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ソンムは知っていたけど、ブルシーロフは知らなかった

『ウィトゲンシュタイン『秘密の日記』』より ブルシーロフ攻勢の激闘

第一次世界大戦の陸戦の悲惨さ

 タンストールは「ブルシーロフ攻勢は、二重帝国軍にとって最悪の惨敗であり、協商国にとって最良の勝利であった」と述べている。しかしながら、ロシア軍と二重帝国軍の両軍あわせて、一〇〇万~一五〇万人もの死傷者を出した。わずか三か月余りの戦闘で、それも原子爆弾や水素爆弾のような大量殺戮兵器がまだ登場していない陸戦で、これほどの死傷者がでるとは、ブルシーロフ攻勢はどれだけ凄惨な戦闘であったことか……。これは想像の域を超える戦闘である。

 第一次大戦は後世にいろいろと教訓を残した。陸戦とりわけ塹壕戦が過酷で(主として西部戦線)、一九一六年七月のソンムの戦いに参加した著名なリデルハートも、その時の辛い経験を踏まえて、後に「間接アプローチ戦略」を提唱し、二〇世紀を代表する戦略思想家になった。また、第一次大戦の経験者のなかで、航空機に関心をもっていた人、特にイタリア軍のドゥーエは、第一次大戦後に『制空』という本を書いた。その中で、彼は、今後の戦争は「エア・パワー」が主役になり航空機だけで「戦争」をすることができるようになる、と予想した。そしてさらに、彼は、航空機による爆撃はその恐ろしさゆえに敵国民の戦意を粉砕してすぐに戦争の決着がつくので、結果として死傷者は少なくなり戦争は「人道的」になる、と考えた。

 一九二〇年代には、同じように考えた軍人がほかにもいる。例えばイギリスのトレンチャード、アメリカのミッチェルなどである。彼らはみな、泥まみれで血みどろの過酷な戦場を経験し、彼らの「こんなのはもうこりごりだ」という強い思いが「空軍」に対する妙に楽観的な考えに結びついた、ともいわれている。すなわち、空軍に対する楽観論を生み出すほどに、第一次大戦の陸戦は悲惨であったということだ。それから一〇〇年たった現在でも、依然として陸戦が行なわれているし、ロボット兵の研究が進んでいるが、当分、人間の歩兵がなくなる気配はない。

攻勢の第一次大戦全体に及ぼした影響は、以下のようなものであった。

 (1) 攻勢初期に生じたオーストリア軍の甚大な損失が戦線の崩壊に繋がることを危惧したドイツ軍は、西部戦線から兵力を抽出することとなり、結果的に、ヴェルダンのフランス軍を助けた。

 (2) オーストリア軍の敗退に刺激されたルーマニアが中立を捨て、連合国側にたって参戦した。(ただし、同盟国側の反撃により、わずか四か月で首都ブカレストを攻め落とされるという大敗を喫し、連合国側にとってはいらぬ負担が増えただけであった。)

 (3) オーストリア軍は、緒戦のガリツィアでの敗北いらいどうにか戦線を保持していたものの、この敗戦により、もはや主体的な行動は不可能となり、ドイツ軍の補完的立場に転落した。

 (4) ロシア軍も多大な人員を失ったことにより、国内で煉っていた戦争に対する不満が皇帝二コライ二世への怒りに変わり、さらには、ロマノフ王朝そのものを否定する声がわきあがったことで、革命へとつながった。

攻勢前夜

 一九一六年六月四日からの約三〇時間の砲撃が、ロシア側からオーストリア側に始まるわけだが、それ以前に、陣地戦が五月いっぱい続いていた。けれども、五月末になると、ロシアの攻勢が迫っていることが明らかになった。大量の弾薬と多数の兵隊がロシア南西正面軍のほぼ全戦区に運ばれていたのである。そのころ、ウィトゲンシュタインは次のように書いている。

  今日は、銃火の中で眠る。恐らく死ぬのだろう。神が僕とともにいますように! 永遠に。アーメン。僕は弱い人間だ。しかし、神が僕を今に至るまで保ってきた。神が永遠に讃えられますように。アーメン。僕は、自分の魂を主に委ねる。(『日記』一九一六年五月一六日)

 その後、五月二七日に、ウィトゲンシュタインは「今日か明日、ロシアの攻撃があるだろう」と予想している。こうした状況に、彼は神経過敏になったのだが、彼に限らず、「当時の二重帝国軍兵士は皆そうであった」といわれている。

 翌二八日に、ウィトゲンシュタインは次のように書いている。

  ここ何週間かは、睡眠が安らかでない。常に任務の夢を見る。これらの夢がいつも僕を目覚める寸前まで追いやる。この二か月の間で、たった三回しか自慰しなかった。(『日記』 一九一六年五月二八日)

 実際にブルシーロフ攻勢が始まったのは六月四日であり、それはロシアの南西戦線全体にわたって展開された。主戦場は北方のルーツクと、ウィトゲンシュタインが駐屯していたドニエストル川のすぐ北のオクナ地域であった。

 この戦区には相当数のドイツ軍が加わっており、同盟軍部隊は強固な備えをした陣地内にいた。そこで、ブルシーロフは、これらの陣地を砲撃し、どこでもよいから前線突破が敢行されればそこから侵攻する、という作戦を立てたのである。これは予想された作戦であり、それに対する同盟軍の防御作戦は、次のようなものであった。歩兵をタコツボにかくまって、敵の一斉弾幕射撃から護り、敵の突撃が決行されるやいなや、歩兵は無傷のまま飛び出して、へとへとになった突撃兵に襲いかかる。この間、応戦する防御側の砲火は敵の弾幕射撃の威力を減殺する、と予測したのである。

 ブルシーロフが正しく予知したのは、白分たち攻撃側の弾幕射撃は防御側の監視をさまたげ、防御作戦を支えている通信連絡を分断するということである。さらに、混乱のため、「戦場の霧」のため、防御側の歩兵がタイミングよくタコツボから飛び出すのは至難の業となった。くわえて、どの地点で主要攻撃がくり広げられるかは、防御側にはわからないため、それを迎撃し牽制する前線部隊の後ろに、しっかりした増援部隊がつくことはできなかった。

 二重帝国軍部隊の質に問題があったというより、彼らが戦線維持にこだわりすぎる作戦に従っていたためにブルシーロフは勝利を得るに至った、というほうが正確であろう。彼はもちろん二重帝国軍が多言語集団であることにも助けられたし、同盟国の将軍たちの指揮のまずさにも助けられた。それでも、ロシア軍も、最終的には、一〇〇万人もの損害を出してしまったのである。
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