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サイゼリヤの最終日

寒い! 部屋の温度はマイナス。手がしびれてくる。手袋をしよう。
近くのサイゼリヤの最終日。昼の3時に誰もいないところで6人分の机を専有できる環境がなくなる。駅前だと一人席に押し込まれるのに。 #サイゼリヤ
赤池のLVの空席を確認。迷うな~。生ちゃんは来ないし、聴きたい曲はDay1に終わっている。それと手元にあるのは入場料きっちりの4000円。明日、考えよう。 #乃木坂バスラLV
モチベーションからすると君・僕がまだやられてない。歌うとしたら、久保がセンター。これなら聴きたい。Day3かDay4かですね。それか、アンコールに生ちゃんが東京から駆け付けるか。 #乃木坂バスラLV

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OCR化した4冊

『現代地政学事典』
 SARS (重症急性呼吸器症候群)
  新興感染症とは
  SARSのアウトブレイク
 EU
  統合の端緒
  統合の揺らぎ
『社会はどう進化するのか』
 グループから多細胞社会へ
  見えざる手は死んだ
  見えざる手万歳
  規制を再考する
  わが恥の殿堂
  より大きな規模で考える
  過去一万年間
  マルチレベル選択と現代
  アメリカにおける統合と不和の時代
  最後の一段をのぼる
『共産党宣言』
 「共産主義の原理」
  問 共産主義とは何か?
  問 プロレタリアートとは何か?
  問 するとプロレタリアートは常に存在していたわけではないということか?
  問 プロレタリアートはどのようにして発生したのか?
  問 ブルジョアジーヘのプロレタリアートの労働の販売はどのような条件のもとでなされるのか?
  問 産業革命以前にはどのような労働者階級が存在していたのか?
  問 プロレタリアはどの点で奴隷と異なるのか?
  問 プロレタリアはどの点で農奴と異なるのか?
  問 プロレタリアはどの点で手工業者と異なるのか?
  問 プロレタリアはどの点でマニュファクチュア労働者と異なるのか?
  問 産業革命が起こって社会がブルジョアとプロレタリアに分裂したことの直接の結果は何か?
  問 産業革命のさらなる結果は何であったか?
  問 この規則的に繰り返される商業恐慌からどのような事態が生じるのか?
  問 この新しい社会秩序はどのようなものでなければならないのか?
  問 すると私的所有の廃絶は以前には不可能だったのか?
  問 私的所有の廃棄は平和的方法によって可能だろうか?
  問 私的所有の廃絶は一挙にできるだろうか?
  問 この革命はどのような発展過程をたどるだろうか?
  問 この革命はただ一国だけで起こりうるだろうか?
  問 私的所有を完全に取り除いた結果はいかなるものだろうか?
  問 共産主義的な社会秩序は家族にどのような影響を及ぼすだろうか?
  問 共産主義的[社会]組織は既存の諸民族に対してどのような関係に立つだろうか?
  問 共産主義的[社会]組織は既存の宗教に対してどのような関係に立つだろうか?
  問 共産主義者は社会主義者とどのように異なるのか?
  問 今日、共産主義者はそれ以外の諸政党に対してどのような関係にあるのか?
『戦争と平和1』
 読書ガイド
  とても大きな作品
  物語の歴史的背景
  第1巻の構成--出来事・場・主人公たち

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「戦争と平和」読書ガイド

『戦争と平和1』より 読書ガイド
とても大きな作品
 『戦争と平和』が書かれたのは、今からおよそ一世紀半前の一八六三年から六九年にかけてのこと。一八二八年生まれのトルストイにとって、三十代の半ばから四十代の入り口までをそっくり捧げた勘定で、彼の創作歴の初期から中期へ、中・短編作家から長編作家への移行を画する作品となりました。ロシアの文芸学者ヴィクトル・シクロフスキーのように、トルストイがこの作品によってようやく素人作家からプロの作家になったとみる者もいます。
 いずれにせよ作者にとっても読者にとっても、いろいろな意味で大きな作品であることは間違いありません。物語のつくりからしても、ロシア人、フランス人をはじめ諸国民からなる五百五十名以上もの実在・架空とり混ぜた人物群の活動が、ロシアとヨーロッパ中・東部の広い地域を舞台に七年以上の歳月にわたって描かれるという、近代小説としては破格の規模。人名、地名、使用言語を含め、情報の種類や質もきわめて多様で、作品の分量も当然多く、本書のサイズで六巻に及びます。
 豊富な内容と多彩な語り口の独特な組み合わせゆえに、「(人間の生の営みを完全に再現した)真の芸術の奇蹟」(二コライ・ストラーホフ)、「現代最大の叙事詩であり、近代の『イーリアス』」(ロマン・ロラン)といった称賛から、「ぶよぶよ、ぶくぶくの巨大モンスター」「ヘンリー・ジェイムズ)という酷評まで、評価のあり方も複雑です。興味深いことに、作者自身はこの作品を「小説ではないし、ましてや叙事詩でもなく、歴史記録などではさらさらない」と、念入りな否定形で定義しています(「『戦争と平和』という書物について数言」)。
 ただし、われわれはまだ作品世界の入り口に立ったばかりですので、評価や意味付けは後回しにしましょう。まずは物語の歴史的背景、創作の動機と経緯、第1巻の構成など、若干の基本情報をまとめて読書ガイドとしたいと思います。
物語の歴史的背景
 『戦争と平和』に描かれる戦争とは、一九世紀初期にロシアとフランスとの間で行われた一連の戦争を意味しています。
 一八世紀末のフランス革命とそれに続くナポレオンの台頭は、ヨーロッパの近代史に多大な影響を与えましたが、その影響はロシアにも及びました。ヨーロッパの東端にあってオスマン帝国やスウェーデン、オーストリア、プロイセンなどと対抗していたロシアを、全ヨーロッパの秩序をめぐる闘争の現場に引き出す作用をしたのです。
 ロシア帝国は、ナポレオンが第一執政となった直後の一八○○年時点で推定人口が全欧随一の三千七百万、推定兵員数もフランスに次ぐ五十万を数える強力な軍事国家でした。これはロシアの徴兵制度の厳しさを物語るデータでもありますが、いまだ兵器や輸送手段が近代化される前の時代で、兵員数がすなわち軍事力の規模を示していたことを思うと、こうした数字はなおさら大きな意味を持ちます。ロシアを敵とするか味方とするかは、ヨーロッパのいずれの勢力にも大きな意味を持っていたのです。
 ロシアが革命後のフランスとの戦いに加わったのはパーヴェル一世(在位一七九七~一八○一)の時代が初めでした。一七九九年、親英の立場から第二次対仏大同盟に参加したロシアは、スヴォーロフ将軍率い右軍を北イタリアに派遣して、オーストリア軍との連携でフランス軍を圧倒する活躍を見せました。ただしこの後のクーデターでナポレオンが権力を掌握すると、パーヴェルー世はこれを反革命として歓迎し、ナポレオンと手を組んでイギリスと対抗するという挙に出ます。さらには英国領インドにコサック隊を遠征させるという無謀な計画を立てましたが、反対派勢力によって暗殺されてしまいます。
 次の皇帝で本作の主人公の一人でもあるアレクサンドル一世(在位一八○一~二五)は、当初は英仏との等距離外交を目指していましたが、やがて膨張政策をとるフランスとの関係が悪化、フランスはロシアに亡命していた反革命王党派フランス人の追放を要求し、ロシアはナポレオンによる反対派へのテロを批判するという展開になりました。本書冒頭のアンナ・シェーレルの夜会に出てくる、ジェノヴァとルッカの領有や王党派アンギャン公の冤罪による処刑に関する取沙汰も、ナポレオンの強引な体制固めへの批判的反響の代表例と見なせます。一方、長らくフランス社会をモデル視してきたロシア貴族層、とくに青年の間には、一将校から皇帝の位に昇り詰めたナポレオンに憧憬を覚える傾向も強く、冒頭の夜会はロシアにおけるナポレオン観の分裂を説明する場にもなっています。
 一八〇五年、ロシアはイギリス、オーストリアなどとともに第三次対仏大同盟を組み、同年十二月にはアレクサンドルー世自らが、オーストリアのフランツ一世とともに、アウステルリッツでナポレオン軍と戦います。三人の皇帝が対決したところから回一帝会戦」と呼ばれるこの戦闘は、トルストイの作品でも前半の山場となりますが、ロシア・オーストリア軍はこれに敗北、対仏大同盟は崩壊します。短期間の休戦の後、ロシアはさらに第四次対仏大同盟の枠組みでプロイセンと組んでナポレオンと戦いますが、プロイセン軍はイエナ・アウエルシュテットで撃破され、ナポレオンは解放者としてポーランドに進攻します。一八〇七年には東プロイセンのアイラウとフリートラントでナポレオン軍に退けられたロシアは、財政難と物資不足に加え、ペルシア、オスマン帝国とも戦っていたため講和に傾き、一八〇七年ネマン(ニーメン)河畔のティルジットで講和条約を結びます。
 対仏講和の結果ナポレオンの大陸封鎖令に従う義務を背負ったロシアは、対英貿易の停止で経済に大打撃を受け、戦費の負担と相まって窮状に追い込まれます。そうした経済問題に加えて、フランスの膨張政策が、さらにロシアの反発を誘います。一番の刺激要因は、一八一○年にオーストリア皇女マリヤ・ルイーザ(マリー・ルイーズ)と結婚してオーストリアとの関係を深めたナポレオンが、同年オルデンブルク公国を併合したことで、一八世紀のロシア皇帝ピョートル三世とその息子パーヴェル一世の家系ホルシュタイン=ゴットルプ家が領有するオルデンブルク公国の併合は、ロシアの浩券にかかわる事件でした。
 こうしたことを背景に、ロシアはひそかに大陸封鎖令を破って対英貿易を再開し、さらには中立国の国旗を掲げる国々への港湾開放を進めます。これがナポレオンの逆鱗に触れ、ついにて竺二年六月、六十万とも七十万ともいわれる大陸軍が、ネマン川を渡ってロシアに侵攻するという、いわゆるロシア遠征が開始されます。
 本書の第一頁に出てくるように、正教世界では、ナポレオンこそが世の終わりに現れる神の敵、反キリストだという説がささやかれていましたが、そうした恐るべき外敵に挙国一致で立ち向かったという意味で、この戦争はロシアで「祖国戦争」と呼ばれるようになります。その祖国戦争の経緯こそが小説後半の読みどころとなるので、ここではこれ以上の早まった解説は控えますが、トルストイの『戦争と平和』は、こたのです。
 実際に完成された作品では、一八二五年のデカブリストの蜂起は遠く暗示されるばかりで、それ以降の時代に至っては影も見えませんが、敗北した三帝会戦の前夜を出発点として▽几世紀前半のロシア国民の経験を大規模に描くという構想の方向性は明らかです。実際、この第1巻に含まれる小説の最初の部分は、当初『一八○五年』のタイトルで発表され、後に『戦争と平和』の全体に組み込まれたものです。
 こうした経緯は、作者のテーマの深化のプロセスをも物語っています。流刑地経由で過去からやって来たデカブリスト個人への関心が、過去の時代の人々の集合的な経験への関心に変わり、そしておそらく父祖の世代の志向・価値観・世界観を鏡として、現在を批判的に照らし出そうとする意識へと進化していったのでしょう。
 そこにはもちろん、一八五〇~六〇年代の変革の時代を地主貴族として生きていたトルストイ自身の、時代の方向性に対する問いかけが含まれていたと思われます。アレクサンドルニ世による農奴解放(一八六一年)の後の社会で、地主貴族と農民がどういう関係を築いていけるのか、新時代のモラルや価値観、国民統合の理念は、どういう土台の上に築かれるべきか、地主貴族の意味や役割はどこにあるのかといった、諸々の問いで、これらはまさに、西欧派・スラヴ派・急進派等々といった形でグループ分けされたこの時代の知識人たちの、共通の関心事でもありました。ここでは詳述を控えますが、半世紀前の近い過去の歴史を描いたこの長編が、実は随所で、まさにトルストイが生きた同時代ロシアの諸問題を描く器にもなっていることは見逃せません。
 もっと楽しいこの作品のルーツとして、トルストイがこの直前まで力を入れていた農民学校での歴史授業のエピソードがあります。農民の子弟に古代からの世界史を教えようとして退屈させていたトルストイが、ふと祖国戦争の歴史を面白いナポレオン退治のお話として語ったところ、子供たちが俄然愛国心に燃え上がり、いろんな役割を自分たちに振って劇風に楽しみだしたというのです。歴史をどのように語るか、その意味や役割は何かという、この長編の根底にある疑問が、そんな素朴な経験にも通じていると考えると、少し愉快な気持ちになります。

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「共産主義の原理」と私的所有

『共産党宣言』より 「共産主義の原理」
問 すると私的所有の廃絶は以前には不可能だったのか?
 答え そうだ。社会的秩序におけるどんな変化も、所有関係のどんな変革も、もはや古い所有関係に適合しなくなった新しい生産力が生まれたことの必然的な結果である。私的所有そのものもそうやって生まれたのである。というのも、私的所有は常に存在していたわけではなく、中世の終わりごろに、マニュファクチュアという生産の新しい仕方が生まれ、当時存在していた封建的・同業組合的所有に従属することができなかったので、この、古い所有関係に適合しなくなったマニュファクチュアは私的所有という新しい所有形態を生み出した。マニュファクチュアにとって、そして大工業の最初の発展段階にとって、私的所有以外のいかなる所有形態も不可能であり、私的所有にもとづく社会秩序以外のいかなる社会秩序も不可能であった。万人にとって十分な量を生産するだけでなく、社会的[総]資本を増大させ生産力のさらなる発展のための余剰生産物をも生産できるほどにならないかぎり、いつでも常に社会の生産力を自由に処分できる支配階級と貧困な被抑圧階級とが存在した。
 これらの諸階級がどのような状態にあるかは生産の発展段階にもとづいている。農耕にもとづいていた中世においては領主と農奴、中世後期の都市では同業組合の親方と職人と旦雇い、一七世紀にはマニュファクチュア業者とマニュファクチュア労働者、そして一九世紀には大工場主とプロレタリアである。明らかに、これまで生産力は、万人にとって十分な量を生産できるほどには、そして私的所有がこの生産力にとって栓枯、制限になるほどには発展していなかった。しかし現在、大工業の発展によって、第一に、資本と生産力とが前代未聞の規模で生み出され、この生産力を短期間で無限に増大させうるような手段が存在している。第二に、この生産力は少数のブルジョアの手に集中され、その一方で国民の大多数はますますもってプロレタリアになっていき、ブルジョアジーの富が増大していくのと同じ程度でプロレタリアの状態はますます悲惨で耐えがたいものになっていく。第三に、この巨大で容易に増大する生産力が私的所有とブルジョアを大きく乗り越えて成長したので、社会秩序のうちに最大級の混乱を日々刻々とっくり出しており、今では私的所有の廃棄が可能になっているだけでなく、まったくもって必要不可欠なものになっている。
問 私的所有の廃棄は平和的方法によって可能だろうか?
 答え そういうことが可能ならそれは望ましいことだろうし、共産主義者は間違いなくそれに反対することはないだろう。共産主義者は、あらゆる陰謀が無意味であるだけでなく有害であることを知りすぎるほど知っている。彼らは、革命が意図的かつ恣意的に引き起こされるものではなく、それはどこでもどの時代でも個々の党派や階級全体の意志や指導からまったく独立した状況の必然的な産物であることを知っている。
 しかしながら、同時にまた共産主義者は、プロレタリアートの発展がほとんどあらゆる文明諸国で暴力的に抑えつけられており、こうして共産主義者の敵たちが全力を尽くして事態が革命に至るよう仕向けていることも知っている。それゆえ、[暴カ的に]抑えつけられているプロレタリアートがついに革命に向けて突き進むことになるなら、その時には共産主義者は、現在言葉でもってプロレタリアの大義を守っているように行動でもってもそうするだろう。
問 私的所有の廃絶は一挙にできるだろうか?
 答え いやできない。それは、現在すでに存在する生産力を、協同社会の確立に必要な水準まで一挙に増大させることができないのと同じである。したがって、プロレタリア革命--その可能性は大いに高まっているが--は徐々にのみ現在の社会を転換していくだろうし、私的所有を廃絶することができるのはただ、それに必要な量の生産手段がっくり出された時になってからだろう。
問 私的所有を完全に取り除いた結果はいかなるものだろうか?
 答え まずもって、社会が私的資本家たちの手から、生産物の交換と分配のみならず生産力と交通手段の全体を利用する力を取り上げ、それを手持ちの諸手段と社会全体の必要とから生じる一個の計画にもとづいて運営し、そのことによって、現在は大工業の経営にまとわりついているさまざまな害悪のいっさいが取り除かれるだろう。恐慌は消滅する。それゆえ生産の拡大は--現在の社会秩序においては過剰生産をもたらし窮乏の強力な原因となっているのだが--、もはやこれで十分ということはなくなって、ますますもって進展するにちがいない。社会の直接的な必要を超えた過剰生産は、窮乏を生み出すのではなくて、万人の必要を確実に満たし、新しい欲求をも生み出し、それと同時にそれらを満たすための諸手段をもつくり出すだろう。それは新しい進歩の条件および動機づけになるだろうし、これまでと違って社会秩序を混乱に巻き込むのではなく、この進歩を完成へと導くだろう。私的所有の重荷から解放された大工業はその規模をますます拡大させ、現在の発展水準でさえ、ちょうどマニュファクチュアを現在の大工業と比べた時のようにちっぽけなものに見えるだろう。工業のこのような発展のおかげで、社会は十分な量の生産物を自由に利用することができ、それによって万人の欲求を満たすことができるだろう。同じことは農業についても言える。現在は私的所有の重荷と土地の細分化のせいで、すでになされた改良と科学的成果とを利用することが妨げられているのだが、その農業でも、まったく新しい飛躍が起こり、社会にまったく十分な量の農業生産物を供給することができるようになるだろう。このようにして社会は十分な量の生産物を生み出し、すべての成員の欲求を満たすよう分配を調整することができるようになるだろう。
 それによってまた、社会が、相互に対立する異なった諸階級に分裂していることは、余計なことになるだろう。それは余計であるというだけでなく、新しい社会秩序とは相容れないものである。諸階級の存在は分業から生じているのだが、これまで存在したような形態の分業はすっかり姿を消してしまうだろう。なぜなら、工業生産と農業生産を先に述べたような高さにまで引き上げるには機械的・化学的な補助手段だけでは十分ではないからである。それに応じて、これらの補助手段を使いこなす能力も人間のうちに同じ程度に発達していなければならない。前世紀の農民とマニュファクチュア労働者が大工業に巻き込まれるにつれて、その生活様式全体が変化し、また彼ら自身もまったく別の人間にならなければならなかったように、社会全体による生産の共同運営とそこから生じる生産の新たな発展はまったく異なった人間を必要とするし、それを生み出すだろう。生産の共同運営は、現在のような人間、すなわち何らかの一生産部門に従属し、そこに縛りつけられ、そこで搾取され、他のすべての素質を犠牲にしてたった一つの素質のみを発展させ、総生産の一部門ないしその中のさらに一小部門しか知らないような人間、そういう人間によっては行なわれえない。現在の工業でさえすでにこのような人間をますます必要としなくなっている。社会全体によって運営される共同的かつ計画的な工業は何よりも、あらゆる方面に素質を発達させ生産のシステム全体を見通すことのできる全面的な人間を前提としている。
 ある者は農民に、別の者は靴職人に、第三の者は工場労働者に、第四の者は株式の投機屋になるといったような、現在すでに機械によって掘りくずされつつある分業はしたがって、完全に姿を消すだろう。[産業]教育を通じて、若者たちは生産の全体系をひと通り遂行することが短期間にできるようになり、各人は、社会の必要やそれぞれの好みにもとづいて一連の生産部門を次々と移っていくことができるようになるだろう。したがって、現在の分業が各人に押しつけている一面的な性格は取り除かれるだろう。このようにして、共産主義的に組織された社会は各成員に、自らの素質を全方面に発達させ、それを全面的に働かせる機会を与えるだろう。しかしそれによって、異なった諸階級も必然的に消え去るだろう。したがって、共産主義的に組織された社会は、一方では階級の存続と相容れないし、他方では、この社会の成立それ自体がこの階級差別を廃棄するための手段を提供するのである。
 以上のことから、都市と農村との対立もまた消えてなくなるだろう。農業の運営と工業の運営とが、二つの異なった階級によってではなく同じ人々によって行なわれることは、まったく物質的な理由からしても共産主義的な協同社会にとっての必要条件である。農業に従事している住民が農村に分散している一方で、工業に従事している住民が大都市に密集しているという状況は、農業と工業がまだ未発達である段階に照応したものに他ならず、それがさらなる発展にとっての障害物になっていることは今日すでにはっきり感じられるものとなっている。
 生産力を共同的かつ計画的に利用するために社会の全成員を包含する普遍的な協同社会をつくり出すこと、万人の欲求を満たすほどに生産を拡張すること、誰かの欲求を満たすために他の人々の必要を犠牲にするような状態をなくすこと、階級と階級対立を全面的に廃絶すること、これまでのような[一面的な]分業を取り除き、産業教育をほどこし、さまざまな仕事を交代で遂行することを通じて、また、万人によって生産された富の享受にすべての人を参加させ都市と農村との融合をはかることを通じて、社会のすべての成員の能力を全面的に発達させること--以上が私的所有を廃絶したことの主な結果である。
問 共産主義的な社会秩序は家族にどのような影響を及ぼすだろうか?
 答え それは、両性の関係を当事者のみが関わる純粋な私的関係にし、社会はそれにいっさい干渉しないだろう。それが可能となるのは、共産主義的な社会秩序が私的所有を取り除き、子どもを社会全体で養育し、そうすることによってこれまでの[ブルジョア的]婚姻の二つの基盤を一掃するからである。すなわち、私的所有を通じた夫への妻の従属と両親への子どもの従属である。これは、共産主義による女性共有制に反対する超道徳的な俗物どもの非難に対する回答にもなっている。女性共有制というのは、完全にブルジョア社会に属するものであって、今日、売買春のうちに完全に実現されている関係のことである。しかし売買春は私的所有にもとづいており、後者の没落とともに没落する。したがって、共産主義的[社会]組織は女性共有制を導入するのではなく、むしろそれを廃棄するのである。
問 共産主義的[社会]組織は既存の諸民族に対してどのような関係に立つだろうか?
 --そのまま。[さまざまな身分や階級の諸区別がその土台である私的所有が廃止されることで消え去るのとまったく同様に、共同体の原理にもとづいて相互に団結する諸国民の民族性は、この団結の結果として相互に融合しあい、こうして消滅せざるをえないであろう。」
問 共産主義的[社会]組織は既存の宗教に対してどのような関係に立つだろうか?
 --そのまま。[これまでの宗教はみな、個々の民族または民族集団の歴史的な発展諸段階を表現するものであった。だが共産主義は、あらゆる既存の宗教を余計なものにし消滅させるような歴史的発展段階である。]

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