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その後 うまれたもの・変わったこと

『その後のボランティア元年』より うまれたもの・変わったこと
組織化とセクター化の果て
 第1に、ターニングポイントとしてのボランティア元年の意味についてである。ボランティア元年自体は、量的にも質的にもそれまでのボランティア観を大きく変える要素を有していたが、それが起こったのは必ずしも自然災害による偶然ではない。兵庫県や神戸市においては、それまでの先駆的ともいえる地域活動が存在し、生協活動や非営利有償の福祉活動など、その後のNPO、あるいは一足飛びにコミュニティビジネスやソーシャルビジネスに接続し得るような諸活動が存在していたという点て連続性を有している。ここに、県外からの多くのボランティア参加が接合し再編されることになるが、その媒介項として当時のネットワーキングの概念や発想があった、もしくはまさにそれが体現されるかたちで展開されてきた。このようにしてボランティア元年が生み出されたが、それはこの地における市民による地域活動の構造を変容させたという意味をもっていた。
 第2に、こうした市民活動の構造の変容は、端的にいえば「ボランティアからNPOへ」「NPOの事業組織化へ」という視点や枠組みの変化を生むとともに、各々の組織の構造も変容させることにつながった。兵庫県における具体的な活動という社会現象から全国的な政策議論へ、個人や小グループの活動から組織的活動へ、運動や支援より事業化に比重を置くバランスヘ、任意であるが故に不可視な存在から社会的な権利義務を有する主体へ、などの変化は、ボランティアのネットワークが「NPO」という衣をまとう組織的存在となる流れと不可分であった。同時にこうしたことは、ネットワークから組織へ、市民の組織から市民を対象とする組織への変化を意味する。
 地域や課題の当事者が含まれ、相互的な関係の中で活動を行っていた団体がこうして組織化することの意味は、当事者性や相互性というボランティアやNPOが有する特性を変容させることにつながる。そしてこうした組織構造の変容をもたらす背景にあるのが。2000年代に起こるNPOの事業組織化の影響であろう。
 もちろん、事業組織化そのものは、社会的な支援に限りがある中でNPOの財政基盤を強固にし、持続可能性を確かなものとするために不可欠であったといえる。その一方で、市民の組織として時に行政と対峙してきた諸活動は、行政と協働しともに市民に向き合う存在となった。こうした変容の直接的要因は。NPO法や介護保険法、指定管理者制度であり、兵庫県においては「生きがいしごとサポートセンター」事業をはじめとする委託事業などにも求められるだろう。
 ボランティアから組織としてのNPOへ、そしてその事業組織化という流れは、ボランティア元年そのものというより、それと政策が接合したことで方向付けられたものといえる。ただし、そうした事業組織化の推進が、結果としてボランティアやNPOの最大の資源とでもいえる市民との距離を生んでいるのだとすれば、そのあり方やバランスについて再考すべき時期にきているともいえる。
自発的参加の変容と多様性の高まり
 第3に、ボランティア参加層をはじめとする自発的参加の動向である。震災以前から行われている調査結果を踏まえれば、その活動者そのものに大きな変化はない。
 1985年にもっとも多かった活動層は40歳代以上の女性であり、その後若年層や男性の参加も増やしてはいるものの、主要な活動層はこの層がほぼスライドしてきていることが推察された。すなわち、主として1980年代に40-50歳代であった女性が、この地の活動を生み出し、今日の状況を生み出してきたパイオニアである可能性が高い。
 ただし、このことは、主たる活動層の高齢化が進み世代交代が進まないという、今日の難しさを同時に示している。また、より重要なことは、高まるニーズに対し、担い手や寄付などの自発的参加の部分の減少傾向である。一方で、クラウドファンディングの高まりや様々な“ソーシャル”な活動に若者の関心が向かう時代にあって、“目立たない”身近な諸活動への参加や支援が進まない要因は様々に考えられるだろう。組織をつくり、セクターを形成したことは、この分野の全体像をわかりやすくしたが、前述のとおり、それが内と外を峻別させることにつながり、かえって市民との距離感を生じさせている可能性もまた否定できない。多くの参加を獲得すべく存在感を高めてきたことが、かえって共感を失いつつあるとしたら、それは組織化や事業化、セクター化の一種のジレンマであるといえるだろう。
 第4に、一方で、そのセクター内には実に多様な組織が存在するようになった、メジャーとされる活動分野(保健・医療・福祉や子育て、まちづくり)、平均的な組繊現模と構成はあるにしても、平均像以上に意味をもつのはその分散の大きさの方・こある、唯一このセクターに共通していることは、担い手や資金などの活動を行うための資源不足という課題だけともいえそうである。ボランティア団体とNPO法人はその財政構造が異なり、NPO法人の規模も様々である。加えて、一殴社団法人や株式会社のような異なる法人形態を選択する団体も増加してきてい5。その一方で、これらを明確に峻別するような理論的・政策的な軸は見出されでおらず、多様でありながら連続的な存在である。NPOという概念が先行的に召介され、意味付与され、震災以降、その“あるべき姿”を目指して多くの人が号力してきたが、NPOは目的ではなく手段であることが認識されるのと引き換Uこ、共通するひとつの姿を求めることは困難となった。
 もっとも、ボランティアやNPOが何らかの課題認識に基づきつつ緩々かなネタトワークとして様々に立ち起こってきた経緯を考えると、こうした多楡咤は不茲議ではない。また、今日多くを占める震災以降に設立されたNPOにとっては、むもそも規範的なNPO像が当初からあったとは限らない。その意味で。NPOま数多ある組織のなかのひとつとして存在する、いわば“普通の組織”になったりだといえる。またこうした多様性の中にあって,  NPOを一概に未成熟な組織ヒみる見方もまた誤りであろう。むしろ、古典的な組織観にあてはまらないようま様々な形の組織を次々に生み出してきたのがNPOだともいえる。
ネットワーク構造の変容
 第5は、ボランティアやNPOのネットワーク特性についてである。震災期においては、組織を越えるような個々人のネットワークが大きな力を発揮し、そのyイナミズムの価値を多くの人が実感した。それ故、様々な機会で互いを見知りながらも共にひとつの組織を作るのではなく、相互に連携しつつもそれぞれの地或や課題ごとに組織が生まれ、それが前述のNPOの多様性や各所の中間支援組哉の設立につながっている。このことは兵庫県のボランティア・NPOの特徴のひヽとつともいえるが、こうしたネットワークもまた変容していると考えられる。端的にいえば、組織がなかった時代から組織を基盤に活動する時代への移行を背景に、現場の様々な情報を共有し当事者として行動する市民のネットワークから、機能的な組織間ネットワークヘの変化である。
 そもそも、個々人のネットワークについては、ボランティアにせよNPOにせよ、その多くが人を介した参加であることを考えると、ボランティア・NPOにとって生命線ともいえるほどの重要性がある。他方で、担い手と寄付という自発的支援が減少しているこの間のトレンドを踏まえると、こうしたネットワーク自体が量もしくは質の面において脆弱化していることも推察される。“ネットワークの力”の変容、もしくは弱まりである。
 組織間のネットワークにしても、とくに互いに近しい存在と考えられるNPO間については、行政との関係よりも相対的にその量的機会は少ない。このことは様々な意味が合まれていると考えられるが、まずNPO間については、他に比べ協働関係が多いという事実の反面で、競合関係の存在や地域や分野の棲み分けの可能性、さらには同じ課題や地域に関心をもっていても理念やアプローチの違いなど、複雑な事情が生じてきている(かつ、それを乗り越えるに至っていない)ことも背景にあると推察できる。
 また、行政(公設民営で、助成事業を行っているひょうごボランタリープラザも含まれることが考えられる)との関係については、他のどの組織よりも関わりがあり、とりわけ場所や資金などの提供を受けるという点で資源については依存関係にあるようにみえる。ただし、この点については行政に対し政策提言などを行う組織も少なからず存在し、よく指摘されるような、NPOが行政からの委託事業のみに依存することから、行政の意向に無批判的に従うような、いわゆる「NPOの下請化」とも様相が異なる。生きサポ事業の成果や協働事業などの増加、各所にある中間支援組織の役割を踏まえると、行政側からしてもNPOの事業実施に頼っている部分はあり、この点を踏まえると相互依存の関係が生み出されたのだといえるだろう。
 このように、一方で行政との関係において組織運営上の資源に頼りながら、他方において個人やNPO間のネットワークを介して担い手の参加が期待できない状況は、二-ズは高まりながらそれを支える資源の低減という意味で、今日の課題であるといえるだろう。歴史が示したように、NPOの組織運営が国や行政の政策動向に翻弄されてきた経験を考えると、こうしたネットワークの構造は一種の脆弱性をはらんでいるともいえる。事業化による組織の持続可能性と、縦横のネットワークの力による活動の展開可能性をどのように両立していくか考える時期に来ているのだろう。

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ドイツ 深刻な社会格差

『地図で見るドイツハンドブック』より 1民族だが2つの社会
ヨーロッパ大陸最大の経済力を誇るドイツは、じつは深刻な地域的な不均衡を示しており、それは失業率と住民1人あたりの可処分所得が地域ごとに異なる経済的格差と結びついている。再統一から20年後、新連邦州は旧西ドイツの州より2倍以上貧しいと同時に、失業の影響もより甚大に受けている。だが、旧西ドイツ内部にもまた、南部のもっとも豊かな地方と北部の失業率がよりいちじるしい地方、とくにルールのようなかつての工業地帯との対照的な格差がみられる。
持続される失業格差
 西側のすべての国と同様、1970年代以降の経済変化は、西ドイツの失業拡大をもたらしてきた。それでも、1990年に7パーセントという失業率は隣国よりも相対的に低かった。再統一後、あらゆる分野での大量解雇が象徴しているように、旧東ドイツの産業が崩壊し、最悪となった1997年、ついで2005年の失業率は、ドイツの労働人口のじつに13パーセントにも達した。2008年の金融危機[リーマン・ショック]の当初は9パーセントともちなおすが、1992年以来、新連邦州の失業率はつねに旧西ドイツのそれのすくなくとも2倍にのぽり、1997年から2006年にかけては平均で18-20パーセントにのぽっていた。シュレーダー政権[ゲアハルト・フリッツ・クル卜・シュレーダー。第7代連邦首相在任1998-2005」による労働市場改革と出生率の低下によって失業率が大幅に下がり、ドイツ全体でその現象はやむことがなかった。そして2018年10月には、4.9パーセントという歴史的な低水準に達している。
 ただ、ドイツのすべての地方がこうした状況を享受してきたとしても、東西ではなおも大きな格差が存続している。たしかにこの格差は狭まり、旧西ドイツの連邦州が4.5パーセントなのに対し、新連邦州では6.4パーセントとなっているが、もっとも低い失業率は旧連邦州のバイエルン州(2.6パーセント)やバーデン=ヴュルテンベルク(3パーセント)である。反対に、同じ旧連邦州でありながら、ブレーメン(9.5パーセント)は、新連邦州のベルリン(7.7パーセント)やザクセン=アンハルト(7.1パーセント)、メクレンブルク=フォアポンメルン(7.1パーセント)より失業率が高い。また、新連邦州のザクセン(5.5パーセント)やテューリングン(5.1パーセント)は、旧連邦州のザールラント(5.8パーセント)やハンブルク(6.1パーセント)、ノルトライン=ヴェストファーレン(6.4パーセント)より失業率が低い。このことは、南北の溝が、なおも顕著な東西の溝にとって代わりつつある事実を示している。
失業と闘うための改革
 2001年から2005年にかけて失業者が385万人から490万人へと大量に増えたことを受けて、ときのシュレーダー政権は、失業者の労働市場への回帰を改善するための積極的な政策を実施した。「アジェンダ2010」と命名されたこの改革にもりこまれたのは、中小企業の解雇保護制度の緩和、個人企業の創設と失業者の起業促進、失業手当の給付額と給付期間の減額・縮小[ほかに失業扶助と社会扶助の新しい失業給付への統合など]たった。長期の失業者たちは当該地方の平均給与より30パーセント減の報酬でも、雇用を受け入れるよう強制された。これをこばむと、失業手当が大幅に削られた。これら一連の施策は不人気だったが、失業のいちじるしい減少をもたらした。2008-2009年の経済危機にもかかわらず、こうして失業率は下がりっづけ、2018年10月には4.9パーセントにまでなっている
東西の傾度
 2004-2016年のあいだ、ドイツ東部(旧東ドイツ)の国内総生産(GDP)は西部よりすみやかに向上したが、富の格差はなおも東西できわめて大きい。新連邦州の1人あたりの国内総生産はドイツ全体の平均値の70-75パーセントにすぎない。例外はベルリン都市州で、その数値は西部でもっとも貧しいニーダーザクセン州をしのいでいる。面積はかなり狭いが、都市圏の経済活動が集中して国内総生産がふくらんでいるふたつの港湾都市州[自由ハンザ都市ハンブルクと自由ハンザ都市ブレーメン]を別にして、もっとも豊かな州は南部のバイエルン州[2018年における国内総生産は6250億ユーロ(1人あたり4万8000ユーロ)で、EU28か国中22か国を上まわる]とバーデン=ヴュルテンベルク州、そしてヘッセン州である。一方、北部の州はさほど豊かではない。南部の利点は競争力のある工業と第3次産業の集中、さらに好調な輸出にある。
深刻な経済格差
 郡のレベルでも、1人あたりの国内総生産はいったいに低い東部と、より高いが、地域ごとにかなり対照的な西部とのあいだに格差がみられる。また、大都市圏(ミュンヘン、シュトゥットガルト、ニュルンベルク、ハンブルク、ライン=ルール、フランクフルト=ヴィースバーデン)の国内総生産はきわめて高水準であるのに対し、大都市圏周辺の農村地域(バイエルンの森、プファルツ、エムスラント)は、しばしば東部の田園地帯と同様に低水準にとどまっている。だが、ルール地方のような都市圏の中心的な都市でも、国民総生産は脆弱なものとなっている。貧しい人々が集まっているからである。これに対し、ミュンヘンとフランクフルトは、高度な第3次産業のおかげで最大の国内総生産を有する大都市である。この両都市およびシュトゥットガルトとカールスルーエ周辺の郡もまた、ハイテク産業を集めて国内でもっとも豊かな地域となっている。新連邦州の国民総生産についていえば、ドイツの平均をわずかながら上まわる大都市(ペルリン、ライプツィヒ、エアフルト、イエナ、ロストック)と、ほぽ全体的に平均の64パーセント未満である農村部との格差が、ここ数年のあいだに拡大している。

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ヒッチハイクは本当に危険なのか

『旅の効用』より ヒッチハイクの愉悦と憂鬱
ヒッチハイクは本当に危険なのか
 こうしたバラ色のヒッチハイクの思い出があるから、それから三十年後の二〇一五年にドロミテの道端で立っていてもあまりネガティヴにはならなかった。だが現代においてはヒッチハイクは危険だと、誰もが口を揃えて言う。昔は問題なかったが、今は世の中が不穏になっていると。
 ドライバーの側も同様の不安を抱いている。まともなドライバーなら今、ヒッチハイカーを乗せようとはしない。かつて人間同士が抱いていた信頼関係は消え失せてしまったのだ。信用などするな! ヒッチハイカーの思い出など忘れてしまえ!
 不満を抱きつつ、私は親指を立てて道端に立ち尽くした。だがうまく行くとは思っていない。一方ヨーアンは励ましてくる。彼はすっかり夢中なのだ。
 「待とうよ、うまく行くから」と彼は言う。
 十分後、四十代の女性が運転するクルマが停まった。後部座席には七歳の双子の男の子と、毛むくじゃらのイヌ一頭が座っている。
 「場所を見つけてさっさと乗ってね」と女性が言う。
 私は子どもの間に座り、膝にイヌを乗せる。ヨーアンが女性と会話を交わす。彼女が語るには、今からロープウェーで高原に行って、日当たりのいい晩夏の山歩きを楽しみたいとのこと。
 双子のほうは押し黙ったままだが、シャイと言うより言語の問題らしい。二人してイタリア語をしゃべりながら、私をじっと見つめていたからだ。双子も母親も私たちを恐れている。私たちはクルマに乗せてもらっているからには、もちろん彼らのことを恐れてなどいない。その瞬間、ヒッチハイクは危険かもしれないという考えはまったくばかげていると私は思った。
 ヒッチハイクは、輸送手段があるところでは常に行われてきた。新約聖書の使徒行伝にはすでに、ピリポがエルサレムからガザ地区までエチオピア人宦官に乗せてもらっていると書かれている。
 そして現代においてヒッチハイクは、アメリカでクルマが大量に走るようになって復活した。三〇年代には不況ゆえ、道端に立って合図する人々が増加した。第二次世界大戦中には、ヒッチハイカーを同乗させるのは愛国的な行為と見なされるようになる。アメリカ政府が市民に同乗を勧めたのだ。国内で燃料が節約でき、その燃料を武器に使用できるというわけだ。
 二人きりでクルマに乗るのは、ヒトラーと同乗しているようなもの」とアメリカのポスターの下に書かれていた。そのポスターを見ると、フェルト帽をかぶった男が一人でカブリオレに乗っている--そして助手席に幽霊として描かれているのはヒトラー。
 ヒッチハイクは六〇年代には、若者の生活様式の一つとしてヨーロッパで広まった。ヨーロッパの主要道一般、特にドイツのアウトバーンに通じる箇所には、リュックサックとボール紙持参のヒッチハイカーがたむろしていた。一番人気があったのは、西ベルリンを出て東ドイツの「通過用道路」を走り、西ドイツに達する道路だった。ドイツ分割と冷戦の時代ゆえ、その道は心理的に例外的存在だったのだ。車外が緊張状態にあったので、車内に一体感が生まれ、同乗者同士がたがいに助け合ったのである。空席のあるクルマはほとんどすべて停まってヒッチハイカーを乗せた。ヒッチハイカーは、こうした「通過用道路」に向かうクルマに次々に乗り込んだ。
 イスラエルも、ヒッチハイカーにとても寛大な地域だった。少なくとも一九八七年のインティファーダ(イスラエル支配地区でのパレスチナ人の蜂起)まではそうだった。私は八○年代に二度、春にキブツで働いたことがあり、好景気を身をもって体験している。その後すぐさま、キブツの友人たちといっしょにイスラエルを縦横無尽にヒッチハイクした。北部のマツ林の中に位置する涼しいキリヤット・シュモナから、暑いシナイ砂漠のヌウェイバに至るまで、行かないところはないくらいだ(同砂漠はその直後にエジプトに返還された)。
 私たちは孤独ではなかった。交差点に立っていると、イスラエルの学生や兵士たちが、肩に自動小銃を構え、ボタンを外したシャツ姿で話し相手になってくれた。ドライバーたちもクルマを停めてくれた。二十人のヒッチハイカーが主要な分岐点で立って待っていても--他の国だったらこれは絶望的な状況だが--、せいぜい十分、最長でも二十分待てばよかった。全員がヒッチハイクできたのである。
 イスラエルは東ドイツの「通過用道路」と同様の状態だった。外的な脅威のおかげで一体感が強かったのである。人々はまとまりを見せ、たがいに助け合った。だがそうした感情にも限界があった。イスラエル人に言わせれば、パレスチナ人やアラブ人となると話は違った。強烈な不信感を抱いていたのである。
 ヨルダン川西岸地区とガザ地区は当時、まだある程度は平穏だったが、そうは言っても共同体としては別で、そこにはユダヤ人はいなかった。私たち各国のボランティアは、ユダヤ人でもイスラム教徒でもないので、ありかたくも両陣営に受け入れられていた。
 私はイスラエル人ドライバーよりも寛大なパレスチナ人ドライバーたちのクルマに乗った。パレスチナ人ドライバーは人を乗せるだけでは不満で、私たちを自宅に招いてくれた。ヘブロンでは、不意に、床に置かれたコメと野菜、鶏肉の大鉢を前にして座らされ、それを食べておしゃべりした。見知らぬ人といっしょに夕食を食べるのは当たり前のこと、日常的なことのようだった。
 イスラエル北部のヒッチハイク旅は、イエスの故郷ナザレで終わりを告げた。その地で私たちは、アラブ人キリスト教徒の自宅に招待された。そして目玉焼きとピタ(中近東のパン)、それに大量のラキ(蒸留酒)を供され、結局は泊まらせてもらった。私たちは宿泊代が浮いたので大喜びだった。
 当時の私は、寛大さについて今のようには考えていなかった。十八歳になったばかりであり、初の外国一人旅だったことも手伝って、世界は寛大で信頼に満ちあふれていると信じ始めていた。人が不安を抱くのは知識不足が原因だと考えていたのだ。
 「スデロットには行くな、あそこには背中にナイフを刺すアラブ人が住んでいる」とキブツで言われたことがある。
 私たちはそれにはかまわず、ヒッチハイクでスデロットに向かった。
 スデロットに着くと今度は「エレズのキブツにいるユダヤ人は信用するな」と言われた。
 私たちはそれも無視してキブツに戻った。
 だがほどなくして足のマメが破れた。私の頭の中では、若者ならではの無邪気さと、たくさんの苦い経験が混ざっていた。スリにも遭ったし、私と同行していた女性たちが男たちから乱暴にさわられたりもした。私が働いたキブツもPLOに襲撃された(ニワトリの飼育所が直撃された。人的被害はなかったがニワトリが一万羽死んだ)。そして一九八二年春にはついにイスラエルがレバノン南部に侵攻した。同地区はこうして平穏さを失った。一体感の範囲はどんどん狭くなっていった。
 だがそうなっても、人間同士の寛大な出会いは、私の心の中に重低音のように響いていた。人間はたしかにわがままだし、いかれているし、自己中心的で、偏見に満ち、疑い深く、不機嫌で、神経過敏かもしれないが、基本的には、他人に悪さをしようとは思っていないと考えていた。たとえ悪と見なされるような何らかの行動に出たとしても。
 たとえばアルベール・カミュの小説『異邦人』に出てくるムルソーのようなふっうの人。フランス領アルジェリアに住む凡人だが、ある日、自分か何をしているかも分からずにアラブ人を殺してしまう。同書を私はその旅に持参していて、とてつもなく魅了された。
 ムルソーは本来何ら悪をするつもりはないのだが、諸要因が理由で横柄になる。そして他者を思いやることが難しくなる。彼はアスペルガー症候群か、その他の自閉的状態になっていたのかもしれない--この小説の冒頭を読めば、そこにはすでにこう書かれている。「今日、ママンが死んだ。ことによると昨日かもしれないが、私には分からない」
 彼の行動はいずれにしてもサディストと同じだろうが、考え方は異なっていた。だから凶行の考えが浮かんだのだ。未成年だった私はそう考えた。誤解、不安、不信こそ、すべての悪の原因なのだと。
 ヒッチハイク文化は、七〇年代の「新しい文化」とともに栄えた。ヒッチハイクは文明批判の一環であり、自発的な生き方の一種だった。だが多くのヒッチハイカーは主として、お金を節約し、短時間の冒険を体験するためにヒッチハイクをしたのだ。そして人間の善を認めてから、平凡な日常生活に戻っていった。
 だが地球の資源を大切にするためと主張する人たちもいた。一台のクルマに乗る人数が増えれば増えるほど、乗客一人あたりのエネルギー消費量は減るというわけだ。ヒッチハイクをすることで自分が善人になったような気がしていた。
 だがその後不安を感じるようになった。

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新刊書漁りは止めにする

新刊書は独りよがりの本ばかりです。呆れます。20年目にして、新刊書漁りから手を引きます #新刊書漁り
未唯空間を書くために金曜日は図書館に出掛けます。メリハリです。時間は新刊書配布が終わった10時過ぎです。 #図書館はメリハリ
2000年2月14日からちょうど20年目。LAPL前ビルの地下にあったスタバでモカを買って、黒人の学生に混ざって、LAPLの開館を待っていた。寒い朝だった。 #20年前のロサンゼルス
その日の朝3時くらいにもう一人の私が現れた。こんなところまで私を運んだ張本人。時々、右上に感じていたけど、正面に出てきた。 #もう一人の私
それにしても、このカフェベロナは苦い。チョコがないとダメ。そういうことか。あんなに小さくて、480円もするチョコは買えない。 #スタバ風景
20年間で何が分かったか? 今、云えるのは個の自立がなければ、人類の先はないということ。 #20年の月日
2000年3月から20年間、新刊書借出冊数 20469冊 4935万6460円。今回で終了 #新刊書漁り

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