしく考える必要はない。哲学とは、単に思考するだけではなく自分がどのように思考しているかということについて同時に思考することであり、そして自分がその思考によって分かったとすることが、どのような意味で真理なのかと自問することである。

過去の哲学者たちの書いたものにはみな、こうした要素が必ず備わっている。この条件を満たしている思考は哲学と呼んでいいが、逆に哲学を自称して、どんなに深遠そうな言語表現を使用していようと、この条件を満たしていない思考を哲学と呼ぶべきではない。

ときに哲学者を神のごときものとして「完全な」解釈を探求し続けるひともいるし、ときに自分の思考したことをただ粉飾するためだけに名言を探しだそうとするひともいるが、それは哲学を寓話にすることにほかならない。哲学は寓話ではなく、対話である。問いかけて、自分の知らなかった答えを得る。新たな問いを得る。自分より優れた知性をもっていたひとびとと書物を通じて対話して、その時代その文化という枠組においてかれらが思考したそのやり方を、現代のこの文化の枠組のなかで理解しなおし、あるいは現代のこの文化の形成へと投げかけられてきたかれらの発想を整理して、あわよくば現代のこの文化とその行く末を、みずから理解しようとする試みである。

したがって、読者が本書で見出だすことのできるものは、知識ではなく思考である。それが思考であるかぎり、思考はそのつどかぎりである。だれかが思考した結果の言説を、ただ記憶するということとは異なる。知識は記憶されればすぐにでも使えるが、思考は、本人自身が思考しなければ理解され得ない。すぐには使えないかもしれないが、思考するということが喜びであるという風であったらいい。

思考すること--それでは普通の哲学書ではないかと思われるかもしれないが、本書では「思考すること」について思考する。さきに述べたように、それこそが哲学のことなのであるからには、本書は、僣越ながら、哲学それ自身であるといってもいいのである。
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