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未唯への手紙

未唯への手紙

「トルストイの家出」にあこがれている

2015年10月17日 | 1.私
『読み切り 世界文学』より 戦争と平和 解説 トルストイの家出 ⇒ ベルギーからドイツ単独行をして、ケルンで列車に乗り損ねて、奥さんの待つ、ブラッセルに戻れなくなった時に、「トルストイの家出」のイマージが浮かんだ。ロシアの寒村の駅の待合室で亡くなっているトルストイ。

世界の文豪トルストイ

 一九世紀を代表する世界の文豪レフ・トルストイ。一八二八年、モスクワの南方トウーラの町の近郊ヤースナヤ=ポリャーナで伯爵の四男として生まれた。幼くして両親を亡くし、親戚の婦人によって育てられた。

 十六歳で大学に入学したが、学業には身が入らず放蕩にふける。しかしフランスの思想家ルソーに傾倒したことが後の思想に大きく影響した。

作家の誕生

 一八四七年、ヤースナヤ=ポリャーナの領地を相続し、農地経営に乗り出したが失敗。一八五〇年にはコーカサスの砲兵旅団に志願して、山岳民との危険な戦闘に従事した。その合間に書いた自伝的な小説『幼年時代』が五一年に出版されると、有望な作家として注目されるようになった。

 その後、五三年にはじまったクリミア戦争に加わり、五五年に首都ペテルブルグに戻った。そして教育への関心に目覚め、五七年には西ヨーロッパヘ視察の旅に出発したものの、ブルジョアジーが支配する西欧文明に幻滅して帰ってきた。帰国後、領地の農民の子どもたちのために学校を開き、教育の普及活動をはじめた。

トルストイの回心

 六二年、三四歳のときに十八歳のソフィアと結婚した。このころ作家としてもっとも充実したときを迎え、『戦争と平和』(六四~六九)、『アンナ・カレーニナ』(七三~七七)など後世に残る傑作を創り出していった。

 ところが、『アンナ・カレーニナ』を書き終えるころからトルストイは人生の無意味さの想いにさいなまれ、度々自殺を考えるほどになった。しかし、数年間に及ぶ苦悩のなかから、原始キリスト教を拠り所とする独自の倫理観に到達した。〈トルストイの回心〉と呼ばれる。

 その後も創作力は衰えを見せることなく『イワン・イリイッチの死』(八六)、『クロイツェル・ソナタ』(八七~八九)、『復活』(八九~九九)など、倫理的性格の強い作品を生み出していった。

晩年

 晩年、名声は世界中に広まり、多くの人々がヤースナヤ=ポリャーナ詣でにやってきたものの、トルストイは国家や教会の権威を認めなかったので、しだいに抑圧されることが多くなってきた。その極みとして、一九〇一年にはロシア正教会から破門された。

 またトルストイは印税や地代の受け取りを拒絶しようとしたが、このような理想主義は現実との軋轢を生じ、晩年の家庭生活に波風がないわけではなかった。トルストイの妻ソフィアはソクラテスの妻クサンチッペ、モーツァルトの妻コンスタンツェと並んで歴史上の三大悪妻と言われることがあるが、九男三女の大家族を切り盛りしなければならなかったソフィアにはソフィアの言い分があったことだろう。

 一九一〇年トルストイはついに家出したものの、肺炎にかかってアスターポヴォの駅頭で帰らぬ人となった。八二歳の生涯だった。

人生の師

 トルストイ晩年の有名な写真がある。真っ白な長い髭を垂らした老人が、足をくんで籐の椅子にすわっている。いかにも人生の師こここにあり、といった風情だ。

 そう、トルストイは小説家というより、賢人、すなわち「人生いかに生くべきか」を教え、導いてくれる人格者としてのイメージが強い。日本でも大正時代以降、旧制高校を中心に〈教養主義〉がハイブラウな文化の要として存在していたが、そうした知的エリートたちの必読書としてかならず出てくるのが夏目漱石の『こころ』、阿部次郎の『三太郎の日記』、倉田百三の『出家とその弟子』等に並んで、トルストイの『人生論』だった。

 このように晩年のトルストイは非暴力、博愛主義で知られる思想家として有名だが『戦争と平和』『アンナーカレーニナ』『復活』など、どれ一つを書いても巨匠としての名を残すのに十分な傑作を書いた作家であったことを忘れてはならない。

トルストイの歴史哲学

 『戦争と平和』はトルストイの気持ちとしては、小説であると同時に哲学の書でもあったようだ。

 人間の社会ではさまざまの出来事が起きる。なぜそのような出来事が起きたのか、なぜそのような形で起きたのか、人は知りたいと思う。そして、得てして、単純な原因に帰することを好む。そして、すべては「神のみはからい」によるのだ、とか「傑出した個人が引き起こした」などと言う。

 だが、それは誤りだとトルストイはいう。

 もろもろの現象の原因の総和は、人間の知恵では把握できない。しかし原因をさぐりだしたいという欲求は人間の心の中にこめられている。そこで人間の知恵は……もっともわかりやすい因子をつかまえて、これが原因だ、と唱えるのである……。もっとも幼稚な因子は、神々の意思と、もっとも目立つ歴史上の位置に立っている人々、……歴史上の英雄たちの意思である。しかし、各々の歴史上の事件の本質、つまりその事件に参加した人々の全集団の行動に目を注ぎさえすれば、歴史上の英雄の意思が集団の行動を指導しているのでないばかりか、逆に、常にひきまわされていることがわかるはずである。

 一九世紀のイギリスを代表する思想家にトーマス・カーライルがいる。カーライルは〈英雄史観〉の代表格だ。歴史上の偉大な出来事は、すべて傑出した個人の力によってなされたものだということを主張して、『英雄崇拝論』(一八四一)を書いた。

 『戦争と平和』はこのような思想への痛烈な反論として書かれている。すなわち、ナポレオンのモスクワ侵攻を詳細に分析し、描くことで、歴史の流れが、ナポレオンなど指揮者たちの意思とは関係なしに形成されていったことを証明しようとしたのである。

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