未唯への手紙
未唯への手紙
ソクラテスの死は、記憶すべき唯一の出来事
『メルト=ポンティ哲学中辞典』より ソクラテス
哲学的な学というものが、しばしばプラトン以来、数学的な諸学をモデルとして考えられてきたことは確かである。『国家』では、その純粋さと厳密さとが賛美され、実際の応用の方はあまり評価されていなかった。この学は技芸と比較されるが、技芸のほうは、技術者たちに自己を委ねた人々にもたらされる成功と奉仕とによってその価値は(ソクラテスの眼には二目瞭然であった。哲学についての無知、すなわち「至高にして最も美しい≒人事万般」についての無知は、した、がって、単なる文化の欠如ではなく、はっきりとした病なのであり、医員が必要だと思わせないだけに「最も有害なもの」(「アルキビアデス」I、一一八A)なのである。
こうした医学の喩えはテクスト中に頻出するが、それは比喩以上のものである。「自己の魂の世話をする」よう勧告することは、医学的な響きを帯びており、とりわけ、不死へのいかなる教義や信仰とも結びつくものではない。プラトンの『弁明』は、この点についてはかなり控えめに見えるが、無知〔の知〕をひきあいに出し、逆の賭けに打って出る。「知ったかぶりをせずに、死を恐れるとはどういうことだろうか……ここで起こる事柄を十分に知らなければ、私にはそれを知るということすら思いつかないのではないか。逆に、私が知っているのは、悪を行なうことは良からぬことであり、恥ずべきことであるという事実なのだ……したがって私は、良し悪しがわからない事柄を恐れたり、それを避けたりするために、自分で悪いとわかっている悪に同意したことなど一度もないのである」(二九A‐B)。だが反対に、「魂の世話」が、均衡や道徳的健康と呼ばれるものとはかなり違っていることもわかっているし、それがソクラテス的反駁と精神分析的治療法との間に原理的な差異を置くところのものであることもわかっている。もっとも、両者の間は近づけようとすることもできただろう。さらには、論駁の方法と無知の告白とが、一つの実証的な知を伴うこともわかっている。
『ソクラテスの思い出』は私たちに、正義についての問答を伝えてくれるが、そこではヒッピアスがソクラテス的イロニーに対して異議を唱えている。「かなり長い間、きみはつねに質問したり論駁したりしながら、誰に対してもけっして説明することなく、何についても自分の意見を開陳することなく、他の人々をからかっているじやないか」。ソクラテスはこう答える。「何だってヒッピアス? きみは私が、私に正しいと思われることを絶えず示していたのに気づいてはいないのかい?」(第四巻第四章九-一〇および第一章)。
ソクラテスがしばしば倫理学の創設者とされるところを鑑みるならば、このテクストはいかにも見事なものである。道徳心は「誇示」しうるような学になりはしない。無知の告白によっても打撃を受けることのない諸命題(死は恐るべきものではない、法に従うのは正しい、等々)を、ソクラテスはけっして学説の一部として提示することはなかった。実際それは、行動の原動力なのであって、はっきりと内容の定まった命令などではない。そんな命令は、むしろプラトン的な考え方であり、それは厳密に定義され、私たちの上に一種の形式的因果律によって働きかけてくるものなのだ。ソクラテスの発見というか、いずれにしても彼の確信によれば、道徳とは、旧来の価値の一覧表を壊して、別の一覧表を発案すべきものではなく、立法者の最初の意図を見出し、理解すべきものだということであり、それによって、法を自由の内に持ち来たらすものだということである。最も革新的な道徳も、多くの点では、古い規範を承認するだけであった。月並みな言葉によって、また慣習を基礎にしてなされたソクラテスの探究が、少しも伝統主義的でなく、さらには世俗の意見に対して従順でなかったとしても、何ら逆説的なところはない。吟味や反駁の方法は、ソクラテスの見るところでは、意見や誤謬の状態にとどまるものから、学にすることの出来るものを識別させてくれるものである。ここでは、断念と反抗とを結ぶ道は狭くなっているし、学的倫理がソクラテスと同じようにしっかりとその道筋を示してくれるかどうかも定かではない。評決には敬意を表しながら、クリティアスや僣主たちには抵抗したあのソクラテスのように……。〔ヴィクトール・ゴルトシュミット(レンヌ大学文学部助教授)]
ソクラテスの模範的な死は、彼の「波乱のない人生」において記憶すべき唯一の出来事である。彼は石工のソフロニコスと産婆のファイナビアの間に生まれた。ソクラテス自身はこの母を「真面目で優れた」と表現しており、「産婆」については、モンテーニュによると、「精神的出産のパイプに油をひく」のがうまく、ソクラテスの「産婆術」をもたらすのに一役買ったということだ。ソクラテスはしばらく父の仕事を手伝っていたが、自らの語るところでは、彼の守護「ダイモン〔神霊〕」が弟子や陪食者だちとともに親しく話しかけてきて、すぐさま彼を哲学に志すよう促したらしい。プラトンの対話篇やクセノフォンの『ソクラテスの思い出』のおかけで、哲学的対話におけるさまざまな対話者や常連の名が残っている。ソクラテスは、ポテイダイアの攻囲戦やその後のデリオンの撤退(ここでクセノフォンの命を救う)、アンフィポリスの撤退などに参加する以外には、ほとんどアテナイを離れていない。彼が言うには忍耐心を鍛えるため、(以後、小言女の典型とされる)口うるさいクサンティッペを正妻とし、三人の息子をもうける。七十歳のとき(紀元前四二四年。これよりも四分の一世紀前、彼はすでに『雲』のなかでアリストファネスに揖楡されていた)、ソクラテスは不信心の罪で告発される。プラトンによれば、この告発は、「ソクラテスには少しも当てはまらないものだった」。クリトンは牢獄のソクラテスを訪ねてきて、逃亡を勧めようとしたが、ソクラテスは祖国の法にそむくことを拒絶した。毒ニンジンを飲む日がやってきても、悲しみにやつれたクサンティッペを追い返し、彼は友人だちと、魂の不死について穏やかに議論しつづけた。「女性たちが遺体を清める手間を省くため」風呂に入った後、彼は友人たちにこう言った。「私たちはアスクレピオスに雄鶏一羽分の恩を受けている。私の負債を返すことを忘れないでくれ」。これが彼の最後の言葉であり、クリトンが彼の目を閉じたのであった。
ソクラテスは一切著述をしなかったので、私たちは彼の教えを復元するには、クセノフォン(『ソクラテスの思ぃ出』『ソクラテスの弁明』)や、とりわけプラトン(『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』)やアリストテレスの証言によらねばならない。
哲学的な学というものが、しばしばプラトン以来、数学的な諸学をモデルとして考えられてきたことは確かである。『国家』では、その純粋さと厳密さとが賛美され、実際の応用の方はあまり評価されていなかった。この学は技芸と比較されるが、技芸のほうは、技術者たちに自己を委ねた人々にもたらされる成功と奉仕とによってその価値は(ソクラテスの眼には二目瞭然であった。哲学についての無知、すなわち「至高にして最も美しい≒人事万般」についての無知は、した、がって、単なる文化の欠如ではなく、はっきりとした病なのであり、医員が必要だと思わせないだけに「最も有害なもの」(「アルキビアデス」I、一一八A)なのである。
こうした医学の喩えはテクスト中に頻出するが、それは比喩以上のものである。「自己の魂の世話をする」よう勧告することは、医学的な響きを帯びており、とりわけ、不死へのいかなる教義や信仰とも結びつくものではない。プラトンの『弁明』は、この点についてはかなり控えめに見えるが、無知〔の知〕をひきあいに出し、逆の賭けに打って出る。「知ったかぶりをせずに、死を恐れるとはどういうことだろうか……ここで起こる事柄を十分に知らなければ、私にはそれを知るということすら思いつかないのではないか。逆に、私が知っているのは、悪を行なうことは良からぬことであり、恥ずべきことであるという事実なのだ……したがって私は、良し悪しがわからない事柄を恐れたり、それを避けたりするために、自分で悪いとわかっている悪に同意したことなど一度もないのである」(二九A‐B)。だが反対に、「魂の世話」が、均衡や道徳的健康と呼ばれるものとはかなり違っていることもわかっているし、それがソクラテス的反駁と精神分析的治療法との間に原理的な差異を置くところのものであることもわかっている。もっとも、両者の間は近づけようとすることもできただろう。さらには、論駁の方法と無知の告白とが、一つの実証的な知を伴うこともわかっている。
『ソクラテスの思い出』は私たちに、正義についての問答を伝えてくれるが、そこではヒッピアスがソクラテス的イロニーに対して異議を唱えている。「かなり長い間、きみはつねに質問したり論駁したりしながら、誰に対してもけっして説明することなく、何についても自分の意見を開陳することなく、他の人々をからかっているじやないか」。ソクラテスはこう答える。「何だってヒッピアス? きみは私が、私に正しいと思われることを絶えず示していたのに気づいてはいないのかい?」(第四巻第四章九-一〇および第一章)。
ソクラテスがしばしば倫理学の創設者とされるところを鑑みるならば、このテクストはいかにも見事なものである。道徳心は「誇示」しうるような学になりはしない。無知の告白によっても打撃を受けることのない諸命題(死は恐るべきものではない、法に従うのは正しい、等々)を、ソクラテスはけっして学説の一部として提示することはなかった。実際それは、行動の原動力なのであって、はっきりと内容の定まった命令などではない。そんな命令は、むしろプラトン的な考え方であり、それは厳密に定義され、私たちの上に一種の形式的因果律によって働きかけてくるものなのだ。ソクラテスの発見というか、いずれにしても彼の確信によれば、道徳とは、旧来の価値の一覧表を壊して、別の一覧表を発案すべきものではなく、立法者の最初の意図を見出し、理解すべきものだということであり、それによって、法を自由の内に持ち来たらすものだということである。最も革新的な道徳も、多くの点では、古い規範を承認するだけであった。月並みな言葉によって、また慣習を基礎にしてなされたソクラテスの探究が、少しも伝統主義的でなく、さらには世俗の意見に対して従順でなかったとしても、何ら逆説的なところはない。吟味や反駁の方法は、ソクラテスの見るところでは、意見や誤謬の状態にとどまるものから、学にすることの出来るものを識別させてくれるものである。ここでは、断念と反抗とを結ぶ道は狭くなっているし、学的倫理がソクラテスと同じようにしっかりとその道筋を示してくれるかどうかも定かではない。評決には敬意を表しながら、クリティアスや僣主たちには抵抗したあのソクラテスのように……。〔ヴィクトール・ゴルトシュミット(レンヌ大学文学部助教授)]
ソクラテスの模範的な死は、彼の「波乱のない人生」において記憶すべき唯一の出来事である。彼は石工のソフロニコスと産婆のファイナビアの間に生まれた。ソクラテス自身はこの母を「真面目で優れた」と表現しており、「産婆」については、モンテーニュによると、「精神的出産のパイプに油をひく」のがうまく、ソクラテスの「産婆術」をもたらすのに一役買ったということだ。ソクラテスはしばらく父の仕事を手伝っていたが、自らの語るところでは、彼の守護「ダイモン〔神霊〕」が弟子や陪食者だちとともに親しく話しかけてきて、すぐさま彼を哲学に志すよう促したらしい。プラトンの対話篇やクセノフォンの『ソクラテスの思い出』のおかけで、哲学的対話におけるさまざまな対話者や常連の名が残っている。ソクラテスは、ポテイダイアの攻囲戦やその後のデリオンの撤退(ここでクセノフォンの命を救う)、アンフィポリスの撤退などに参加する以外には、ほとんどアテナイを離れていない。彼が言うには忍耐心を鍛えるため、(以後、小言女の典型とされる)口うるさいクサンティッペを正妻とし、三人の息子をもうける。七十歳のとき(紀元前四二四年。これよりも四分の一世紀前、彼はすでに『雲』のなかでアリストファネスに揖楡されていた)、ソクラテスは不信心の罪で告発される。プラトンによれば、この告発は、「ソクラテスには少しも当てはまらないものだった」。クリトンは牢獄のソクラテスを訪ねてきて、逃亡を勧めようとしたが、ソクラテスは祖国の法にそむくことを拒絶した。毒ニンジンを飲む日がやってきても、悲しみにやつれたクサンティッペを追い返し、彼は友人だちと、魂の不死について穏やかに議論しつづけた。「女性たちが遺体を清める手間を省くため」風呂に入った後、彼は友人たちにこう言った。「私たちはアスクレピオスに雄鶏一羽分の恩を受けている。私の負債を返すことを忘れないでくれ」。これが彼の最後の言葉であり、クリトンが彼の目を閉じたのであった。
ソクラテスは一切著述をしなかったので、私たちは彼の教えを復元するには、クセノフォン(『ソクラテスの思ぃ出』『ソクラテスの弁明』)や、とりわけプラトン(『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』)やアリストテレスの証言によらねばならない。
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