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無境界条件は宇宙創成の鍵であり、人類の存在理由

『ホーキング、自らを語る』より 虚数時間 ⇒ こんなところに人類の存在理由があったんだ

カルテック時代にはよく海岸沿いに車で二時間のサンタバーバラを訪ね、親しい研究家仲間のジム・ハートルと共同で、ブラックホールからどのようにして粒子が放出されるか計算する技法を編み出した。粒子がブラックホールから脱出する可能な限りの経路を合算する方式だ。そこで私たちは、ブラックホールが粒子を放出する確率は粒子がブラックホールに落ち込む確率と相関することを突き止めた。高温の天体で熱放射と吸収の確率が相関関係を保っているのと同じにだ。これはブラックホールが地平面積に比例する温度とエントロピーを持つかのようにふるまうことをも明かした。

この計算には虚数時間の概念を取り入れている。方向が通常の実時間と直交する時間と考えればいい。ケンブリッジヘ戻ってから、かつての教え子ゲイリー・ギボンズとマルカム・ぺリーの協力を得て、この考えをさらに発展させた。実時間を虚数時間に置き換えると時間が空間の第四の方向になるところから、これをユークリッド方式と言う。当初はさんざんな抵抗に遭ったが、今では量子重力の研究に最良の手段と広く認められている方式である。ブラックホール時間のユークリッド空間は平滑で、物理学の方程式が破綻する特異点を含まない。ペンローズと私が提起した特異点定理の根本的な問題、つまり、特異点のせいで予測可能性が断たれる問題は虚数時間を考えることで解決した。ユークリッド方式の採用によって、ブラックホールがエントロピーのある高温の天体のようにふるまう理由も究明できた。これに加えてゲイリーと私は、絶えず加速しながら膨張する宇宙にブラックホールと同様の有効温度を予測した。はじめは観測不能と考えたが、十四年後にこの温度の持つ重大な意味が明らかとなった。

私はブラックホールの研究に軸足を置いていたが、宇宙は誕生直後、小売物価が短時日で急騰するインフレーションにも似た加速的膨張の時期を経ているという説に刺激されて、宇宙論に新たな関心が湧いた。そこで、一九八二年にユークリッド方式に即して、そのように膨張する宇宙はいくらか不均一であろうことを論じた。奇しくも相前後してロシアの宇宙科学者ヴィアチェスラフ・ムハーノフが同じことを言ったが、それが西側に伝わったのはやや後の話だ。

初期宇宙の密度の斑は、ゲイリー・ギボンズと私が八年前に発見した急激に膨張する宇宙の有効温度の揺らぎから生じるものと考えていい。ほかにも何人かこれを予測した研究者がいる。ケンブリッジで私が主宰した研究集会には斯界の鈴鈴たる顔ぶれがそろい、今ではインフレーションと呼ばれる初期の宇宙像をほぼ確立した。なかでも銀河の形成を促し、ひいては人類の誕生につながった密度の揺らぎは何にもまして重要な論題だった。

これはCOBE、宇宙背景放射探査衛星が密度の揺らぎによるマイクロ波放射の異なる方向に温度差を観測する十年前のことである。このように、重力の研究においてもまた理論は実験の先を越していた。密度の揺らぎはさらにその後、WMAP、ウィルキンソン・マイクロ波異方性探査体とブランク衛星によって確認され、観測値は予測と正確に一致した。

インフレーション理論は宇宙がビッグバン特異点からはじまった前提に立っている。膨張につれて宇宙はやがてインフレーション状態になるという考えである。この説明に私は釈然としなかった。くり返し述べている通り、物理方程式はすべて特異点で破綻するからだ。だが、特異点で何が起こるかわからない限り、宇宙がどのように発展するか計算できない。予知しようにも宇宙論は無力だろう。そこで必要とされるのは、ユークリッド空間におけるブラックホールのように特異点のない時空である。

ケンブリッジの研究集会の後、発足して間もないサンタバーバラの理論物理学研究所で一夏を過ごし、ユークリッド方式を宇宙論にどう応用するかについてジム・ハートルと話し合った。ユークリッド方式に従えば、ファインマンの歴史総和法によって虚数時間の歴史の形状に宇宙の量子的性質が付加される。虚数時間を空間のもう一つの方向と見なすなら、虚数時間の歴史は地球の表面と同じ、はじまりも終わりもない閉じた曲面となろう。

ジムと私は、これが最も自然な、いや唯一自然な形状の選択であるという考えで一致し、無境界仮説を提起した。無境界仮説では、宇宙は地球の南極に当たる一点から出発し、緯度が虚時間を表す。南極点を後に北へ移動するにつれて宇宙の規模を示す緯度線の円は大きくなる。南極より南には何もないのだから、宇宙のはじまり以前に何が起きたかを問うのは無意味である。

緯度で示される時間の始点は南極だが、南極は地球のどことも変わらないただの一点にすぎず、自然の法則はほかと同じに成立する。このことが、宇宙にははじまりがあって、そこでは通常の法則が働かないという古来の異論を排除する。宇宙の起源も科学の法則に従わなくてはならない。無境界仮説は時間の始点を空間の方向に置き換えることで科学的、かつ哲学的な問題を回避した。

無境界条件は宇宙が無から有を生ずる体に自然発生するであろうことを暗示している。はじめ私は無境界仮説が宇宙の加速度的膨張を予見していないように思ったが、ややあって、宇宙がある形態を取る確率は、その形態の規模を考慮に入れて算出しなくてはならないことに気づいた。最近、ジム・ハートルと、同じくかつての教え子、トマス・ハートグと私は、急膨張する宇宙と負の曲率を持つ空間のあいだに二重性があることを発見した。これによって無境界仮説を新しい形で提唱し、そのような空間のために開発された高度に巧緻な手法を使うことも可能になった。無境界仮説は宇宙がほぼ均質ながら、わずかに密度の斑がある状態ではじまると予測している。その斑は宇宙の膨張とともに拡大して、やがては銀河や星を形成し、生物も含めて宇宙の全構造を作り出す。無境界条件は宇宙創成の鍵であり、人類の存在理由である。
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コメント
 
 
 
初めまして。 (師子乃)
2021-01-02 23:56:39
虚数時間、ぱっとどんなものか想像し難いですね。
 
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