『ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』』より 『論理哲学論考』と「撃滅戦」 『論理哲学論考』の二本の柱--「写像の理論」と「真理関数の理論」
従軍中に『論理哲学論考』を書き続けたウィトゲンシュタインは、哲学的な諸問題を「終極的に」「決定的に」解決してしまおうと狙っていた。つまり、哲学的な諸問題に対して「撃滅戦」を仕掛けようとしていたのである。これはなかなかうまくいかなかったが、結果的に、「写像」概念を「奇襲」的に導入して、諸難問を「突破」し、哲学的諸問題を完全に「撃滅」した、ということになるだろう。そして、それが『論考』として結実したのだ。
その撃滅の仕方は、哲学の諸問題を「解決する」というものではない。それらは、言語や「言語の論理」に対する誤解・無理解から生じた疑似問題であり無意味な問題だから、本質的に「解く」ことはできないのである。このことを洞察し、哲学的諸問題を「消去する」「解消する」「捨て去る」ことが、『論考』における撃滅戦の眼目なのだ。クラウゼヴィッツの『戦争論』の言葉をもじっていうと、「哲学的問題の撃滅、すなわち、それらの無力化〔=解消〕が〔哲学の〕常にまた唯一の手段である」ということになる。また、『論考』の終わりから三つめの文章には、次のように書かれている。
哲学の正しい方法とは、本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外は何も語らぬこと。……哲学とは何の関わりももたぬものしか語らぬこと。--そして、他の人が形而上学的な事柄を語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中であるまったく意味をもたない記号を使っていると、指摘してやること。……これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。(六・五三)
その後一〇年くらいたって、ウィトゲンシュタインは先の「写像」概念の導入を反省するようになる。すなわち、写像概念は論理学的要請に過ぎなかったことや、言語の有意味性を実在世界との対応関係によって保証できないことに気がついたのである。
この事実はさておき、『論考』の「序文」の言葉は、執筆当時において、哲学上の諸問題に対する「撃滅戦」が成功したことを高らかに述べている、と解釈することができよう。先に引用したように『論考』の「序文」には、次のように書かれていたのであった。以上の著者たちの解釈を踏まえて再度読み直していただきたい。
ここで述べられている思想の真理性は、犯しえず、決定的に思われる。それゆえ、私は、さまざまな問題をその本質において終極的に解決したつもりである。
以上、ウィトゲンシュタイン自身の言葉を引用しながら、また、著者たちの想像によって、彼の哲学的思索と軍事的な事柄との関わりの一端を示した。読者にはあまりにも飛躍した議論に思われるかもしれないが、『論考』の「序文」には、哲学的諸問題に対する撃滅戦の成功の響きが聞こえないだろうか。
従軍中に『論理哲学論考』を書き続けたウィトゲンシュタインは、哲学的な諸問題を「終極的に」「決定的に」解決してしまおうと狙っていた。つまり、哲学的な諸問題に対して「撃滅戦」を仕掛けようとしていたのである。これはなかなかうまくいかなかったが、結果的に、「写像」概念を「奇襲」的に導入して、諸難問を「突破」し、哲学的諸問題を完全に「撃滅」した、ということになるだろう。そして、それが『論考』として結実したのだ。
その撃滅の仕方は、哲学の諸問題を「解決する」というものではない。それらは、言語や「言語の論理」に対する誤解・無理解から生じた疑似問題であり無意味な問題だから、本質的に「解く」ことはできないのである。このことを洞察し、哲学的諸問題を「消去する」「解消する」「捨て去る」ことが、『論考』における撃滅戦の眼目なのだ。クラウゼヴィッツの『戦争論』の言葉をもじっていうと、「哲学的問題の撃滅、すなわち、それらの無力化〔=解消〕が〔哲学の〕常にまた唯一の手段である」ということになる。また、『論考』の終わりから三つめの文章には、次のように書かれている。
哲学の正しい方法とは、本来、次のごときものであろう。語られうるもの以外は何も語らぬこと。……哲学とは何の関わりももたぬものしか語らぬこと。--そして、他の人が形而上学的な事柄を語ろうとするたびごとに、君は自分の命題の中であるまったく意味をもたない記号を使っていると、指摘してやること。……これこそが唯一の厳正な方法であると思われる。(六・五三)
その後一〇年くらいたって、ウィトゲンシュタインは先の「写像」概念の導入を反省するようになる。すなわち、写像概念は論理学的要請に過ぎなかったことや、言語の有意味性を実在世界との対応関係によって保証できないことに気がついたのである。
この事実はさておき、『論考』の「序文」の言葉は、執筆当時において、哲学上の諸問題に対する「撃滅戦」が成功したことを高らかに述べている、と解釈することができよう。先に引用したように『論考』の「序文」には、次のように書かれていたのであった。以上の著者たちの解釈を踏まえて再度読み直していただきたい。
ここで述べられている思想の真理性は、犯しえず、決定的に思われる。それゆえ、私は、さまざまな問題をその本質において終極的に解決したつもりである。
以上、ウィトゲンシュタイン自身の言葉を引用しながら、また、著者たちの想像によって、彼の哲学的思索と軍事的な事柄との関わりの一端を示した。読者にはあまりにも飛躍した議論に思われるかもしれないが、『論考』の「序文」には、哲学的諸問題に対する撃滅戦の成功の響きが聞こえないだろうか。
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