『戦争と平和1』より 読書ガイド
とても大きな作品
『戦争と平和』が書かれたのは、今からおよそ一世紀半前の一八六三年から六九年にかけてのこと。一八二八年生まれのトルストイにとって、三十代の半ばから四十代の入り口までをそっくり捧げた勘定で、彼の創作歴の初期から中期へ、中・短編作家から長編作家への移行を画する作品となりました。ロシアの文芸学者ヴィクトル・シクロフスキーのように、トルストイがこの作品によってようやく素人作家からプロの作家になったとみる者もいます。
いずれにせよ作者にとっても読者にとっても、いろいろな意味で大きな作品であることは間違いありません。物語のつくりからしても、ロシア人、フランス人をはじめ諸国民からなる五百五十名以上もの実在・架空とり混ぜた人物群の活動が、ロシアとヨーロッパ中・東部の広い地域を舞台に七年以上の歳月にわたって描かれるという、近代小説としては破格の規模。人名、地名、使用言語を含め、情報の種類や質もきわめて多様で、作品の分量も当然多く、本書のサイズで六巻に及びます。
豊富な内容と多彩な語り口の独特な組み合わせゆえに、「(人間の生の営みを完全に再現した)真の芸術の奇蹟」(二コライ・ストラーホフ)、「現代最大の叙事詩であり、近代の『イーリアス』」(ロマン・ロラン)といった称賛から、「ぶよぶよ、ぶくぶくの巨大モンスター」「ヘンリー・ジェイムズ)という酷評まで、評価のあり方も複雑です。興味深いことに、作者自身はこの作品を「小説ではないし、ましてや叙事詩でもなく、歴史記録などではさらさらない」と、念入りな否定形で定義しています(「『戦争と平和』という書物について数言」)。
ただし、われわれはまだ作品世界の入り口に立ったばかりですので、評価や意味付けは後回しにしましょう。まずは物語の歴史的背景、創作の動機と経緯、第1巻の構成など、若干の基本情報をまとめて読書ガイドとしたいと思います。
物語の歴史的背景
『戦争と平和』に描かれる戦争とは、一九世紀初期にロシアとフランスとの間で行われた一連の戦争を意味しています。
一八世紀末のフランス革命とそれに続くナポレオンの台頭は、ヨーロッパの近代史に多大な影響を与えましたが、その影響はロシアにも及びました。ヨーロッパの東端にあってオスマン帝国やスウェーデン、オーストリア、プロイセンなどと対抗していたロシアを、全ヨーロッパの秩序をめぐる闘争の現場に引き出す作用をしたのです。
ロシア帝国は、ナポレオンが第一執政となった直後の一八○○年時点で推定人口が全欧随一の三千七百万、推定兵員数もフランスに次ぐ五十万を数える強力な軍事国家でした。これはロシアの徴兵制度の厳しさを物語るデータでもありますが、いまだ兵器や輸送手段が近代化される前の時代で、兵員数がすなわち軍事力の規模を示していたことを思うと、こうした数字はなおさら大きな意味を持ちます。ロシアを敵とするか味方とするかは、ヨーロッパのいずれの勢力にも大きな意味を持っていたのです。
ロシアが革命後のフランスとの戦いに加わったのはパーヴェル一世(在位一七九七~一八○一)の時代が初めでした。一七九九年、親英の立場から第二次対仏大同盟に参加したロシアは、スヴォーロフ将軍率い右軍を北イタリアに派遣して、オーストリア軍との連携でフランス軍を圧倒する活躍を見せました。ただしこの後のクーデターでナポレオンが権力を掌握すると、パーヴェルー世はこれを反革命として歓迎し、ナポレオンと手を組んでイギリスと対抗するという挙に出ます。さらには英国領インドにコサック隊を遠征させるという無謀な計画を立てましたが、反対派勢力によって暗殺されてしまいます。
次の皇帝で本作の主人公の一人でもあるアレクサンドル一世(在位一八○一~二五)は、当初は英仏との等距離外交を目指していましたが、やがて膨張政策をとるフランスとの関係が悪化、フランスはロシアに亡命していた反革命王党派フランス人の追放を要求し、ロシアはナポレオンによる反対派へのテロを批判するという展開になりました。本書冒頭のアンナ・シェーレルの夜会に出てくる、ジェノヴァとルッカの領有や王党派アンギャン公の冤罪による処刑に関する取沙汰も、ナポレオンの強引な体制固めへの批判的反響の代表例と見なせます。一方、長らくフランス社会をモデル視してきたロシア貴族層、とくに青年の間には、一将校から皇帝の位に昇り詰めたナポレオンに憧憬を覚える傾向も強く、冒頭の夜会はロシアにおけるナポレオン観の分裂を説明する場にもなっています。
一八〇五年、ロシアはイギリス、オーストリアなどとともに第三次対仏大同盟を組み、同年十二月にはアレクサンドルー世自らが、オーストリアのフランツ一世とともに、アウステルリッツでナポレオン軍と戦います。三人の皇帝が対決したところから回一帝会戦」と呼ばれるこの戦闘は、トルストイの作品でも前半の山場となりますが、ロシア・オーストリア軍はこれに敗北、対仏大同盟は崩壊します。短期間の休戦の後、ロシアはさらに第四次対仏大同盟の枠組みでプロイセンと組んでナポレオンと戦いますが、プロイセン軍はイエナ・アウエルシュテットで撃破され、ナポレオンは解放者としてポーランドに進攻します。一八〇七年には東プロイセンのアイラウとフリートラントでナポレオン軍に退けられたロシアは、財政難と物資不足に加え、ペルシア、オスマン帝国とも戦っていたため講和に傾き、一八〇七年ネマン(ニーメン)河畔のティルジットで講和条約を結びます。
対仏講和の結果ナポレオンの大陸封鎖令に従う義務を背負ったロシアは、対英貿易の停止で経済に大打撃を受け、戦費の負担と相まって窮状に追い込まれます。そうした経済問題に加えて、フランスの膨張政策が、さらにロシアの反発を誘います。一番の刺激要因は、一八一○年にオーストリア皇女マリヤ・ルイーザ(マリー・ルイーズ)と結婚してオーストリアとの関係を深めたナポレオンが、同年オルデンブルク公国を併合したことで、一八世紀のロシア皇帝ピョートル三世とその息子パーヴェル一世の家系ホルシュタイン=ゴットルプ家が領有するオルデンブルク公国の併合は、ロシアの浩券にかかわる事件でした。
こうしたことを背景に、ロシアはひそかに大陸封鎖令を破って対英貿易を再開し、さらには中立国の国旗を掲げる国々への港湾開放を進めます。これがナポレオンの逆鱗に触れ、ついにて竺二年六月、六十万とも七十万ともいわれる大陸軍が、ネマン川を渡ってロシアに侵攻するという、いわゆるロシア遠征が開始されます。
本書の第一頁に出てくるように、正教世界では、ナポレオンこそが世の終わりに現れる神の敵、反キリストだという説がささやかれていましたが、そうした恐るべき外敵に挙国一致で立ち向かったという意味で、この戦争はロシアで「祖国戦争」と呼ばれるようになります。その祖国戦争の経緯こそが小説後半の読みどころとなるので、ここではこれ以上の早まった解説は控えますが、トルストイの『戦争と平和』は、こたのです。
実際に完成された作品では、一八二五年のデカブリストの蜂起は遠く暗示されるばかりで、それ以降の時代に至っては影も見えませんが、敗北した三帝会戦の前夜を出発点として▽几世紀前半のロシア国民の経験を大規模に描くという構想の方向性は明らかです。実際、この第1巻に含まれる小説の最初の部分は、当初『一八○五年』のタイトルで発表され、後に『戦争と平和』の全体に組み込まれたものです。
こうした経緯は、作者のテーマの深化のプロセスをも物語っています。流刑地経由で過去からやって来たデカブリスト個人への関心が、過去の時代の人々の集合的な経験への関心に変わり、そしておそらく父祖の世代の志向・価値観・世界観を鏡として、現在を批判的に照らし出そうとする意識へと進化していったのでしょう。
そこにはもちろん、一八五〇~六〇年代の変革の時代を地主貴族として生きていたトルストイ自身の、時代の方向性に対する問いかけが含まれていたと思われます。アレクサンドルニ世による農奴解放(一八六一年)の後の社会で、地主貴族と農民がどういう関係を築いていけるのか、新時代のモラルや価値観、国民統合の理念は、どういう土台の上に築かれるべきか、地主貴族の意味や役割はどこにあるのかといった、諸々の問いで、これらはまさに、西欧派・スラヴ派・急進派等々といった形でグループ分けされたこの時代の知識人たちの、共通の関心事でもありました。ここでは詳述を控えますが、半世紀前の近い過去の歴史を描いたこの長編が、実は随所で、まさにトルストイが生きた同時代ロシアの諸問題を描く器にもなっていることは見逃せません。
もっと楽しいこの作品のルーツとして、トルストイがこの直前まで力を入れていた農民学校での歴史授業のエピソードがあります。農民の子弟に古代からの世界史を教えようとして退屈させていたトルストイが、ふと祖国戦争の歴史を面白いナポレオン退治のお話として語ったところ、子供たちが俄然愛国心に燃え上がり、いろんな役割を自分たちに振って劇風に楽しみだしたというのです。歴史をどのように語るか、その意味や役割は何かという、この長編の根底にある疑問が、そんな素朴な経験にも通じていると考えると、少し愉快な気持ちになります。