『ブラックバイト』より 雇う側の論理、働く側の意識
受け手の側の学生は、なぜそれを受容するのか。その要因は大きく分けて四つである。
第一に、すでに紹介した「責任感」だ。「責任感」は学生の内面から自発的にわき上がってくるものであると同時に、これが巧みに管理者によって活用されている。
ただし、そうした「責任感」は「生活」に本来制約されているのであり、必然的に作動するものではない。その背後にあるのは、第二以下の要因だ。
第二に、企業の高度に発達した生産システム(流通・サービスの提供過程)が、学生の意識をからめとっている。その中で、彼らは「歯車」のように職場に順応する。
第三に、すでにみたフランチャイズ形式の職場システムや、学生自身に「達成感」を与える労務管理が、彼らが「歯車」になることを円滑に誘導する。私はこれを「想像の職場共同体」と名付けている。
そして第四に、日本社会のマクロな権力構造がブラックバイトを苛烈にさせる土壌となっている。それは、「人的資本万能主義」ともいうべき社会規範である。
さらに第五に、もっとも深刻な要因は、学生の「貧困化」である。学費の高騰と親世帯の収入の減少が、学生に長時間就労せざるをない状況をつくり出している。
「責任感」
学生は第一に、具体的な職場の「責任感」から辞めることができない。その責任感は、すでにみた職場側の事情にそのまま対応している。
そもそも彼らが適切に出勤しないことには、職場の仕事は回らない。だから、彼らは簡単には辞めることができない。これは単純だが、強力な原理だ。つまり、学生は、契約関係や給与などといったドライな関係とは別に、①「仕事への責任感」を抱く。もちろん、この種の「責任感」は、ブラックバイトに限らずとも、およそあらゆる職場にある。
だが、今日のブラックバイトの職場では、企業は最大限人員を削ることで利益を出そうとしている。人員がぎりぎりの職場で、いつも限界だからこそ、そして同僚や正社員がすでに苦しい状況に置かれているからこそ、この「責任感」は通常とは異なるレベルで作用する。「その学生」が働かなければ実際の業務遂行が不可能だという状況で、「急な呼び出し」や「シフトの強制」が行われれば、学生もその必要性に応えようと必死に順応するのである。
また、仕事への責任感は、その「質」をも問われることによって、より強度を増す。販売や飲食業での接客対応や、個別指導塾で子どもの進路指導に責任を負うことは、彼らにさらなる責任感を発揮させるだろう。これは、②「仕事の「質」への責任感」である。これについても、今日のサービスの質がアルバイト依存であるために、学生はより強く、自分の仕事に自負を持つことになるのだ。
さらに、学生の仕事への責任感は、個人としての責任の範躊を越える。彼らの責任は、ある種の③「管理責任」にも及ぶ。「バイトリーダー」は学生アルバイト全体が、常に職場に充当されるように調整する責任を負う。この場合、自分自身がシフトに入るだけではなく、他の学生が確実にシフトに入れるように、勤務時間外も連絡業務に追われる。同時に、先輩のアルバイトは、他の学生に仕事を教える責任をも負う。このような管理責任を負うことで、より職場全体、仕事全体への責任感は増していく。この場合にも、職場の運営に実際に必要であるために「自分がやらなければならない」という感情がうちからわき上がることは、想像に難くない。
そして、アルバイトの責任は④「結果責任」の次元にまで達する。売り上げの責任を果たすことができなければ、衆目の前で叱責される場合もあれば、罰金などのペナルティが科されることもある。企業の業績の責任を、学生アルバイトが、そのまま受け止めなければならない。学生は、ある種の「経営への参加者」としての意識を持たされていることになる。ただ、この次元の責任感は、それまでの「仕事への責任感」とは明らかに異質な内容である。仕事を適切に遂行したとしても、必ずしも「企業の業績」を担保できるのかは、わからないからだ。もし「企業の業績」が達成困難な水準に設定されれば、アルバイトでありながら、彼らの「責任」は青天井になってしまうだろう。
「仕事への責任感」、その延長線上で発生する仕事の質への責任や管理責任に対し、結果への責任感は、「仕事」ではなく「企業」に対する責任感なのである。
「達成感」
さらに、経営者は学生が積極的に「想像の職場共同体」にのめり込むように戦略的に「やりがい」や「達成感」を与えるように労務管理を敷いている。
たとえば、集団指導塾・個別指導塾を経営する、塾業界大手の栄光ゼミナールには、「エクセレントグランプリ」という、講師の授業や接客の質を競い合う大会がある。講師のアルバイトたちは大会に参加させられ、無給で授業などを披露する。グランプリを受賞すると、海外旅行をプレゼントされる。大会当日は、千数百名の予選を勝ち抜いた二〇〇名が出場するのだが、その他の講師たちも参加させられる。参加は義務ではないというが、講師の多くが参加している。
大会で披露する授業の予習や、塾で行う練習の時間も当然無給である。無給でも授業を競い合いたいという講師も確かに存在しており、通常の授業が終わった後に、夜遅くまで一人教室で練習しているという。
すでに紹介したケースでも、従業員の創意工夫、モチベーションや責任感を向上させるための工夫をしている。同社は、特に優れた接客を行うスタッフを「ファンタジスタ」として認定し、表彰を全社的に行っているという。
コンビニの発注を工夫し、店の売り上げを上げることに大きな「やりがい」を感じるアルバイトもいる。与えられたシステムの中で、自分がその末端の店舗をうまく運用することで利益を上げ、大きな達成感を得ることができる。個々の店舗は一つの共同体をなしており、外食にせよ小売りにせよ、その業務は学生にも理解できる。その一連の業務を工夫して運営し、成果を達成することは、大きな喜びであるはずだ。
だが、そうした「工夫」はシステム全体や、そのスピードを変化させるものではない。自分たちの目の前にあるいくつかの業務の組み合わせや順番、入力する数値を変更し、あるいは客に笑顔を見せるといった工夫は、「面白み」や「達成感」を与える一方で、その「結果」が新たな基準となることで、かえって労働を過酷にしてしまうだろう。実際に、製造業のベルトコンペアー方式の下でも、労働者自身が作業の順番を少し変えたりすることで、効率を上げてきたのだが、その結果、’労働がよりきつくなることもしばしばだった……。このように、システムの下で学生にある程度の「裁量」が与えられることで、彼らは「想像の職場共同体」にますますのめり込み、ベルトコンベアーに組み込まれていく。
受け手の側の学生は、なぜそれを受容するのか。その要因は大きく分けて四つである。
第一に、すでに紹介した「責任感」だ。「責任感」は学生の内面から自発的にわき上がってくるものであると同時に、これが巧みに管理者によって活用されている。
ただし、そうした「責任感」は「生活」に本来制約されているのであり、必然的に作動するものではない。その背後にあるのは、第二以下の要因だ。
第二に、企業の高度に発達した生産システム(流通・サービスの提供過程)が、学生の意識をからめとっている。その中で、彼らは「歯車」のように職場に順応する。
第三に、すでにみたフランチャイズ形式の職場システムや、学生自身に「達成感」を与える労務管理が、彼らが「歯車」になることを円滑に誘導する。私はこれを「想像の職場共同体」と名付けている。
そして第四に、日本社会のマクロな権力構造がブラックバイトを苛烈にさせる土壌となっている。それは、「人的資本万能主義」ともいうべき社会規範である。
さらに第五に、もっとも深刻な要因は、学生の「貧困化」である。学費の高騰と親世帯の収入の減少が、学生に長時間就労せざるをない状況をつくり出している。
「責任感」
学生は第一に、具体的な職場の「責任感」から辞めることができない。その責任感は、すでにみた職場側の事情にそのまま対応している。
そもそも彼らが適切に出勤しないことには、職場の仕事は回らない。だから、彼らは簡単には辞めることができない。これは単純だが、強力な原理だ。つまり、学生は、契約関係や給与などといったドライな関係とは別に、①「仕事への責任感」を抱く。もちろん、この種の「責任感」は、ブラックバイトに限らずとも、およそあらゆる職場にある。
だが、今日のブラックバイトの職場では、企業は最大限人員を削ることで利益を出そうとしている。人員がぎりぎりの職場で、いつも限界だからこそ、そして同僚や正社員がすでに苦しい状況に置かれているからこそ、この「責任感」は通常とは異なるレベルで作用する。「その学生」が働かなければ実際の業務遂行が不可能だという状況で、「急な呼び出し」や「シフトの強制」が行われれば、学生もその必要性に応えようと必死に順応するのである。
また、仕事への責任感は、その「質」をも問われることによって、より強度を増す。販売や飲食業での接客対応や、個別指導塾で子どもの進路指導に責任を負うことは、彼らにさらなる責任感を発揮させるだろう。これは、②「仕事の「質」への責任感」である。これについても、今日のサービスの質がアルバイト依存であるために、学生はより強く、自分の仕事に自負を持つことになるのだ。
さらに、学生の仕事への責任感は、個人としての責任の範躊を越える。彼らの責任は、ある種の③「管理責任」にも及ぶ。「バイトリーダー」は学生アルバイト全体が、常に職場に充当されるように調整する責任を負う。この場合、自分自身がシフトに入るだけではなく、他の学生が確実にシフトに入れるように、勤務時間外も連絡業務に追われる。同時に、先輩のアルバイトは、他の学生に仕事を教える責任をも負う。このような管理責任を負うことで、より職場全体、仕事全体への責任感は増していく。この場合にも、職場の運営に実際に必要であるために「自分がやらなければならない」という感情がうちからわき上がることは、想像に難くない。
そして、アルバイトの責任は④「結果責任」の次元にまで達する。売り上げの責任を果たすことができなければ、衆目の前で叱責される場合もあれば、罰金などのペナルティが科されることもある。企業の業績の責任を、学生アルバイトが、そのまま受け止めなければならない。学生は、ある種の「経営への参加者」としての意識を持たされていることになる。ただ、この次元の責任感は、それまでの「仕事への責任感」とは明らかに異質な内容である。仕事を適切に遂行したとしても、必ずしも「企業の業績」を担保できるのかは、わからないからだ。もし「企業の業績」が達成困難な水準に設定されれば、アルバイトでありながら、彼らの「責任」は青天井になってしまうだろう。
「仕事への責任感」、その延長線上で発生する仕事の質への責任や管理責任に対し、結果への責任感は、「仕事」ではなく「企業」に対する責任感なのである。
「達成感」
さらに、経営者は学生が積極的に「想像の職場共同体」にのめり込むように戦略的に「やりがい」や「達成感」を与えるように労務管理を敷いている。
たとえば、集団指導塾・個別指導塾を経営する、塾業界大手の栄光ゼミナールには、「エクセレントグランプリ」という、講師の授業や接客の質を競い合う大会がある。講師のアルバイトたちは大会に参加させられ、無給で授業などを披露する。グランプリを受賞すると、海外旅行をプレゼントされる。大会当日は、千数百名の予選を勝ち抜いた二〇〇名が出場するのだが、その他の講師たちも参加させられる。参加は義務ではないというが、講師の多くが参加している。
大会で披露する授業の予習や、塾で行う練習の時間も当然無給である。無給でも授業を競い合いたいという講師も確かに存在しており、通常の授業が終わった後に、夜遅くまで一人教室で練習しているという。
すでに紹介したケースでも、従業員の創意工夫、モチベーションや責任感を向上させるための工夫をしている。同社は、特に優れた接客を行うスタッフを「ファンタジスタ」として認定し、表彰を全社的に行っているという。
コンビニの発注を工夫し、店の売り上げを上げることに大きな「やりがい」を感じるアルバイトもいる。与えられたシステムの中で、自分がその末端の店舗をうまく運用することで利益を上げ、大きな達成感を得ることができる。個々の店舗は一つの共同体をなしており、外食にせよ小売りにせよ、その業務は学生にも理解できる。その一連の業務を工夫して運営し、成果を達成することは、大きな喜びであるはずだ。
だが、そうした「工夫」はシステム全体や、そのスピードを変化させるものではない。自分たちの目の前にあるいくつかの業務の組み合わせや順番、入力する数値を変更し、あるいは客に笑顔を見せるといった工夫は、「面白み」や「達成感」を与える一方で、その「結果」が新たな基準となることで、かえって労働を過酷にしてしまうだろう。実際に、製造業のベルトコンペアー方式の下でも、労働者自身が作業の順番を少し変えたりすることで、効率を上げてきたのだが、その結果、’労働がよりきつくなることもしばしばだった……。このように、システムの下で学生にある程度の「裁量」が与えられることで、彼らは「想像の職場共同体」にますますのめり込み、ベルトコンベアーに組み込まれていく。
私は数年前に大学生だった頃、栄光ゼミナール高等部で時間教師を務めていた者です。
エクセレントスタッフグランプリについて、記事内の表現に誤りがあるため、指摘させていただきます。
誤りについてですが、エクセレントスタッフグランプリは無給ではありません。大会時の授業費、会場への交通費は勿論支給されますし、それに備えるための模擬授業にも業務給が適用されております。
確かに栄光ゼミナールが大学生バイトに高いレベルの要求をしている事は事実です。しかし、実際にないことをさも事実かのようにブログに書かれるのには、元バイトとして納得のいかない部分がございます。また栄光ゼミナール側の名誉毀損にもなりますので、削除して頂くようお願い致します。
長くなりすみませんが、検討して頂ければ幸いです。