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未唯への手紙

未唯への手紙

『「アラブの春」の正体』

2023年10月16日 | 4.歴史
重信メイ

『「アラブの春」の正体』

―欧米とメディアに踊らされた民主化革命

アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実

●インターネットを使ったストライキ

チュニジアの「ジャスミン革命」が報じられると、次に世界が注目したのがエジプトでした。

タイミングから考えると、チュニジア革命があって初めてエジプトでも同様の革命が起きたように思えますが、実態は少し違います。エジプトにはエジプトの事情があり、一般の人々の間にずっと不満がたまっていました。

とくに二〇〇六年からストライキがよく起こっていました。労働者たちの不満は爆発寸前だったと思います。

しかし、三十年にわたって大統領を務めていたホスニー・ムバラクを倒すことができたのは、やはりチュニジア革命の影響が大きかったと思います。エジプト国民の間に、チュニジアるなら、エジプトにできないはずはないという新たな希望と勢いが出たからです。

また、二〇〇七、八年から起きていたストライキや民衆蜂起は、チュニジアがそうだったように、インターネットを使ったものでした。

たとえば、二〇〇八年四月六日には、アルマヘッラ・アルコブラという工業都市で、労働者たちが労働条件が悪すぎる、改善してほしいと声を上げました。そして、彼らの活動を支援するために、リベラルな学生たちがソーシャルメディアを使いました。

アルマヘッラ・アルコブラの労働者たちを支援するために、ほかの町でも同じ日にストライキをしよう、と彼らは考えました。そして、この日はみんなで同じ黒いTシャツを着ることにしました、アルマヘッラ・アルコブラには行けなくても、遠くからでも彼らを支援しようというわけです。その結果、一週間でフェイスブックのページに五万人がメンバーとして登録し、このストライキを支持するほど大きな力になりました。しかし、このときには政府の弾圧があり、収束してしまいます。このときはジャーナリストも含む多数の逮捕者が出ました。

それ以来、工場のストライキがエジプト各地で次々に起こりました。

しかし、この盛り上がりがムバラク政権を倒すまでにいたらなかったのには、残念なことに、ストライキを主導していた労働組合の腐敗が原因でした。それも、労働組合の幹部が政府と癒着していたという腐敗でした。

政府は弾圧してくる。組合はあてにならない。そこで、工場ごと職場ごとに、組合とは関係なくストライキを起こす人たちが出てきました。エジプト国内でそういう新しい動きが徐々に現れてきたときに、近隣のチュニジアで革命が起こったわけです。

●「私たちすべてがハーリド・サイードだ」

エジプトにも、「ジャスミン革命」のきっかけになったブーアズィーズィーのような人がいました。個人から始まる印象的なストーリーがありました。

主人公はハーリド・サイードという一人の男性ブロガーでした。彼は警察官が没収した麻薬を横流しする現場を撮影した映像を持っていました。しかも、その映像には警察官何人かが、麻薬をどう山分けするか、どのように売るかを相談している場が映っていました。警察が組織的に麻薬の横流しに関与していることが明らかな映像でした。

サイードがどうやってこの映像を手に入れたかはわかっていませんが、彼は「この映像をブログで公開するぞ」と警察官を脅しました。彼が自分の身元を明かしていたのか、匿名だったのかはわかりません。しかし、警官たちは彼の居場所を突き止めました。

二〇一〇年六月六日のことでした。サイードがいつも使っていたインターネット・カフェに、警官たちがやってきました。警官たちは、従業員やお客さんたちを店の外に出したうえで、彼に殴る蹴るの暴行を働きました。そこで彼は殺されたのではないか、と言われています。そのとき店から出された人たちは、彼が警官たちに店から引きずりだされてきた様子を目撃しています。

数日後、警察は獄中で亡くなった彼の遺体を家族の元に送り返しました。

しかし、彼が警察に連行される場面を見た人たちは、彼は警官たちに殺されたのではないかと考えました。そして、自分たちが見たことをネットで告発し始めました。そのなかの一人に、グーグル社幹部のワエル・ゴニムがいたことが大きな話題になりましたが、彼だけではなく、サイードのブロガー仲間たちが、このことを知らせなくては、真相を明らかにしなければ、と自主的に動き出したのです。そして、そのための情報収集サイトとして、「私たちすべてがハーリド・サイードだ」というフェイスブック・ページを作りました。

すると、かねてからエジプト政府の弾圧や、労働者の待遇、失業率の高さなどの経済面で不満があった若者たちがそのページに集まるようになりました。そこから運動が大きくなっていきました。

そこに同じ年の年末から始まった「ジャスミン革命」という追い風が吹いたのです。

●ムバラク政権を倒した「軍」の離反

当初のデモにはブルジョワジー(資本家)や中産階級など、社会のなかで恵まれたポジションにいる人たちも大勢参加しました。

しかし、ムバラク政権がいよいよ倒されるとなったとき、軍がムバラクを見限って民衆側につこうと決めた決定的な理由は、労働者のストライキでした。

フェイスブックやツイッターを使って呼びかけたデモに集まった数万人の人たちがタハリール広場へ座り込んだりしていましたが、その一方で、首都のカイロだけではなく、アルマヘッラ・アルコブラなどの工業都市で、一気にストライキを起こしたのです。このことはあまり報道されていませんが、製糖工場や、鉄道の技術者の組合がストライキを起こし、やがては鉄道全体の労働者がストライキを始め、交通機関が麻痺しました。

また石油会社の労働者もストライキを起こし、当時の石油大臣の腐敗を訴え、イスラエルに安くオイルを売ることに反対を表明しました。

交通や工場が麻痺したことで、エジプトは経済的にも大きなダメージを受けました。ことここにいたって、軍もムバラク政権にエジプトの統治は無理だと判断したのです。

しかし、三十年間という長い間、政権を握り続けてきたムバラクが、「いま」倒されたのはなぜでしょうか。

一月十四日にチュニジアのベン・アリー大統領が国外に脱出すると、同じ日、エジプトの首都、カイロでデモがあり、「ジャスミン革命」に呼応するように、抗議の焼身自殺を遂げる青年が相次ぎ現れました。エジプトの国内の雰囲気が変わり、この年の秋の大統領選挙でムバラクが六選をねらっているという観測に対し、不満を表明する人々がデモに参加し始めました。

しかし、ムバラクはつねに強気でした。一月二十五日にはフェイスブックで呼びかけたデモに五万人もの賛同者が現れましたが、エジプト政府は二十七日からソーシャルメディアを妨害し、三十一日にはインターネットと携帯電話サービスの遮断というかたちで妨害します。そして、デモ隊に対して、警官が催涙弾を撃ち込むといった強硬手段に出、双方に死者が出る騒動に発展していきます。ムバラクは二十九日に国営テレビに出演し演説を行います。そこで、首相を含む全閣僚を解任することと、経済改革を約束しますが、自らは退陣しようとしませんでした。

潮目が変わったのは二月一日でした。反政府勢力が一〇〇万人規模のデモを呼びかけ、交通網はストライキで麻痺しました。この事態に対し、軍がムバラクを支持することをやめたのです。この日の夜、ムバラクは次期大統領選挙に立候補しないことを表明し、選挙制度改革を約束しました。このとき、実質的にムバラク政権は崩壊しました。

なぜ、このタイミングでムバラク政権が倒れたのか。その答えを考えるうえで、エジプトという国の権力がどこに集中しているかを知っておくべきだと思います。

エジプトという国の根幹を握っているのは軍です。

ムバラクが大統領になるよりも前、一九五二年に軍がクーデターを起こし、王政を廃してからはずっと軍事政権が続いていました。

したがって、エジプトの政治経済システムは軍にとってメリットの大きなものになっています。とくに経済システムは軍が牛耳っていると言ってもいいでしょう。

『獅子と呼ばれた男』

2023年10月13日 | 4.歴史
302.27アン『獅子と呼ばれた男』

アフガニスタンからの至急報

暗殺者たち

アハマド・シャー マスードは痩身の強靭な男で、鷲鼻と、頬と眼のまわりの深い皺が特徴の面 長の美男子だった。顎の線に沿ってまばらなひげを生やしていた。いつもパクールと うてっぺん が平らなやわらかいウールの帽子を被っていて、それは彼や彼のムジャヒディンが、アレクサンダ 大王の軍の子孫であると主張する部族、ヌリスタン人から取り入れていた。昨年の秋、マスード は四十九歳で、 こめかみの上の黒い髪に印象的な白い筋が現れていた。

マスードはほかの反共産主義イスラム教徒の学生数人とムハ ・ド・ダウド政権の前哨地に一連 の不手際な攻撃を加えた一九七五年以来、ほとんど休むことなく ってきた。二〇〇一年の秋、彼 は五年以上もタリバンと戦っていて、彼の前線はすでにパンジシール渓谷とカブールのあいだに約 二九〇キロにわたって広がるシャマリ平原の端から、タジキスタンとの国境まで伸びていた。その 国境に近いホジャ・バウディンという小さな密輸業者の町に司令部があった。

その夏、マスードは、その数一万六千にものぼるタリバンとアルカイダの戦士が最北の前線沿い に集結していて、そのなかにはアラブ人、パキスタン人、中国人、ウズベク人、タジク人が多数い るという情報を受けるようになった。その数は途方もなく増えているようで、彼は情報を無視した。 九月初め、彼と数人の司令官はヘリコプターで前線を越えた。 マスードは双眼鏡を手に操縦室にす わった。危険な飛行だった、と同行した一人が最近語ってくれた。「しかし、私たちはアラーがお 助けくださると知っていたし、アムール・サヒブ」―――だいたい「ビッグ・ボス」といった意味の 言葉で、マスードの部下たちは彼をこう呼んだ ――「が、一緒だった。」 彼らは地域の写真を撮り、 マスードが、部下をどこに配置すべきかを司令官たちに指示した。

マスードは九月九日の午前三時まで数人の同僚と起きていて、ペルシアの詩を朗読した。彼が寝 入って数分後、彼の秘書――ジャムシドという若者で彼の甥であり義弟――は北部同盟の指令官、 ビスミラ・ハーンから、タリバンがシャマリ前線を攻撃したとの電話を受けた。ジャムシドはマス ―ドを起こし、マスードとビスミラ・ハーンは夜明けまで電話で話した。 それからマスードはベッ ドに戻った。七時半ごろ、ジャムシドはタリバンが退却しているのを知り、伯父を九時まで寝かせ ておいた。

朝食後、マスードは偵察に行こうとしていたとき、九日前にパンジシール渓谷からホジャ・バウ ディンへやってきて、彼にインタビューするのを待っている二人のアラブ人ジャーナリストと会う ことにした。彼らはその日、ホジャ・バウディンを離れなければならないと通告していた。アラブ 人たちはロンドンのイスラム監視センターという組織の指導者からの紹介状を持ってきた。ジャム シドによれば、アフガン・イスラム運動創始者の一人で、現在は千人余の反タリバン戦士をパンジ シールの拠点から指揮するアブドゥル・ラスル・サヤフのもとにいる男から連絡を受けたという。 ジャムシドは、アラブ人はサヤフの友だちだと言われた。

私はジャムシドに、そのアラブ人たちに何か異常なところはなかったかと尋ねた。当時アフガニ スタンにいるアラブ人がアルカイダと結びついていたからだ。

「それはなかった」と彼は言った。そして彼の伯父は彼らが役に立つと思った。伯父は彼らを通 して、イスラム社会に『われわれは異教徒ではない。イスラム教徒だし、ここでロシア人やイラン 人を戦わせない』と言いたかったのだ。」マスードは敬虔な人だった。正式なやり方で一日に五回祈りを捧げ、妻はブルカを着ていた。しかし彼は、ほかのイスラム教スンニ派――タリバン――と 戦うイスラム教スンニ派で、彼らは公正で清廉潔白であると公言し、一方彼はイランのシーア派と 複数の非イスラム政府から支援を受けていた。

現在カブールで多言語新聞の編集者をしている痩身の若者、ファヒム・ダシュティも九月九日、 ホジャ・バウディンにいた。ダシュティは子供のころからマスードを知っていた。一九九六年の秋、 タリバンがカブールを占拠したとき、ダシュティはパンジシール渓谷に退却するマスードに同行し た。彼は北部同盟領にとどまり、マスードの司令官の一人と共に小さな映画会社、アリアナをつく った。彼らはタリバンとマスード軍の戦いのドキュメンタリーを制作した。ダシュティは二ヵ月間 のパリ滞在から戻ったばかりで、パリでは「国境なき記者団」というグループが出資した映画編集 のワークショップに参加していた。彼は二人のアラブ人と同じゲストハウスに滞在した。彼の記憶 では、北部同盟領でアラブ人を見るのは奇妙だったが、 その二人は怪しく見えなかった。 「彼らは 難民キャンプへ行き、捕虜を訪ねた。 どれもジャーナリストがすることだ」と彼は言った。一人は 片言のフランス語と英語を話し、もう一人はアラビア語だけだった。

数週間前、私はアリアナのマスードに関する最新の未編集フィルムを見せられた。 二人のアラブ 人はいくつかのシーンに映っている。 八月に撮影したフィルムでは、彼らはブルハヌティン・ラバ ニにインタビューしている。噂の記者は白い肌で、筋骨たくましく、三十代半ばに見える。きれい にひげを剃って、 ルーカット。 西側の服茶色いシャツとスラックスに眼鏡。額には円い 傷痕のような、奇妙な茶色っぽい痣が二つある。 カメラマンはこのシーンには映っていないが、後半のフィルムの中に、ゲストハウスの戸口に立つ彼の静止場面がある。彼は背が高くて、浅黒い肌。 黒いシャツを着て、憎悪と恐怖の両方が容易に想像できる表情で、カメラをにらみつけている。

アリアナ・チームはいつもマスードのインタビューを撮影していて、九月九日の正午ごろ、ファ ヒム・ダシュティと二人のアラブ人と通訳は、車でマスードの司令部にやってきた。マスードとジ ャムシドは警備隊長と一緒にいて、警備隊長のオフィスがインタビューに使われていたし、北部同 盟のインド駐在大使、マスード・ハリリも同席した。アハマド・シャー・マスードはソファにすわ り、背中の慢性の痛みを和らげてくれる整形外科用のクッションを使っていた。彼はアラブ人たち に挨拶した。「彼は出身地を尋ねた」とダシュティは言った。 「一人は、二人ともベルギー人だが生ま れはモロッコで、パキスタンからカブールへ来て、そこからホジャ・バウディンへ来た、と言った」 ハリリ大使の記憶では、マスードがインタビューを行うアラブ人に、先に質問のリストを聞きた いと言い、男が英語でそれを読みあげはじめたという。ハリリがマスードのためにペルシア語に訳 した。彼は、質問がほとんどオサマ・ビンラディンについてであることにかなり驚いたと言った。 たとえば、「もし権力を握ったら、オサマ・ビンラディンをどうするつもりか」とか「なぜ彼を原 理主義者と呼ぶのか」とか。大使は質問が偏っているのに気づいて、何という新聞に書くのかアラ ブ人に尋ねた。「私はジャーナリストではない」と男は答えた。「イスラム監視センターから来た。 ロンドンやパリなど全世界にオフィスを持っている。」 ハリリはマスードのほうを向いて囁いた。

「司令官、彼らはあの連中の手先です。」 アルカイダのことだ。マスードはうなずいてそっけなく言 った。 「とにかく片づけてしまおう」

アラブ人たちはマスードと自分たちのカメラのあいだにあったテーブルと数脚の椅子を動かした。 そのカメラは三脚の一番低い高さに設置されていた。彼らのカメラの後ろに自分のカメラを据えて いたダシュティが逆光を調整していたとき、部屋が爆発した。 ハリリ大使は、自分のほうへ向かっ てくる太く青い炎を見たと言った。

「私は自分が燃えているのを感じた」とダシュティは言った。外へ出ると、警備隊長と共に二、三 分早く部屋を出ていたジャムシドに会った。「私を病院へ連れていってくれと頼んだら、彼がマス ―ド氏はどこだと訊くので、中へ戻って彼を見た。彼は全身を、顔や両手、両脚もひどくやられ いた。」アフガン情報部員が最近私に語ったところによると、マスードは三十秒以内に亡くなって いたにちがいない。二つの金属片が彼の心臓に入っていた。 右手の指はほとんど吹き飛ばされてい た。私は彼の遺体の写真を見せられた。 彼の皮膚は二、三センチおきに傷口が開いていた。 白いガ ―ゼが眼窩に詰めてあった。

カメラマンのバッテリー・ベルトには爆薬が詰まっていた。マスードがすわっていたソファは黒 焦げで、背もたれに穴が一つ開いていた。アリアナのフィルムにはストレッチャーに乗せられたカ メラマンの遺体が映し出されている。 両脚は焦げて血まみれ、上半身はばらばらに吹き飛ばされて いるようだ。 アフガンの通訳も死んだ。

二人の護衛がマスードを車に運んだ。ひどい火傷を負ったダシュティが同乗して、ヘリコプター 離着陸場に向かった。ハリリ大使もまた火傷を負い、爆発で重傷を負っていたので、別の車であと につづいた。彼らはみなタジキスタンの国境を越えて病院に空輸されて、そこにまもなくマスードの副司令官ファヒム将軍が到着した。ファヒムはほかの北部同盟幹部たちと協議して、暗殺はしば らく伏せておくことで合意した。

インタビューを行ったアラブ人は爆発を生きのびて、マスードの遺体がタジキスタンへ運ばれて いるあいだ、爆発が起きた近くの部屋に監禁されていた。彼は小窓から金網を破ってくぐり抜ける と、走って墓場を越え、二、三百メートル先の土手へ逃げた。地元の軍司令官のもとにいた男があ とを追って殺害した。

私はダシュティに、マスードは裏切られたと思うかと尋ねた。「そう思う」と彼は言った。「そう でなければ、不可能だった。どういうわけかアルカイダとわ れの仲間のあいだにつながりがあ るらしい」

九月十一日、アフガニスタン時間で午後八時ごろ、カンダハルにいたムラー・オマルはカブール のタリバンの外相に電話した。電話を傍受したアフガンの情報源によると、ムラー・オマルは言 た。「事態は予想以上に進んでいる。」それはニューヨーク時間で午前十一時三十分、アメリカン・ エアラインズ一一便がワールド・トレード センターのノース・タワーに激突して三時間足らず、 サウス・タワーが崩壊して一時間半後だった。ムラー・オマルは外相に、記者会見を開いて、タリ バンは攻撃に関与していないとの声明を出すように指示した。記者会見はカブールで午後九時半に 行われた。外相は記者たちに、アフガニスタンはアメリカを攻撃していないと断言し、オサマ・ビ ンラディンは関わっていないというムラー・オマルの声明文を読みあげた。「この種のテロリズムは一人の人物が起こすには大きすぎる」

その夜傍受された電話の中には、カブールからカンダハルにかけた通話がある。「シャイフはど こにいる?」と電話した者が尋ねた。シャイフとは古参のタリバン幹部たちがオサマ・ビンラディ ンに使う暗号名だった。再びアフガンの情報源によれば、ムラー・オマルの家にいた何者かが、電 話してきた者に、ビンラディンがここにいると言った。「そのあと」と情報部員は私に言った。「カ ンダハルとカブールのあいだで電話のやりとりが混乱した」

九日のマスード暗殺と二日後のワールド ド ・トレ センター攻撃とは、九月初旬の日々には、 明らかに何らかの関係があるのは明白だと思われたが、正確には、彼らがどのように関与し、また 何者が参加してかということはあくまでも推測の域を出ない。マスードが殺されたとき、ロンドン のアフガン大使館で代理大使をしていた、マスードの弟、ワリは現在カブールにいて、マスード党、 アフガニスタン国民運動を率いるよう指名された。 彼は兄の暗殺がさらに大きな計画の第一歩であ り、九月十一 この攻撃が第二歩だと信じている。「論理的に見れば」と彼は言う。「彼らは十一 に 好きなようにやりたかったが、 マスードがいないということが条件だった。」 マスードを殺害した 者たちは、彼の死が北部同盟を崩壊させ、もし米軍がワールド・トレード・ センター攻撃に報復す るとしても、地上にアフガンの支持者はいない、と思った。 晩夏から初秋にかけて、前線に軍を増 強したのは、つまり、マスード暗殺の準備だったのだ。 「彼らは何かを待っていた」とアフガン情 報部の幹部は言った。 士気を挫かれた北部同盟を壊滅させようと準備をしていた外国の軍隊が中央 アジアに侵攻してきたようだ。そのあとにつづく混乱の中で、オサマ・ビンラディンとタリバンに対する報復は困難だろう。しかし、公式発表は当初、マスードだけが負傷したが、北部同盟は領土 を死守しているというものだった。そしてもちろん、ムラー・オマルの電話の会話からわかるよう に、アメリカに対する攻撃があれほど劇的になるとは予期していなかった。「彼らは報復を予測し ていた」と情報部の幹部は言った。「しかし、クリントンのような反応だと思った。ここで起きた ような報復は予想しなかった」

「テロリスト」とはアフガン人が一般にアルカイダを指して使う言葉で、彼らがマスードを殺した い理由は戦術的と同じく戦略的なものだった。 彼らの最も勇敢な敵は国外で支持を集めはじめてい た。二〇〇一年四月、マスードはストラスブールで開かれた欧州議会に招待されて演説することに なった。彼はパリで記者会見して、パリやブリュッセルでヨーロッパの高官に会った。「彼は指導 的な政治家のようにふるまい、すぐれた政治家として受け入れられた」とワリは言う。「メディア は彼に興味を示した。ただしアメリカのメディアを除いて。私はこれが重要な転機だったと思う。 彼はアルカイダがアフガニスタンだけでなく世界にとって危険だと国際社会に警告した。」七月、 ロンドンでワリは亡命中のアフガン知識人会議を開催した。彼らはマスードを支持し、民主主義、 人権、女性の権利を支援するさまざまな動きを是認する決議をした。「このことが彼の敵を刺激し た」とワリは言った。「一方には『われ がイスラム教徒を代表する』と言うオサマ いて、他 方にはマスードが穏健なイスラム教徒を代表している。 あのヨーロッパ訪問で自分の考えを明確に したため彼は命を失った」

ワリをはじめ私が話したアフガン人は、パキスタンもまたマスード殺害に関与していると主張した。マスードは、多くのアフガンのイスラム教 キスタンに亡命した七〇年代から八〇年代に も、パキスタン人と強い絆を結ばなかった。(彼はアフガニスタンの戦場にいたので、戦士として はいくぶん伝説的だった。) パキスタンの治安機関ISIは早くからタリバンを支持していたので、 タリバンの残党やアルカイダはまだパキスタンから援助を得ていると疑う人が多い。マスードと親 しかった情報部員は、九月九日の夜、パキスタンの大統領ペルヴェズ・ムシャラフが暗殺を祝うパ ―ティを開いた、と語った。彼はこの情報の出所が、ハミド・カルザイ率いるアフガニスタン暫定 政府の現国防相、ファヒム将軍だと言った。私がファヒムに、そのようなパーティがあったのかと 尋ねたところ、彼ははぐらかそうとした。 「たぶん」と彼は言った。しかし、彼はムシャラフがそ の夜、ISI本部にいて、アフガニスタン北部から戻ったばかりの元ISI長官、ハミド・グルと 会っていたことを確認した。私はファヒムに、カブールで最近ムシャラフに会ったとき、何を感じ たかと尋ねた。彼は手を振った。「ときにはより大きな利益のために」とファヒムは言った。「毒を 一杯飲まねばならない」

マスードの暗殺者たちはチュニジア人で、彼らが言っていたモロッコ人ではなかった。彼らはベ ルギーにいて、ベルギーのパスポートとイスラム監視センター指導者、ヤシル・アル=シリの署名 入り紹介状を持参していた。パスポートのスタンプは、アラブ人たちが七月二十五日にパキスタン のイスラマバードに到着し、そこでタリバンの大使館でヴィザを取得し、そこからカブールへ向か ったことを示していた。しかし、パスポートとヴィザは偽造だった。暗殺者は二人共ジャララバードに近いアルカイダ訓練キャンプで数ヶ月暮らした。

ジハード

暗殺者たちは北部同盟の指導者、アブドゥル・ラスル・サヤフの支援でパンジシール渓谷に入っ た。八月中旬にソビエト軍との聖戦で共に闘ったあるエジプト人から連絡を受けた、と彼は言う。 その男はボスニアから電話していると言った。(アフガンの情報部員は、じつはその電話はカンダ ハルからだと語ったけれども。) その男はサヤフに、彼やマスードやラバニ大統領にインタビュー を希望している二人のアラブ人ジャーナリストへの援助を依頼した。 エンジニア・ムハンマド・ア レフ 「エンジニア」とは、工学技術を研究した教養ある人を示す、アフガンのごく普通の敬称で ある)は、現在アフガン情報機関の責任者で、かつてはマスードの警備責任者だった。暗殺が行わ れたのは彼のオフィスである。アレフによれば、サヤフの許可があったので、アラブ人たちは通常 の警備手続きを免れた。「彼らはジャーナリストとしてではなく客としてやってきた」とアレフは 言う。「サヤフとビスミラ・ハーン」―――シャマリ前線の司令官――「が部下たちと、彼らを乗せ る車を送った。みんなに助けられて、彼らは多くの人に会った」

カルザイ暫定政府の副大臣、マウラナ・アター・ラハマン・サリムは人びとから尊敬を集めるム スリム学者であり聖職者である。彼は昨秋、ホジャ・バウディンにオフィスを持ち、暗殺の一週間 前にマスードと共にパンジシール渓谷へ行った。ラハマンは、マスードが殺されると直ちに報復の 声が聞かれたと言う。「誰もが言い出した。『なぜテロリストをもっと徹底的に捜さないのか? ぜもっとよく任務を果たさないのか?』非難は誰よりもサヤフに集まり、イランの新聞はそのいく つかの疑惑を活字にした」

サヤフはイスラム原理主義者で、八〇年代のアフガンの聖戦のあいだに養成された世界のテロリ ストたちと親密に結びついている。 彼とラバニはカイロのアル=アズハル大学で学び、そこでムス リム同胞団の影響を受け、共に七〇年代初頭にカブール大学でイスラム学科を教えた。彼らはソビ エトに抵抗する主力になったイスラム教運動の創始者の中にいた。サヤフはパシュトゥン人でアラ ビア語を流暢に話し、サウジアラビア人と親し らった。 サウジ王室のように彼は厳格なワッハー ブ派のメンバーで、七〇年代終わりに共産主義者がアフガニスタンを支配するようになると、サウ ジアラビアの国民がさまざまなアフガン抵抗運動に資金を提供しはじめたとき、サヤフはその豊富 な資金の巨額の分け前に預かった。一九八一年、 ・ティハーディ=イスラミ、イスラム連合とい

う政党を結成し、四年後、ペシャワル近郊のアフガン難民キャンプに大学を設立した。 マスードや ラバニと政治的に同盟を結んだが、タリバンとなったイスラム教徒とはさまざまの点でイデオロギ に共通するものがより多かった。

サヤフの大学はダワア・アル=ジハードと呼ばれ、「改宗者と闘争」を意味し、抜群の「テロリ ズム養成学校」として知られるようになった。一九九三年のワールド・トレード・センター爆撃を 指揮してコロラド州連邦刑務所で終身刑に服しているラムジ・アハマド・ユーセフは、ダワア・ア ル=ジハードに通い、サヤフのムジャヒディンと共に闘った。同じ刑務所にいる盲目のエジプト人 聖職者、シャイフ・オマル・アブデル=ラハマンは、ニューヨーク市の数々の歴史的建造物を爆破 する煽動謀議の罪で終身刑に服しているが(ワールド トレード センターの最初の爆撃にも関与 したと疑われるが無関係)、八〇年代半ば、ペシャワル周辺のいくつかのキャンプで講義した。 オサマ・ビンラディンは財政的にサヤフを援助し、アフガニスタンのサヤフの拠点を使用したアラブ 戦士団を指揮した。 ISIは軍事と情報の専門技術を提供した。 ソビエト軍が一九八九年にアフガ ニスタンから撤退し、多くの外国人聖戦士が去ると、イッティハーディのメンバーのグループー 生粋のフィリピン人やアラブ人もいる は、フィリピン共和国にテロ組織アブ・サヤフをつくった。 二〇〇一年十月、イスラム監視センターのヤシル・アル=シリが、二人のアラブ人暗殺者に紹介 状を用意した容疑で、ロンドンで逮捕された。二〇〇二年四月、ニューヨークで、スタテン島在住 のアメリカ郵政公社職員、アハマド・アブデル・サッ ルが逮捕され、シャイフ・オマル・アブデ ル=ラハマンの「代理」であるとして告発された。サ ルは九〇年代半ば、ニュ ・ヨークで謀議 審理のあいだ、弁護士補助員としてシャイフのもとで働いた。起訴状によると、サッタルはシャイ フのために「通信機器」の役目をしていた。つまり、刑務所から命令を伝えていた。サッタルの電 話は長期間傍受されていて、綿密に調べた通話の中には、彼とロンドンのヤシル・アル=シリとの やりとりが数回あった。五月、イギリスの判事はアル=シリに対する告訴を却下した。

アブドゥル・ラスル・サヤフは大柄の筋骨たくましい男で、色白の肌に灰色の顎ひげが濃い。身 長は約一九〇センチはあるにちがいないし、体重はおそらく一〇〇キロ以上あるだろう。たいてい 白い頭蓋帽か、大きなターバンに民族服のシャルワール・カミーズを着ている。 マスードは細身できれいにひげを剃っている。いつもスラックスにスポーツ・ジャケット姿。一方で分けた

黒い髪がしばしば少年のそれのように揺れる。四月二十八日、ムジャヒディンの市内入城とソビエトを後ろ盾にした 対する勝利の十周年を祝うパレードがカブールであったとき、ワリとサヤ フは、黄色い天蓋のついた細長くて低い薄黄色と緑の建物、エイド・モスクから通りを隔てた貴賓 席に一緒にすわっていた。

要人たちは完全に破壊されたダリ風のパノラマを見わたした。カブール南部は、崩壊しえぐられ た建物の荒涼とした広がりで、貴賓席にいる聖戦士の指導者の大多数が破壊に関わっいた。アハ マド・シャー・マスードが意気揚々とカブール入りした一九九二年四月と、マスード軍が北部へ退 却してタリバンが占領した一九九六年九月のあいだに起きた内戦で、何万人もが虐殺された。貴賓 席の人物たちはまた、 カブールの新政府に地位を得ようと画策中で、 それは六週間後に開かれる部 族会議、国民大会議で選ばれるはずであった。ロヤ・ジルガは国家元首としてハミド・カルザイを 選ぶだろうとみられていた。ワリが首相か副大統領になるということになれば、カルザイは満足か もしれない。この人事は三人のパンジシール出身者――ファヒム国防相、アブドゥラ・アブドゥラ 外相、ユニス・カヌーニ内相――の支持の継続を保証するからだ。この三人はパンジシール渓谷で 育ちマスードと親しかったし、タジク民族の旧北部同盟派を新しく構成する上で中心人物である。

カルザイはグレーの絹の襟なしシャツにグレーのチャパンという美しく編んだアフガンのローブ を着て、首脳陣の最前列中央にすわっていた。 ファヒム将軍はその右側で、勲章を飾り立てた軍服 にひさしのついた帽子を被ってきらびやかだった。ファヒム将軍は現在、正式にはファヒム陸軍元 で、前夜に突然の昇格を受諾した。 ファヒムに忠実な多数のムジャヒディン司令官も昇格した。 (二、三日後、私はカルザイ大統領のアフガン=アメリカ顧問の一人に、昇格はカルザイの意向だったのかと尋ねた。「彼らが無理やりそうさせたのだ」とその男は言った。「彼にはどうしようもな かった。」私たちは駐車場で話していた。顧問が私に説明したところによれば、彼をはじめカルザ イ政府のメンバー数人が住むインターコンチネ ノル・ホテルは盗聴されているからだ。「盗聴機 がカーテンの中にある」)

ワリ・マスードはカルザイとサヤフのあいだにすわり、ラバニ元大統領はサヤフの向こう側、聖 戦の生き残り数人のとなりだった。国家という舞台で行方不明となった中にマスードの大敵、 ブディン・ヘクマティアルがいた。彼は九〇年代初頭、情け容赦なく市を砲撃した。 ヘクマティア ルの消息は不明だが、パレードの二週間後、カブール近郊で、CIAがプレデター無人偵察機から 彼にミサイルを発射したという報告があった。 タリバンから国の北部を大部分解放したウズベク人 軍司令官ラシド・ドスタムは出席しなかった。ドスタムは聖戦のあいだ、ソビエト側として戦って いたから、出席するのは具合が悪かったのだ。一週間早くカブールに到着して以来、公式に姿を見 せていなかった元国王ザヒル・シャーは出席するとみられていたが、現れなかった。

愛国的な曲が拡声器から鳴り響くと、カルザイとファヒムは貴賓席を出て、幌のついた二台のロ シア軍ジーブに乗りこんだ。ジープはモスクの前の大広場に不動の姿勢で立つ兵士団の前を通り過 ぎた。 カルザイは兵士たちに手を振り、ファヒムは硬直したように敬礼し、大きすぎる元帥帽のつ ばに指先が触れそうだった。その間、進行係と詩人が交替でマイクをとった。 「アフガニスタンを 攻撃するものはすべてイギリスやロシアと同じく泣きをみるだろう」と司会者は言った。カルザイ とファヒムは貴賓席に戻り、ファヒムが、ムジャヒディンがソビエト軍やタリバンといかに戦って勝利したかについて演説した。 アメリカの空爆には触れなかった。山車が大通りをゆっくりと下っ てきて、それには、思いにふけって両腕を組んだ、白いサファリ服姿のマスードの巨大な写真が乗 せてあった。 カラシニコフを持ったムジャヒディンは不動の姿勢で立っていた。 マスードの顔が描 かれたTシャツを着る兵士もいた。 カルザイが、マスードは今後アフガニスタンの公式の「国家の 「英雄」であると発表した。

多数のロシア戦車と兵員輸送装甲車が額入りのマスードとカルザイの肖像を乗せてガラガラと通った。その後ろに青灰色の上着姿の負傷した聖戦の退役兵が松葉杖や車椅子でつづいた。退役兵 のあとから、マスードのパンジシールを先頭に、故郷の州ごとに組織されたムジャヒディンの隊列 が次々にやってきた。 落下傘兵がヘリコプターからモスクの前に降下しようと舞い降りてきたが、 目標を誤って遠くの廃墟に吹き流された。 十五分後、彼は小型オートバイの荷台に乗りパラシュー トを後ろにふくらませて現れた。落下傘で降下してきた二人目は女性で、広場を目指して、やはり 廃墟に消えたが、まもなく姿を現して拍手喝采に迎えられながら、マスードの肖像画で飾られた繊 を持ってきた。

パレードが終わって、私が貴賓席のすぐ前を通り過ぎると、 サヤフが身を乗り出してワリ・マス ―ドに何か言っている。ワリは椅子に緊張してすわっていた。彼はうなずいて、あいまいな微笑を 浮かべた。

『ニュルンベルク裁判1945-46』

2023年10月12日 | 4.歴史
329.67ハイ『ニュルンベルク裁判1945-46』

ジョウ・J・ハイデッカー

被告人第一号、国家元帥ヘルマン・ゲーリング、死を遁れて連合国の捕虜となる

未曽有の大捜索が全開され、特にバイエルン・アルプスでは精力的に行わ連合国の捜査部隊の地図には重要地区として二ヵ所に、すなわち北はハンブルクとフレンスブルの間の地域、南はミュンヒェンからベルヒテスガーデンにかけしるしが付けられていた。首脳部の一部は陥落寸前のベルリンからデーニッツ提督のもとへとすでに脱出を敢行していた。ヒムラー、リッベントロップ、ローゼンベルク、ボルマンがこの中におり、それ以外の連中はバイエルンに潜んでいるものと見られていた。

このような状況の中で五月九日早朝、驚いたことにひとりのドイツ軍大佐がアメリカ第七軍第三六師団の最前線哨所に出頭してきた。アルプスのこの地区にはドイツ軍部隊が集結し、絶望的状況が判然としないうちは独力でまた作戦を展開しようとしていると見られていた。

ドイツ軍の大佐はベルント・フォン・ブラウヒッチュと名乗り、「ヘルマン・ゲーリング国家元帥の命を受け、軍使としてやって来た」と告げた。

最大級の獲物を捕獲するという栄誉が転がり込んできたアメリカ軍の最前線哨所は大騒ぎになった。ラウヒッチュ大佐はジープで師団司令部に連れていかれた。



ドイツの軍使が来たことはすぐに電話で司令部に知らされ、師団長のジョン・E・ダールキスト少将と副官のロバート・J・スタック准将が間髪入れず現われた。

ベルントフォン・ブラウヒッチュはアメリカの将軍たちに、ヘルマン・ゲーリングから降伏したいとの指示を受けてきた、そして元帥はツェル・アム・ゼーの近くのラートシュタットにいると語った。

実際のところ、ゲーリングは窮地に陥っていた。彼の頭上にはヒトラーのいわばダモクレスの剣が吊るされており、ナチズムの主体的崩壊にもかかわらず、射殺命令を執行しようとする狂信的なSS隊員がいないとは言い切れなかった。その数日前、ゲーリングはソ連軍包囲下の首相官邸に打電していた。

総統閣下、ベルリンの要塞で持ちこたえるとのご決断をうけ、一九四一年六月二十九日付の法律の規定に従い、今後は私が(ドイツ)国家の内政・外交の全権を行使することにご同意いただけますか?二十二時までに回答をいただけないときは、閣下は行動の自由を奪われておられますので、上記法の要件が満たされたものとみなさせていただきます。

返答は二十二時前に来たが、受取人は別の人物だった。それには次のように書かれていた。

ゲーリングは、ヒトラーの後継者たることを含めて全ての役職を解任され、反逆罪で即刻逮捕されるべし。

これには次の命令がついていた。

総統の死の際には一九四五年四月二十三日の裏切り者を処刑すべし。

最後の空軍総参謀長のカールコラー大将は、のちに次のように語っている。「SSはしかし、国家元帥に暴力を行使することをためらっていた」

「私はある部屋に連れていかれたが、そこにひとりの将校がいた」ゲーリングはニュルンベルクで尋問に答えた。「ドアの前にはSSが見張りに立っていた。そのあと、ベルヒテスガーデンが空襲を受けたあとの五月の四日か五日に、家族とともにオーストリアへ連れていかれた。マウテルンドルフという町だったが、たまたまそこを行軍していた空軍の部隊が私をSSから救出してくれた」

ゲーリングを保護下に置いたコラー大将はヒトラーから射殺命令が出されていることを知っていた。「私はかねてより政治的敵の殺害には反感を覚えており、この場合の殺害にも反対だった。結局、この命令は実行されなかった」と、コラーはニュルンベルク裁判の(ゲーリング弁護人のヴェルナー・ブロスに語っている。

ゲーリングが夫人と娘のほか、従者、女中、料理人と一緒に拘禁されたマウテルンドルフの狩猟用館で警備に当たっていたドイツ空軍軍曹のアントン・コーンレは、ゲーリングと顔を合わせたときの様子を次のように伝えている。

「私が声をかけると、彼[ゲーリング]は驚いた様子で立ち止まり、私をじろじろと眺め所属を尋ね、気さくに話しかけてきました。自分の話をきちんと聞いてくれていたら、事態は全く違っていたのだが、と語りました。彼は私に、ヒトラーが誇大妄想にかかていたことをにおわせ、戦争が終わった今、彼、すなわち国家元帥みずからドイツ政府を引き継ぐつもりだとも語りました」

コーンレはさらに続けた。「話し終えて二十歩ほど離れたとき、彼が突然地面に倒れ伏しました。彼の大きな体を抱き起こすのは大変でした。ゲーリングはモルヒネ中毒にかかっていたのです。体調がよくなかったのは、拘束されている間、SSがモルヒネを渡さなかっためだと思われます」

ゲーリングの身柄拘束とその後の救出について関係者は冷静に述べるが、少なくともこの時点では、事態がどのように展開していくか国家元帥にも皆目見当がつかなかった。彼を奪回するために、SSが反撃してくるかもしれなかった。このような状況では連合軍の保護に身を委ねるほうが良策のように見えたのである。

全てが今や終った!

ベルント・フォン・ブラウヒッチュ大佐が指定した待合せ場所にスタック准将みずからが運転してやって来た。狭い国道がカーブしていたところで、米軍のジープとゲーリングの防弾仕様のメルセデスが適当な距離を置いて停まった。スタック准将は道路に飛び降りた。ゲーリングが大儀そうに車から出てきた。

ゲーリングは挨拶のつもりで元帥杖を振り上げ、米軍人に挨拶。スタツク准将は帽子に手を当てて敬礼し、歩を進めた。全てきちんと軍人礼に適っていた。ふたりは道の真ん中で出会って正式に自己紹介し、手を差し出した。

もっともスタック准将にとって、この握手は苦いものとなる。この報道はいたるところで憤激の嵐を呼び起したからだ。

「戦争犯罪人と握手!」「人殺しと握手!」

こんな調子でアメリカ、なかんずくイギリスは、新聞が大見出しで取り上げた。騒音があまりにも大きかったので、アイゼンハワー将軍は公式に遺憾の意を表せざるを得なかった。英政府も、復興相のウールトン卿が上院で「戦争は握手で終わるゲームではない」と述べることで正式に遺憾の意を表明した。

スタック准将としては、こんなことで自分が苦況に追いこまれるとは考えてもいなかった。自分は礼を尽くしただけだと思っていた。ゲーリングは師団司令部に連行され、ダールキスト少将がこの大事な捕虜を出迎えた。第七軍司令部に報告すると、この高価な獲物を引き取るために防諜部長のウィリアム・W・クイン准将がすぐ師団に向かうと連絡してきた。



この間、第三六師団長はゲーリングと短く会話を交わした。歴戦のジョン・E・ダールキストは開放的な性格で政治に全く無知無関心だったが、その彼にも、ゲーリングが最初に言ったことはまさに驚天動地だった。

国家元帥は語った。「ヒトラーは了見が狭く、ルードルフ・ヘスはエキセンリでリッペントロップは悪党だった。なぜリッペンドロップが外務大臣になれたのか?かつて私のところにチャ―チルが語った言葉が秘かに伝えられた。次のような内容だったと思う.『なぜやつらはゲーリングのような有能な若造でなく、いつもリッベントロップを送ってくるのだろう?』そういう次第できょうは、ここにこうして自分がやって来ているのだ。いつ私をアイゼンハワーの本営へ連れていってくれるのか?」

ダールキストは、ゲーリングがドイツの代表としてまだ連合国と交渉できると信じこんでいるのを知った。こうした判断がいかに見当外れかということを、この捕虜は全く考えていなかった。一時はヒトラーに次ぐ権力者だったこの人物でも、本当の状況が分かっていなかったのではなかろうか?

ゲーリングは自分の強力な空軍について長々と話したが、同じ頃、自分の後任のローベルト・リッター・フォン・グライム元帥がキッツビューエルで捕らわれ、次のように述べていたのを知らなかった。「自分はドイツ空軍の司令官である。しかし、自分には空軍機がない」

「いつアイゼンハワーから迎えがくるのか?」ゲーリングは再び訊いた。

「そのうち来るでしょう」ダールキストはあいまいに答えた。

会談のあと、ゲーリングは運ばれてきた鶏肉、マッシュポテト豆が盛られた皿に目を見張った。ダールキスト少将を驚かせた食欲で国家元帥はこれを平らげ、デザートに出されたフルーツサラダをおいしそうに食べ、さらにアメリカン・コーヒを褒めちぎった。

「これはアメリカの兵士が普通に取っている食事である」この提供料理も世界中に憤激を招いたため、アイゼンハワー司令部は以上のような追加声明を出さなければならなかった。

師団司令部に着いた第七軍の諜報担当のクイン准将は、ゲーリングを直ちにキツビュ―エルの民家に連行するよう命じた。サレルノとモンテ・カッシーノで戦ってきたテキサス出身の七名の歴戦の兵士が、国家元帥を新たな宿舎に護送した。道中ゲーリングは護送兵に笑いながら話しかけた。

「私を抜かりなく見張りたまえ!」

彼はこれを英語で話したが、臨戦態勢にある兵士に冗談は通じなかった。

兵士に同行していたアメリカの一記者は、「彼らがいったい何と答えたかはちょっと明らかにできない」と打ち明けている。もちろん記者たちはその場に居合わせた。ゲーリング逮捕のニュースは戦場特派員たちに知れ渡り記者たちは急遽駆けつけていた。報道陣に好意的だったクイン准将が国家元帥の記者会見を保証していたからでもあった。

この間にもヘルマンゲーリングは自分のために用意された部屋を見て満足していた。家族も到着し、トラック十七台に積まれた荷物も届いた。まるでホテルに滞在しているようだった。国家元帥は大きなお風呂に入り、時間をかけてお気に入りの、重々しい金のモールがついた薄い灰色の軍服を身につけた。

その同じ時間に何万、何十万のドイツの兵士が、食事や水さえ与えられず、衛生設備もなく、雨とぬかるみの中、野ざらし状態で詰め込まれていた収容所とは、まるで全てが違っていた。

かくも悲惨なドイツ兵士の状態は、ゲーリングには全く想像もつかなかった。さっぱりとひげをって上機嫌で、気持ちのよい午後の陽光の中、二十数人の記者たちの前に軽快な足取りで現われた。

記者たちは半円を描くように、彼を取り囲んだ。壁際に小さな円卓と華麗な肘掛け椅子が置かれ、そこにこの有名な捕虜が座った。マイクロホンも用意され、カメラのシッターが切られた。「こんにちは、元帥。笑ってください!」

「こちらに顔を向けてください!」

「ありがとうございます!」

「もう一枚、帽子をかぶった写真をお願いします!」

ゲーリングは金色のひさしのついた帽子をかぶったが、いらいらして

「急いでくれ」彼はカメラマンに言った。「腹が減っているんだ」

そのあと質問が浴びせかけられた。最初は型どおりのものだった。ヒトラーはどこにいるのか?彼の死を信じているか?なぜイギリス上陸が試みられなかったのか?戦争が始まったとき、空軍はどれほど強かったのか?

「世界最強の空軍だった」ゲーリングは誇らしげに答えた。

「飛行機はおおよそ何機あったのですか?」記者はより正確に知りたがった。

「六年前のことであり、このような質問は想定していなかったので、当時どれだけの飛行機を保有していたかについては、今ここでは話せない」

「あなたはコベントリーの爆撃を命じましたか?」

「命じた。コベントリーは工業の中心地であり、大きな飛行機の製造工場があるという報告を受けていた」「カンタベリーは?」

「カンタベリーの爆撃は、ドイツの大学町への空襲に対する報復として、上の方から命令が来た」「ドイツの大学町とはどこですか?」

「覚えていない」

「戦争に負けそうだと思うようになったのは、いつごろですか?」

「(連合軍による)ルマンディー上陸作戦と東部での連軍による戦線突破の直後だ」

「この結末をもたらした最大の要因は何だったと思いますか?」

「間断ない空襲だ」

「勝利の見込みがなくなったということを、ヒトラーは知らされていましてか?」

「知らされていた。多くの軍人がヒトラーに、この戦争は負けるかもしれないと分析説明した。ヒトラーはこうした見方に拒否反応を示し、以後このことについて話すことは禁じられた」

「誰が禁じたのですか?」

「ヒトラー自身だ。彼は敗戦の可能性そのものをそもそも考えないようにしていた」

「これはいつごろ禁止されたのですか?」

「最初にこのことが人々の口に上り始めた、一九四四年半ばごろだ」

「ヒトラーがデーニッツ提督を後継者に指名したということを信じますか?」

「信じない!デーニッツあての電報にはボルマンの署名しかない」

「なぜボルマンのような取り柄のない人物が、ヒトラーにかくも大きな影響を及ぼすことができたのですか?」

「ボルマンは昼夜ずっとヒトラーのそばにいて、彼を次第に自分の意思に従わせ、ついには彼の生活全体を支配するようになった」

「誰が対ソ攻撃を命じたのですか?」

「ヒトラー自身だ」

「強制収容所については、誰に責任があるのですか?」

「ヒトラー自身だ。これらの収容所に何らかの形で関係していた連中は、全員ヒトラーに直属していた。国家機関は一切これに関係していない」

「あなたはドイツについて、どのような未来を期待していますか?」

「もしドイツ国民に生存の可能性がないなら、ドイツだけでなく全世界にとっても暗黒の未来しかないだろう。全ての人は平和を望んでいるが、今後何が起こるかを予想するのは難しい」

「国家元帥の心境としてさらにまだここで表明したいことがおありですか?」

「ドイツ国民の助けになるような状況理解を喚起したいと思っている。勝利の展望がまるでなくなったことが明らかになったときでも、武器を手放さなかったこの国民には大いに感謝している」

会見の模様をできるだけ速く自分の新聞社に打電するために、記者たちは急いだ。しかし、この日はついていなかった。アイゼンハワー将軍の命令で、連合国司令部の検閲官は電報の発信を許可しなかったからである。そのまま九年が経過し、一九五四年五月になってようやイン准将は秘密にされていた記者会見の速記録をアメリカのニュース雑誌に公表した。

もっとも、記者会見の前にゲーリングに対して出された一つの質問だけは、検閲を潜り抜けてアメリカの新聞に掲載された。

「あなたが戦犯リストに載せられていることは御存知ですか?」

「いいや、知らない」ゲーリングは答えた。「それは意外だ。何故なのか、見当もつかない」

夜になった。国家元帥は床についた。スプリングの効いたやわらかなベッドで眠ることができたのは、これが最後だった。部屋の前にはニューヨーク出身のジェローム・シャピロ少尉が見張りに立っていた。

SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの最期

一九四五年二月の下旬、スウェーデンの赤十字の代表が、航空機からもはっきり判別しうるように赤十字のマークが描かれた白い自動車で、廃墟となったドイツを走っていた。この人物こそ、国際連合の調停委員として、三年後にイェルサレムで暗殺されることになるフォルケ・ベルナドッテ伯爵その人だった。

彼は、恐怖の組織SSの恐るべき首領、不気味な秘密国家警察(ゲスターポ)の頭脳、絶滅収容所、ガス室、死の工場の支配者ヒ・ヒムラーと会おうとしていた。彼はドイツ警察および国内予備軍の司令官でもあったヒムラーを説得して、強制収容所に収容されているデンマーク人とノルウェー人を解放し、赤十字組織によってスウェーデンまで連れ帰ろうとしていた。

二月十九日、伯爵はベルリン郊外ホーエンリューヒーの野戦病院でヒムラーと会見。このSS全国指導者ンの崩壊が迫る中、多重の任務を果たせなくたため、仮病を使って入院し、厄介な問題の処理を他の連中に任せていた。

会談は悪名高い病院長カール・ゲープハルトの部屋で行われた。フォルケ・ベルナドッテは回想録で次のように述べている。

角縁眼鏡をかけ、階級章のない緑色の武装SSの制服を着たヒムラーが突如、目の前に現れたが、最初は木端役人のように見えた。街中で出会ったとしてヒムラーであるとはわからないぐらいだった。彼の手は小さく繊細でぴりぴりし、マニュキュアさえ施されていた。悪魔的なところは全く見られず、彼の表情にも冷酷非情さは感じられなかった。

しかしこの人物は、ほんの少し合図だけで何十万もの命を奪い、何百万人も根絶できると、長いあいだ全ヨーロッパで恐れられていた人物でもあった。

偏狭な狂信者、優柔不断とサディスティックな支配欲に凝り固まっていた男――中流家庭出身のこの人物の父親はバイエルン王国の王子ハインリヒの家庭教師を務め、ヒムラーの名前も王子が名付親になったことに由来していた。

ヒムラーは、はじめシュライスハイムで養鶏業と化学肥料の販売につとめていたが、モンゴルの専制支配者チンギス・ハーンに熱をあげ一九二〇年代の反革命義勇軍に入り、造反者グレーゴル・シュトラッサーの秘書になった。その後ヒトラーに次ぐ強大な権力者となっても薬草の栽培を奨励する一方で、身の毛もよだつような人体実験も行った。次第に全ての権力を自分の手に集め、無制約に命令を出せるようになり、ついにはヒトラーの後継者になることが唯一の目標となっていた。

ベルナドッテの人道的要請にはどう応えようとしていたのだろう?ヒムラーは、強制収容所のスカンディナビア人収容者を解放してスェーデンに運ばせるという要請を最初は拒否した。

「もし私があなたの要請に応じたら、戦争犯罪人ヒムラーは自分の行為の報いを恐れており、そのため土壇場で身代金のかわりに捕虜を自由の身にすることで、世界に対して嫌疑を晴らそうとしたとスウェーデンの新聞は大見出しで報ずるだろう」と述べた。

彼は全体状況と自らがおかれた立場を正確に認識していた。

当時、ヒムラーの心中に何が起こっていたのだろうか?彼は警察、SS、ゲスターポ、国内補充軍等―権力を振るう主要機構を手中にしていた。そのため、さしたる抵抗も恐れることなく、クーデターを起こすことも可能だった。彼がしばしばこの考えにとり憑かれていたことは、今日では明らかになっている。しかし、彼の生涯において始終見られたように、躊躇し、優柔不断だった。ヒトラ―への忠誠を保ちたいと思う一方で、あわよくばそのくびきから逃れたいと考えていた。

「私はドイツ国民のためには何でも行う覚悟でいる」と、彼は四月はじめのベルナドッテ伯爵との二回目の会談で語った。「しかし、自分は戦い続けなければならない。私は総統に忠誠を誓い、この誓いに縛られている」

「一体全体あなたは、ドイツが戦争に事実上敗れたことがお分かりにならないのですか?」とスウェーデン人の伯爵は単刀直入に尋ねた。「あなたのような立場にある人は、盲目的に上の者の言うなりになりません。自国民の利益のためあらゆる措置を講ずる勇気を持たなければなりません」

 重信メイがいたからしーちゃんのANNでなく、パレスチナの報道を見ていた #重信メイ #久保史緒里
 入植者という言葉からは満州への百万戸政策を思い出す。
 重信メイ『「アラブの春」の正体』―欧米とメディアに踊らされた民主化革命
アラブの盟主、エジプトで起こった「革命」の苦い現実
先週 豊田市図書館から借りて vFlat化しました
「アラブの春」の半年前にナイル川 ほとりで ツアー通訳のアムロさんからムバラク失脚させる決意を聞いていた

 アムロさんはイスラエル国旗の二本線はナイルとユーフラテスの領域を表していると言っていた

 奥さんへの買い物依頼
卵パック       148
糸コン          88
牛肉            580
食パン8枚   108
午後の紅茶   78
サッポロポテト           98
いか塩辛      298
シメサバ       358
テリヤキチキン           177
白菜            99
味噌煮込み   159
カレー煮込み 159

162『宗教が変えた世界史』

2023年10月11日 | 4.歴史
162『宗教が変えた世界史』

宗教の歴史から今を知る

中東の宗教史年表

610頃神の啓示を受けたムハンマドがイスラーム教を創始

622ムハンマドがメッカからメディナに移住(聖遷)

632正統カリフ時代が始まるイスラーム教徒が各地で聖戦を行う

650頃『コーラン』が成立する

661イスラーム教がシーア派とスンナ派に分離

661ムアーウィヤがウマイヤ朝を成立

750アッバース朝が成立

751タラス河畔の戦いでアッバース朝が唐に勝利製紙法が伝来

786~ハールーン=アッラシードの治世にアッバース朝が最盛期を迎える

909シーア派の王朝ファーティマ朝が成立

932シーア派の王朝ブワイフ朝が成立

1038トルコ系の王朝セルジューク朝が成立

1056べルベル人の王朝ムラービト朝が成立

1099第1回十字軍が聖地イェルサレムを占領し、イェルサレム王国を建設

1187サラディン(サラーフ=アッディーン)が十字軍に勝利イェルサレムを奪還

1299オスマン帝国が成立する

1453オスマン帝国がビザンツ帝国を滅亡させる

1498ヴァスコ=ダ=ガマが喜望峰を経由してインドのカリカットへ到達

1501シーア派の王朝サファヴィー朝が成立

1526インドにムガル帝国が成立する

1538オスマン帝国がスペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍を撃破地中海制海権を握る

ムハンマドがイスラーム教を創始

ムハンマドは唯一神アッラーの啓示を聞き、イスラーム教を創始。ムハンマドの生誕地メッカはイスラーム教最大の聖地とされ、ムスリムたちはカーバ神殿に向かって毎日礼拝をする

ムスリムがスンナ派とシーア派に分裂

ムハンマドの後継体制の正統カリフ時代が終わると、イスラーム教はアリーの子孫のみ指導者として認めるシーア派と、多数派のスンナ派に分裂した。ウマイヤ朝はスンナ派となる



イスラーム帝国の勢力拡大

アッバース朝はタラス河畔の戦いで唐に勝利すると、中央アジアの覇権を握り、ユーラシア大陸の交易路を獲得。首都バグダードは大いに繁栄した

イスラーム帝国のアフリカ進出

7世紀前半からアフリカにも勢力を広げたイスラーム教。11世紀に成立したベルベル人によるイスラーム王朝ムラービト朝はモロッコのマラケシュを首都とした

オスマン帝国によりビザンツ帝国が滅亡

オスマン帝国によりコンスタンティノープルが陥落。ビザンツ建築の傑作アヤ=ソフィア聖堂は、イスラーム教のモスクとなった(のち一時博物館化、現在またモスクに)

「聖戦(ジハード)」で拡大したイスラーム教の版図

ムハンマドがイスラーム教を創始

イスラーム教はアラビア半島の都市メッカの商人だったムハンマドが創始しました。彼が唯一神アッラーの啓示を聞き、人々に伝える預言者として活動を始めたのは40歳過ぎの頃。同地には多神教が根付いており、イスラーム教は迫害されたため、ムハンマドは教徒を連れてメディナに逃れます。この出来事は聖遷(ヒジュラ)と呼ばれ、ムハンマドはそこで「ウンマ」とよばれるイスラーム教徒の共同体を築きました。メディナでユダヤ教徒ら他勢力との抗争も制し、イスラーム教徒たちはメッカの征服を果たします。このムハンマドとメッカの異教徒の戦いを「聖戦(ジハード=アラビア語で「努力する」)」と呼びます。

聖戦でイスラーム教の版図が拡大

ムハンマドの死後、イスラーム教徒は各地で聖戦という名の侵略戦争を繰り広げます。東方ではササン朝ペルシアを滅亡に追い込み、西方ではビザンツ帝国(東ローマ帝国)領のシリアやエジプトを奪って危機に追いやりました。そして、5代目カリフ(イスラーム教の指導者)ムアーウィヤがウマイヤ朝を打ち立てます。ウマイヤ朝は、西ゴート王国を滅ぼしてイベリア半島を征服。東はインダス川流域まで支配を広げ、8世紀中頃まで続きました。

征服された地では、「啓典の民(イスラーム教で、ユダヤ教徒やキリスト教徒のことを指す)」は地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)を納めれば、生命・財産・信仰が保護されました。イスラーム教が版図を広げた一因には、その寛容さがありました。ジハードは自分の内面での「奮闘努力」、つまり信仰心を高めることを意味します。しかしムハンマドがメッカを制圧したようにジハードは神の大義の下で「侵略戦争」となって発展し、世界各地へ影響を及ぼしました。

ムハンマドの後継者争いが今も続くイスラーム教の分裂に発展

イスラーム教がシーア派とスンナ派に分裂

ムハンマド亡き後、「カリフ」と呼ばれるイスラーム共同社会の指導者(正統カリフ)が選挙で決められました。ところが、4代カリフ・アリーが暗殺されるとウマイヤ家のムアーウィヤがカリフの世襲制をとったのです。

これに対し、「アリーとその子孫」にカリフの資格を認める少数派グループが誕生。この一群が現在のイラン、イラクに広がったシーア派です。

一方、ムアーウィヤが開いたウマイヤ朝をはじめ、多数派はスンナ派とよばれるようになります。スンナ派は啓典「コーラン」とともに開祖ムハンマドの言動集「ハディース」を重視します。

イランとサウジアラビアの対立が激化

スンナ派とシーア派の対立は現在も続いています。その最たる例がイランとサウジアラビアの対立です。イランとサウジアラビアはペルシア湾を挟んだ大国ですが、イランはシーア派、サウジアラビアはスンナ派国家です。この2国は政治、経済面でもライバル関係にありますが、2016年、サウジアラビアがシーア派指導者を処刑したため両国は国交を断絶。関係改善はいまだ道半ばです。

スンナ派とシーア派の緊張関係が続く国としてレバノンも挙げられます。多数の宗派を内包する同国では首相はスンナ派、議長はシーア派、大統領はキリスト教マロン派から選ぶことで各派に配慮してきました。しかし、国内のシーア派は親シリア・イランに傾き、スンナ派は親サウジアラビア寄り。各派の対立は治安悪化を招いています。サウジアラビアの隣国イエメンでは15年にスンナ派政府とシーア派系のホーシー派の紛争が激化。このように、宗派問題は中東情勢を理解する上でも重要なのです。

「イスラーム教徒は平等」がアッバース朝の繁栄を導いた

アッバース朝がイスラーム教徒を優遇

ムアーウィヤが起こしたウマイヤ朝はイベリア半島からインダス川までを領域として繁栄しましたが、8世紀半ばにアッバース朝に敗れました。

滅亡の要因はアラブ人優遇策への不満でした。ウマイヤ朝の支配者層であるアラブ人は免税ですが、イスラーム教に改宗しても、非アラブ人は、地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)の両方を負担させられたのです。これは神の前での平等という『コーラン』の教えに反します。不満を持った非アラブ人によりウマイヤ朝は倒れました。そして後を継いだアッバース朝ではアラブ人の特権はなくなり、イスラーム教徒であれば、人種や民族に関係なく、人頭税は免除とされました。

アッバース朝が繁栄する

ウマイヤ朝はアラブ帝国、アッバース朝はイスラーム帝国と呼ぶことがあります。イスラーム教徒全てを平等に扱ったアッバース朝はイスラーム教による多民族統治を実現した王朝となったのです。

アッバース朝のイスラーム教徒優遇により各地で改宗者が増加し、帝国は巨大化していきました。首都バグダードは最盛期に150万人もの人口を誇ったといわれます。

8世紀後半に登場したカリフであるハールーン=アッラシードは、巨大化した帝国が瓦解していくのを防ぐため、地方の有力者が各地を治めることを認めました。

その結果、中央アジアのサーマーン朝やエジプトのトゥールーン朝(わずか3年で滅亡)など、帝国内に事実上の独立王朝が築かれます。これらの地方王朝はアッバース朝の権威を尊重していましたが、帝国の統治は緩やかなものへと変化していきました。それはアッバース朝弱体化への始まりでもありました。

唐とイスラーム帝国の戦いから製紙技術が世界に広まった

アッバース朝がイスラーム帝国を拡大

アッバース朝が成立した翌751年、シルクロードの要衝とされた中央アジアで、唐とアッバース朝が衝突しました。これをタラス河畔の戦いといいます。唐軍の犠牲者は5万人以上ともいわれる激戦の末にアッバース朝に軍配が上がります。

こうしてアッバース朝は中央アジアの覇者となり、イスラーム勢力がユーラシア大陸の交易路を手中に収めたのです。アッバース朝の都市バグダードと各地を結ぶ交易ルートは、イスラーム教徒の商人によって発展し、インドやイランなど諸地域の文化がアッバース朝に流入しました。そして交易路は同時にメッカ巡礼の道ともなりました。

製紙技術が世界に広まる

タラス河畔の戦いでアッバース朝は唐の軍兵を多数捕虜にしたといいます。その中には製紙技術者が含まれており、彼らによってイスラーム世界に紙がもたらされました。最初はサマルカンドに製紙工場が建てられました。

中国でつくられていた紙は、西方世界で使われていたパピルスや羊皮紙と違い、軽量かつ安価で、書きやすさの面でも優れていました。紙はやがてバグダードなどイスラーム世界の各都市に普及し、12世紀にはアフリカ大陸のモロッコにも伝わりました。

紙はイスラーム世界から、さらにヨーロッパへもたらされました。12世紀半ばにモロッコからイベリア半島へ伝播したのがヨーロッパへの伝播ルートの一つ。

もう一つはシチリア島を経て、イタリアへ伝わったルートです。15世紀にドイツやイギリスで活版印刷が発明されて紙が生産されるようになるまでは、イタリアがヨーロッパの紙生産を担い、ヨーロッパ文化の成熟を支えていました。

イスラーム帝国はアフリカに進出し、ギリシアの文化を吸収した

イスラーム教勢力がアフリカに進出

勢力を増したイスラーム教勢力は、正統カリフ時代に本格化する聖戦でアフリカにもその支配を広げていきます。10世紀になると、シーア派のイスマーイール派が北アフリカ西部に住んでいたベルベル人を率い、チュニジアでファーティマ朝を開きました。その後、11世紀にモロッコのマラケシュを首都としてベルベル人による王朝ムラービト朝が成立。12世紀にムワッヒド朝(ムラービト朝に代わって成立した王朝)が衰え、キリスト教勢力が侵入するまでは、イベリア半島にまでイスラームの支配が及んでいました。

そして、13世紀になるとアフリカ内陸部にもマリ王国などのイスラーム教国が建国されていきます。

ギリシア・ローマの文化が中東に影響

イスラーム勢力が支配した地中海沿岸の征服地では、古代オリエントやギリシア・ローマの諸文明に起源を持つ学間が脈々と受け継がれていました。イランにあったササン朝ペルシアの学間の中心地ジュンディーシャーブールでは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)から追放された学者たちが様々な研究活動を続けていました。その後この地がアッバース朝の支配下に入ると、カリフ首都バグダードに「知恵の館」を設立し学問研究の伝統を継承していきます。

征服地の北アフリカには、カイロ以前のエジプトの中心都市アレクサンドリアがありました。同地はアレクサンドロス大王が建設したギリシア風の都市で、数学者アルキメデスら古代ギリシアの名だたる学者が活躍した街です。そうした風土にあって、イスラームの学者たちは古典の学問を吸収していきました。

十字軍運動の時代には、シチリア島やイベリア半島で、ギリシア語文献やアラビア語の科学書などがラテン語に翻訳され、ヨーロッパに紹介されます。

イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた

イスラーム商人が商業活動を行う

商業都市メッカから興ったイスラーム教は、キリス-教(カトリック)などと違い商業により利益を得ることを卑しいと捉える考えはありませんでした。そのため代々のカリフが帝国の版図を広げ、交易路の治安も安定させて商業的利益も高まっていきました。海のルートは地中海から紅海を通りインド洋へ、陸のルートは中央アジアを通り中国まで発達し、その中心の都市バグダードには莫大な富がもたらされました。

イスラーム商人の影響は富や交易品だけではありません。彼らはまた学問を求める研究者でもあったのです。彼らは中国やインドからも学問を帝国に持ち帰りました。

イスラーム商人の活躍でアラビア語が英語に影響を与えた

イスラーム商人が商業活動を行う

商業都市メッカから興ったイスラーム教は、キリス-教(カトリック)などと違い商業により利益を得ることを卑しいと捉える考えはありませんでした。そのため代々のカリフが帝国の版図を広げ、交易路の治安も安定させて商業的利益も高まっていきました。海のルートは地中海から紅海を通りインド洋へ、陸のルートは中央アジアを通り中国まで発達し、その中心の都市バグダードには莫大な富がもたらされました。

イスラーム商人の影響は富や交易品だけではありません。彼らはまた学問を求める研究者でもあったのです。彼らは中国やインドからも学問を帝国に持ち帰りました。

ポルトガルがオスマン帝国に対抗して、大航海時代が始まった

オスマン帝国が地中海を制覇

アナトリア(現在のトルコ)の北西部に興ったイスラーム系のオスマン朝は、セルビアやハンガリーなどの勢力と争いながら発展します。そして1453年、ついにビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させました。その地はイスタンブルと改名され、オスマン朝の首都となります。

このトルコ系イスラームの帝国は「オスマン帝国」と呼ばれ、宗教面での寛容さやイスラーム法による統治で繁栄。15世紀にはプレヴェザの海戦で、スペイン連合軍側を破ると、オスマン帝国は地中海の制海権を握り、ヨーロッパとアジア圏を結ぶ首都イスタンブルを要にして発展します。

ヨーロッパで大航海時代が始まる

オスマン帝国が地中海を支配したことで困ったのは、インド進出を目指していたヨーロッパ諸国です。そんな中で活発に航路を開拓したのがポルトガルでした。12世紀、スペインやポルトガルは「レコンキスタ(国土回復運動)」を起こし、イスラーム勢力をイベリア半島から追い出すことに成功。しかしイベリア半島の多くはスペイン領となりました。そこで、ポルトガルはインド洋への航路を開拓し、貿易の利益を得ようとしたのです。しかし、地中海から紅海を通るルートはオスマン帝国の領土内。そこで、ポルトガル船はアフリカ大陸の西側を回り、喜望峰を通ってインド洋へ抜ける航路を切り開きました。こうしてヨーロッパ諸国のアジア進出が可能になり、大航海時代を迎えました。17世紀になると、海洋交易路はイスラーム商人、ポルトガル・スペイン商人、東インド会社を設立したオランダ商人、イギリス商人などが行き交い、国際色豊かに。しかしこうした繁栄は、各国の植民地政策の対立にもつながっていくことになりました。

世界中に建てられた美しきイスラーム建築


イスラーム教圏ではドームやアーチ、幾何学的な文様を特徴とする美しいイスラーム建築がつくられた

偶像崇拝が禁じられたイスラーム教では、キリスト教や仏教のような神聖人をモチーフにした絵画・彫刻はつくられませんでした。一方で、イスラーム教圏では建築技術が発展し、宮殿やモスクなどの美しいイスラーム建築が、世界各地でつくられました。

イスラーム建築の特徴はドーム(半円型の屋根)とアーチです。両方ともビザンツ帝国の様式を真似したものですが、7世紀に岩のドームがつくられて以来、継承されています。

また偶像崇拝が禁じられているため、建物の装飾には幾何学的な文様があしらわれました。文様と同じくアラビア語の文字装飾も発展し、「コーラン」の言葉が壁に刻まれることもあります。

イマーム=モスク(イラン)

イランにシーア派の帝国を築いたサファヴィー朝のモスク。青色の壁には植物模様とアラビア文字が装飾されている

ウマイヤ=モスク(シリア)

ウマイヤ朝時代に建設された世界最古のモスク。ギリシア正教の教会を転用しており、壁にはモザイクがあしらわれている

メスキータ(スペイン)

スペインに建つ後ウマイヤ朝のモスク。元はキリスト教の聖堂だったが、モスクに改築された。幾重にも連なる円柱が特徴で、「円柱の森」とも呼ばれる

スルタン=ハサン=モスク(エジプト)

14世紀に竣工したモスクで、教育施設も付随。中には教室や宿舎、沐浴用の泉を完備している。ドーム部分は墓廟になっている

シェイク=ザイード=グランド=モスク(アラブ首長国連邦)

2007年に竣工した巨大モスク。様々な建築様式を取り入れており、ペルシア絨毯にドイツ製シャンデリアと内装も豪華

スルタンアフメト=モスク(トルコ)

オスマン帝国時代に建てられた、通称「ブルー「モスク」。細長い塔はミナレット(尖塔の意)。この上から礼拝の始まりを告知する

世界遺産ガイド

~中東編~

中東では土着の神々を祀る神殿や、イスラーム教のモスクなど、様々な宗教施設が世界遺産に指定されています。

Aヨルダンペトラ遺跡

アラブの一族ナバテア人が、断崖に築いた大都市遺跡。写真はエジプトのファラオの宝物庫ともされるエル=カズネ。

登録年:1985年

Bイスラエルイェルサレム

登録年:1981年

ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教、それぞれの聖地。写真はユダヤ教の聖地・嘆きの壁です。

Cアフガニスタンバーミヤン石窟登録年:2003年

5世紀造営の巨大な石仏が、2001年にイスラーム教過激派のターリバーンに破壊されました。

Dサウジアラビアメッカ

イスラーム教を創始したムハンマドの生誕地で、イスラーム教最大の聖地。世界中のムスリムが、メッカの方角に向かって礼拝します。

登録年:2014年

Eウズベキスタンサマルカンド

トルコ=モンゴル系のイスラーム教国家であるティムール帝国の首都。青の都と呼ばれています。

登録年:2001年

トルコアヤ=ソフィア

登録年:1985年

元は東ローマ帝国時代のキリスト教の大聖堂。オスマン帝国が支配するとモスクに改築されました。

『人類の歴史を変えた8つのできごとⅡ』

2023年10月10日 | 4.歴史
民主主義・報道機関・産業革命・原子爆弾編

戦争技術の進化と原爆投下(1945年)

投下された原爆

第二次世界大戦の終結直前。一九四五年八月六日、広島。同九日、長崎。

アメリカ軍の投下した原子力爆弾が炸裂し、街が一瞬にして廃墟と化しました。

広島では、同じ年の一二月までに約一四万人ともいわれる人命が失われ、その後も多くの人が重い火傷や放射線障害に苦しみます。都市は破壊しつくされ、生活基盤を失った多数の人々は、日々の暮らしをつづけることにも困難をきたすようになりました。長崎も同様です。この様子を見た世界は、驚愕します。たった一発の原爆がひとつの都市を壊滅させることができるなら、原爆をたくさん持った国は、それらを使うだけで敵国を簡単に滅ぼせるではないか、と。ここにおいて、戦争に対する人々の見方が大きく変わっていったのです。

アメリカやソ連といった超大国も、危機感を持ったことではいっしょです。

第二次世界大戦が終わり、資本主義陣営と社会主義陣営の対立が表面化するようになると、両者はお互いを敵視するようになり、軍備競争が始まりました。

その中では、原爆の製造や、原爆を相手国に落とすための爆撃機やミサイル、敵国の近海で息を潜め、必要があれば相手国に核ミサイルを発射する潜水艦、といった兵器の開発にも拍車がかかります。さらに、核分裂を利用した原爆だけでなく、核融合を利用した水素爆弾という、より破壊力の大きな新型爆弾も開発されました。

そして最盛期には、米ソとも数万発ずつという大量の核戦力を持つまでになっています。二〇〇九年の数字で見ても、アメリカは五一一三発の、ソ連の核兵力を引き継いだロシアは三九〇九発の核弾頭を保有しています。

それだけではありません。アメリカをはじめとする大国は、今も巨額の国家予算を注ぎ込み、新たな兵器の開発に余念がないのです。そこではつねに、発明されたばかりの科学技術が投入され、より強力で、より効果の高い兵器が次々に生み出されています。

人類は、自らを滅ぼし尽くせるほどの核兵器を保有するだけでは飽きたらず、休むことなく最新兵器の開発をつづけているのです。

先史時代の戦争

核兵器をめぐる問題点などについては、本章の終盤でふたたび説明します。そこにいたる777前に、まずは人類の歴史をさかのぼり、戦争手法の変遷などについて見ていきましょう。

人類と戦争とは、その歴史の黎明期からすでに不可分の関係にありました。

たとえば、スペインにあるモレリヤ・ラ・ビリャ遺跡と呼ばれる、約一万二〇〇〇年前のものとされる先史時代の遺跡からは、戦争の情景を描いたと見られる壁画が発見されています。そこには、弓矢を持った三四人の兵士たちの戦う様子が描かれています。

第四章で、紀元前二万年くらいの時点で弓矢が登場していたことを紹介しました(一一五ページ参照)。当初、この弓矢は、狩猟用に使われていましたが、しだいに人間に対しても向けられるようになっていったのです。

さらに、戦争の被害を物語る遺物も発見されています。

スウェーデン南部にあるスケートホルム遺跡という紀元前五五〇〇年頃の遺跡で見つかった人骨が、その例です。そこでは、発見された人骨のうち、約五分の一に大きな損傷が発見されています。さらに、見つかった人骨の多くが男性のもので、とくにその頭部や腕の左側に激しい損傷があることもわかりました。おそらく彼らは、戦いの最中に、敵が右手でつかんだ棍棒などでたたかれ、命を失ったのでしょう(「気候文明史」)。

人類は、弓矢以外の兵器も、かなり早い時点から開発をしています。

たとえばそのひとつが、「アトラトゥル」と呼ばれる道具です。これは、矢や槍の後ろの部分をひっかける鉤状の突起をつけた、長さ七、八〇センチメートル程度の棒にすぎません。しかし、これを使って矢(この場合のものは通常の矢の二倍ほどの長さがありました)や槍を投げると、発射速度が大幅に増すので、狩猟の際にはとても強力な武器になりました。

発見された中で最古のアトラトゥルは、動物の枝角を使った紀元前一万五五〇〇年前後のものですが、その何千年も前から使われていたと見られています。世界各地の遺跡から発見されているので、その有用性は高かったのでしょう。

このアトラトゥルは、人間同士の戦いでも使われています。たとえば、時代が下った一六世紀中米のアステカ帝国と南米のインカ帝国を攻撃したスペインの兵士たちが、アトラトルで投げた矢によって、甲冑もろとも串刺しにされたケースが報告されています。

紀元前一万年頃になると、「携帯用投石機」(投石ひも)も発明されます。

原理はとても単純で、長いひもの真ん中に石をくるむ部分があります。兵士はそこに石をくるみ、片手でひもの両端を持ちます。そして腕を振り回し、タイミングを見て、ひもの片方を離すのです。熟練者なら、この方法を使って、石を四〇〇メートル以上も飛ばせたといいます。弓矢同様、当初は獲物を倒すために使われた、と考えられていますが、その後、敵を倒すためにも用いられるようになりました。

ちなみに石は、とても大きな殺傷力を持っています。そのため、のちの時代になっても主要な武器のひとつとして活用されています。

たとえば日本の戦国時代の記録にも、兵士たちが、戦闘のはじめに大量の石つぶてを投げ、敵方に混乱を引き起こしていたことが書かれています。また歴史研究者の鈴木眞哉氏によれば、戦国時代の戦いにおける負傷者一五七八人について、その負傷の原因を調べたところ、弓や鉄砲、石つぶてなど、広い意味での「飛び道具」によるものが、全体の七二パーセント以上だったといいます。さらに鈴木氏は、石つぶてによる負傷者の方が、刀で負傷した人よりはるかに多かったこと、も述べています(『戦国15大合戦の真相』)。

戦国時代の戦争を描いた映画やテレビドラマでは、よく斬り合いの場面が登場します。しかし実際には、そうした戦い方をする場面は意外と少なかったのです。戦国時代の兵士たちにとっても、敵と相対して斬り合うような戦いには、やはりひるむものがあったのでしょう。

より大規模化する戦争

人類が、一か所に住み続ける「定住」を始めたのは、紀元前一万二〇〇〇年前後のことだとされています。その後、こうした集団の規模は拡大していきます。

それは戦争を通じてのこともあったでしょうし、経済的な利益を求めてということもあったでしょう。紀元前三五〇〇年前後には、メソポタミアのウルクに都市文明が誕生します。それを契機として、各地に都市国家が生まれていきました。この過程で、人類の集団間で、戦争という事態が引き起こされるようになったのです。

初期の戦争は、たいがい近隣の部族同士で散発的におこなわれていたものでした。多くの場合、その規模も数人から数十人程度のものです。しかし各地に都市国家が誕生すると、戦争の規模や性質も変わっていきます。王族や官僚、司祭といった階級の人間たちが生まれる一方で、戦争をするための「戦士階級」が誕生したからです。

そこから、戦争はより大規模なものとなり、その手法もしだいに、より巧妙でより効果的なものへと変わっていきます。

この過程で、自軍の被害をできるだけ少なくし、敵軍の被害をできるだけ大きくすることで、敵方の戦意をくじく方法も編み出されていきます。それが、戦争の大方針を決める「戦略」であり、各局面での戦い方を決定する「戦術」です。

そうした戦略・戦術は、古代の時点ですでにかなり進歩したものとなっていました。中国には、後漢末(西暦では二世紀末)以降の混乱期における戦いを描いた『三国志演義』という有名な物語があります。そこでは、張飛や関羽、趙雲といった猛将が縦横無尽の活躍をし、ときにひとりで大軍の中に切り込んで相手の大将を討ち取ったり、ときにひとりが橋のたもとに立ちはだかって敵の軍勢を追い返したり、といった様子が描かれています。

しかし実際には、こうしたことはあり得ません。

『三国志演義』は、のちの時代になって、街角でおもしろおかしく話を聞かせる「講談」のために書かれた物語です。そこにはかなりの誇張があります。

実際にはその当時においても、戦争における戦闘法はかなり確立され、ひとりの兵士にできることはかぎられていました。どんなに勇猛な武将がいたとしても、ひとりで突撃すれば、弓矢、投げ槍、石つぶてなどを当てられ、敵に近づく前に倒されてしまったはずです。

ここからは、そうした戦争の手法について見ていきます。

具体的には、ヨーロッパ地域などを中心に、古代以降、少しずつ変化していった戦闘の仕方や兵器、戦略・戦術などについて紹介していきましょう。

勝敗が決まる状況

近世以前、戦場での勝ち負けが決まる状況は、ある面で似た要素がありました。それは、戦いの最中に戦場のどこかで、一方の側の兵士たちが劣勢となり、彼らが恐怖心に駆られて逃げ始めると、それが勝敗を分けるきっかけになる、ということです。

戦場の中のある場所で、一方の側の兵士たちが逃げ始めたとしましょう。すると、その近くにいた味方の兵士たちは、いっしょに戦っていた仲間が逃げ出し、自分たちの側面が無防備になったことに恐怖を感じます。そこでついには、彼らも逃げ出すことになるのです。

新たな援軍が来たり、別の場所で相手側が劣勢となったために目前の敵兵が逃げ出したり、といったことが起きないかぎり、この恐怖心は伝染し、ついには一方の側の全軍が逃げ始めます。そのとき、少しでも速く逃げなければ、敵に殺されてしまいますから、逃げる方は必死です。こうして一部が崩れ出した側は、瞬く間に全軍が崩れていくのです。

一方、追う側にとっては、敵が逃げているときほど戦果を上げやすいときはありません。相手が自分に背を向けて逃げていれば、これを倒すのは簡単です。

そのため、火砲が多く使われていなかった近世以前の戦争では、一方が逃げて隊列が崩れたときに、多くの犠牲者が出ることが一般的でした。逆に言えば、お互いが正面から互角に戦っているときには、そこまでの犠牲者は出ないのです。

いにしえの戦略家たちも、このことをきちんと理解していて、相手の弱点を見つけてそこをつき、相手軍の隊列を崩れさせるべく、戦い方を考えることが通常でした。

歩兵同士の戦い

古代における戦争の主役は、なんといっても歩兵です。

そこでは、敵と斬り合う白兵戦を演じる「急襲部隊」と、弓矢や投げ槍などを使って敵を倒す「投擲兵器部隊」がいました。

そして紀元前三〇〇〇年頃の段階では、メソポタミアの都市国家において、急襲部隊の兵士たちが、「ファランクス」と呼ばれる密集隊形を取りながら戦っていたこと、もわかっています。

彼らは、槍や盾を持ち、会戦においては、隣の兵士と文字通り肘や肩が触れるくらいの距離を保ちながら進みました。このとき隊列は、左右に広がるだけでなく、前後に何層もの厚みを持っています。そして、前方の兵士たちが「盾の壁」をつくりながら、ときには走り、ときにはゆっくり歩きながら、敵軍の部隊とぶつかったのです。

彼らは、盾の壁のすき間から槍や剣を突き出し、相手を攻撃します。

その際、相手の頭蓋骨をたたき割るために、斧が使われることもありました。急襲部隊の兵士たちは、初期の頃は青銅製の、後には鉄製の兜をかぶり、頭部を保護していました。彼らが、最初から鎧を着ていたかどうかはわかっていません。しかし、紀元前二五〇〇年前後の遺跡からは、青銅製の鎧が見つかっていますから、おそらくこの時期になると、鎧を着用する兵士も多くなっていたと思われます。

一方、投擲兵器部隊のほうは、より身軽な装備です。決戦の際に相手に打撃を与えるだけでなく、事前の偵察任務などもこなしていた、とされています。

彼らの戦いは、たとえば次のようなものです。

広い平原で、A国、B国、両国の急襲部隊が、前後左右に広がるファランクスの隊形を取りながら、少しずつ進んでいきます。

両国の投擲兵器部隊は、後方から、敵の急襲部隊に向けて大量の弓矢を浴びせかけます。しかしどちらのファランクスも、盾で壁をつくり、飛んでくる矢を跳ね返します。ときには矢に当たって倒れる兵士もいますが、ほかの兵士たちはそれを乗り越え、前進していきます。そしてついに、両軍の急襲部隊がぶつかります。しかし最初は、相互が入り乱れて戦う乱戦にはなりません。ファランクスの最前列の兵士同士が、盾をぶつけ合い、押し合いながら、盾のすき間から槍などを繰り出し、相手の兵士を倒そうとするからです。二列目以降の兵士たちも、槍を伸ばして攻撃に加わります。

その中で、戦況が一挙に動く事態が生じました。

A国の部隊の激しい攻撃によって、B国のファランクスの一部が崩れたのです。

そこでは、抵抗するB国の兵士の頭部をA国の兵士が斧で殴りつけたり、逃げようとするB国兵をA国兵が剣で刺したり、といった光景があちこちで繰り広げられています。

勢いに乗ったA国の部隊は、B国のファランクスが崩れた地点から、B国部隊の中へと殺到します。そうなると、B国の兵士たちの間に恐怖が広がります。「この戦いは負けるだろう」「早く逃げないと自分だけ置いていかれる」。そう感じたB国部隊の兵士たちは、つぎつぎに逃げ始めたのです。味方が逃げ始めたB国部隊では、隊列が急速に崩れていきます。すべての兵士がわれ先にと逃げ出すようになるまでに、長い時間はかかりませんでした。

そこからは、A国の兵士による「掃討戦」が始まります。戦意を失ったB国の兵士たちは、逃げる途中でつぎつぎに倒され、生きて戦場を離れられた者はわずかでした。

こうしたファランクスを活用した歩兵戦は、三〇〇〇年以上もの間、陸上における戦争の主要形態でした。紀元前四世紀に活躍したマケドニアのアレクサンドロス大王の軍勢も、その後、ヨーロッパ主要部を支配したローマ帝国の軍隊も、その例に漏れません。

使う武器は少しずつ改良され、個々の戦場における戦術は徐々に変わっていきましたが、ファランクスを基本とする急襲部隊を陸上戦力の中心としたこと、では変わりませんでした。ローマ帝国の軍隊が強かった背景には、さまざまな要素がありますが、そのひとつに、兵士たちがファランクスの隊列を乱さないよう、厳しい訓練を重ねたことが挙げられます。どんなに強力な敵軍が攻めてきても、けっして逃げ出さない。どんなときでも盾の壁を保ち、そのすき間から、槍を突き出して相手を刺したり、剣で敵の足を切り払ったりしつづける。そして敵軍が、耐えきれなくなって崩れ出すまで、同じ攻撃を継続する。

ローマ軍は、それを可能にするための技能と精神力を養うべく、日頃から兵士たちに厳しい訓練を課していたのです。

馬を戦場で使おう、という動きも早くから始まります。

記録によれば、その最初の形態は、馬に乗るのではなく、「戦車」を引かせるというものでした。紀元前二五〇〇年前後のシュメールの遺跡からは、この戦車を描いた絵が見つかっています。

当時の戦車は、現在のものとは違い、前面に敵の攻撃から身を守るための板を張った四輪または二輪の簡易な車両です。初期の戦車は、ウマ科のロバなどに引かせていました。

しかし紀元前二〇〇〇年以降、現在のトルコに当たる地域に野生の馬が戻ってくると、その飼育と活用が始まります。そして、戦車の引き手として、より調教しやすい馬が重用されるようになったのです。この時期の戦車は、二名の兵士が立って乗ることが一般的で、最高時速一五~二〇キロメートルほどで走ることができました。

ただしその程度では、全速力で走る人間にも及ばす、初期の戦車は小回りもききませんで

した。このため、その威力は限定的だったと考えられています。

その後、戦車は何度も改良を加えられ、軽量化と機動性の向上がはかられます。

戦車は、紀元前二〇〇〇年前後~同一〇〇〇年頃の時点で、ヨーロッパから中近東、北アフリカ、中央アジア、中国にいたる広い地域で使われるようになりました。

紀元前一〇〇〇年くらいになると、戦車部隊にかわって、より機動性の高い騎兵部隊が活躍するようになります。そこでは兵士たちが、馬に乗ったまま弓矢を放ったりすることで、敵に損害を与えるようになったのです。

これを見ると、人類は、戦争において馬を、乗る対象としてではなく戦車の引き手として、より早く使ったことがわかります。

それは当時、乗馬しながらの戦いがむずかしかったこと、が大きな理由です。

この時期、木の枠を使った鞍や、足をかけの鎧はまだ発明されていません。

鞍が発明されるのは紀元前二世紀から同一世紀くらいのこと。

鎧が発明されたのは、さらにあとのことです。ヨーロッパで、鐙が広く使われるようになったのは、中世に入ってからだといわれています。

それまでの時期、人は、裸馬か布を置いただけの馬の背に飛び乗らなければなりませんでした。さらに落馬しないよう、乗っている間中、馬の胴体を自分の太ももでぎゅっと締めつけつづける必要もあります。

この時期、乗馬に使われていた馬は、現在のサラブレッドなどとは比較にならないほど小さなものでした。しかしそれでも、馬上で戦うのはなかなかむずかしいことだったのです。

攻城兵器の開発

ヨーロッパや中国の古い都市を訪れたことのある人は、都市のまわりに堅固な城壁が築かれていることに気づくかもしれません。

ヨーロッパや中近東、中国などでは、伝統的に都市の周囲を高く頑丈な壁で囲んできました。人々は、頻繁に襲ってくる外敵から身を守るため、都市そのものに、城や要塞としての機能を持たせたのです。日本の戦国時代の城が、多くの場合、比較的狭い範囲だけを城壁で囲んでいたのとは対照的です。

都市をめぐる戦争では、攻撃側と守備側の間で、激しい攻防戦が繰り広げられました。

その中では、「攻城兵器」と呼ばれる当時の最新型の兵器も使われています。たとえば、紀元前一二世紀から同七世紀まで中近東を支配したアッシリア人たちは、「攻域塔」や「破城槌」といった攻城兵器を使っていたことが知られています。

前者は、下に車輪がついた可動式の高いやぐらで、上から弓矢を射かけたり、城壁を乗り越えたりするのに使われました。

後者は獣皮などで周囲を被った木製の台車に、先端を強化した太く長い木の棒の一端を固定したもので、木の棒を上から斜め下に打ち下ろすようにして、敵の城壁を壊しました。

さらに、てこの原理と綱などの弾力を利用することで、大きな石を遠方まで飛ばす仕掛け方式の「投石機」も、さまざまな種類のものが開発されています。こうした攻城兵器の多くは、古代のギリシャ・ローマ時代、その後の中世でもひきつづき使われました。

攻城塔や破城槌などの攻城兵器の開発は、現在の兵器開発競争とも重なって見えます。

古代以降の攻城兵器は、当時の最新技術を駆使してつくられました。

それと同様に、現代でも各国は、膨大な軍事予算を注ぎ込み、新兵器の開発に取り組んでいます。たとえば、第四章でも触れたとおり、コンピュータやGPS、インターネットなどは、アメリカの軍事研究から生まれた技術です。

人間はいつの時代も、自分たちの最新テクノロジーを注ぎ込んで兵器の開発を進めたがる生き物なのかもしれません。

『人類の歴史を変えた8つのできごとⅠ』

2023年10月09日 | 4.歴史
 209シン『人類の歴史を変えた8つのできごとⅠ』言語・宗教・農耕・お金編

人間の心の奥深くに入り込んだ宗教

私たち日本人の多くは、ふだん宗教というものを意識せずに暮らしています。

宗教や宗教行事が身近だという家庭に育った人であれば違いますが、そうでなければ日常生活の中で宗教を強く感じる機会などあまりない、という人もたくさんいるでしょう。

しかしほとんどの人は、結婚や葬儀の際には、なんらかの宗教・宗派にのっとって式をおこないます。また人生の中で、試練を迎えたり、重大な決断に迫られたりしたとき、自分の幸運を祈る人も多いでしょう。

それらは、まさに私たちが、自分よりも大きな存在がどこかにいて、その存在がこの世界や自分の命運になんらかの影響力を持っている、と心の中で感じているからです。

私たちのこうしたあり方は、そのまま宗教につながっているといってもよいでしょう。さらに海外を見渡せば、宗教が社会的に大きな影響力を持っている地域が多数ありますたとえばイスラム諸国では、程度の差はありますが、イスラムの教々の生活の柱となり、ときにそれが国家を超える力を持つ場合もあります。

あるいはアメリカでは、国内にとても保守的なキリスト教徒がたくさんいて、彼らの政治力によって、学校で「進化論」の正当性を教えることができない地域もあるほどです。そうしたところでは、『旧約聖書』の「創世記」に書かれた生命と人類の誕生に関する記述は正しいものだ、とする教育が現在でもおこなわれています。

宗教は、二一世紀の今日でもなお、私たち人間の心の奥深くに入り込み、その行動や考え方に大きな影響を与えるだけの力を持っているのです。

宗教が芽生えたネアンデルタール人

人類の社会で、宗教に通じる現象が見られるようになったのは、私たち現生人類(ホモ・サピエンス)ではなく、その親戚ともいえるネアンデルタール人の時代にまでさかのぼることができます。

彼らが暮らしていた遺跡は、西アジアからヨーロッパ最西端にいたる広範囲の地域で見つかっています。そしてこうしたところでは、葬られたと見られる遺体がいくつも見つかっているのです。そこでは、体を伸ばして寝ているように葬られた「伸葬」と、体をかがめた姿勢で葬られている「屈葬」という、二種類の埋葬の仕方が見られます。

伸葬の例としては、男女の大人二名、子ども四名の合計六名の遺体が、東西の方向にならんで葬られていたケースが報告されています。一方、屈葬の例としては、一七歳前後と思われる青年の遺体が見つかっています。その青年の遺体は、ひざを額にくっつけ、手で顔をおおいながら、右脇を下にした姿勢で横向きにされていました。

どちらの場合も、周囲に石器や動物の骨などがあり、これらは遺体の副葬品だったのではないかと見られています。

ここで注目されるのは、ネアンデルタール人たちが、仲間などの死に際して、遺体をそのままにしなかったことです。六名の遺体が並べられていた方角が、日の出と日没との関連から東西に決まったのかどうかはわかりません。また、屈葬という埋葬法がおこなわれた理由が、生まれる前の胎児をイメージしたからなのか、あるいはこの青年の祟りのようなものを怖れたからなのか、などについてもはっきりしたことはいえません。

しかし彼らが、人間は死ねばすべて終わりになるとは考えず、死んだ後もなんらかの働きをしつづける、と考えていたことは間違いないでしょう。

また、六万年ほど前のネアンデルタール人の遺跡では、遺骨のあったところの土の中から、八種類の花粉が高密度で発見されています。彼らが花束をつくり、遺体とともに埋葬した可能性が高い、と考えられています。死者を悼む彼らの思いが伝わってきそうです。

これらの現象は、人類の宗教の黎明期ともいえる時期に、彼らが抱いた素朴かつ根源的な思いを表現する原始的な宗教行為だった、といってもよいように思えます。

クロマニヨン人の宗教

ネアンデルタール人が繁栄を謳歌していた時期、私たちに直接つながる現生人類、ホモ・サピエンスがしだいに勢力を伸ばし始めます。

もちろん彼らも、宗教行為に類することをおこなっていました。一万~四万年ほど前のヨーロッパで生きていた「クロマニヨン人」と呼ばれるホモ・サピエンスの墓地遺跡からは、赤く色を塗った遺骨や赤い土などが出てくるときがあります。これは、死者の埋葬時に、遺体の上に赤粘土をかけたためではないかと考えられています。さらに彼らの遺跡からは、円形に並べた小石の上に置かれた複数の頭蓋骨も見つかっています。これらの頭蓋骨が、敬愛する先祖のものなのか、強かった敵のものなのか、それとも神への犠牲なのか、その詳細はわかりません。ただ、遺体から頭部を切り取り、それらを円状に並べたという行為には、なんらかの宗教的な意味合いがあったはずです。

またクロマニヨン人たちは、女性をかたどった石灰石の彫像をいくつも残しています。たとえば、オーストリアで見つかった「ヴィレンドルフのヴィーナス」と呼ばれる一〇センチほどの彫像は、目鼻や手足などが省略されている一方で、胸やお腹、お尻などがとても誇張されていて、妊婦を表現していたのではないか、と考えられています。

こうした母親像は、ほかにもたくさん見つかっています。

彼らが母親像を彫った目的もはっきりしていませんが、彼らが生命の誕生という神秘に心を打たれ、そこに自分たちの家族や仲間の繁栄を願う気持ちをかけたのかもしれません。クロマニヨン人はまた、動物などを題材とした壁画も描いています。

南フランスから北スペインにかけての地

域で、七〇ほどの洞窟の遺跡から、一万~二万八〇〇〇年ほど前に描かれたと見られる壁画が見つかっています。その代表が、有名な「ラスコーの壁画」や「アルタミラの壁画」です。

これらの壁画は、クロマニヨン人がすみかとしていた洞窟の壁に描かれました。しかしその場所は、入り口近くの明るい場所ではなく、洞窟の奥深く、穴をくぐり、狭い道を通り抜けていった先、ということがほとんどです。彼らは、通るのもやっとという狭く真っ暗な道を、わずかな明かりだけを頼りに進み、その奥で壁画を描いたのです。

そのためこれらの壁画は、単にだれかの創作欲によって描かれた鑑賞用の絵ではない、と見られています。宗教的あるいは呪術的な意味があったのではないか、と研究者たちは考えているのです。

宗教はどのように誕生したのか

初期の宗教は、人類が、死や自然の驚異などと出会う中で少しずつ芽生えていきました。

その過程については、宗教民族学という分野から、いくつかの学説が出されています。

その一つめは、「アニミズム説」です。この説では、人間と死との出会いが大きな役割をはたしていたといいます。たとえば、つい先ほどまで元気にしていた仲間が、事故に遭って死んでしまうようなことは、彼らもしばしば経験していたはずです。このとき、元気だった仲間と、動かなくなった遺体とはなにが違うのか、彼らは疑問に思ったでしょう。そこから導き出されたのが、「生命の原理」であり、「魂」「精霊」という概念だったというのです。

そして彼らはしだいに、この魂・精霊は、人間だけではなく、動植物にも、あるいは生命のないものにも宿っている、と考えるようになります。そこから、「精霊崇拝」がおこなわれるようになり、やがて宗教が誕生したとするのが、このアニミズム説なのです。

二つめの説は、「プレアニミズム説」と呼ばれる、先ほどのアニミズム説を修正した学説です。それによれば、数万年前のいわゆる原始時代の人々が、家族や仲間の死というできごとに出会ったとき、精霊という人格的な存在を信じるようになるのではなく、自分たちには理解できない不可解な力が働いた、と感じるはずだというのです。

またこの説によれば、人間には、生きているものが霊魂を持つと考える前に、「もの自体が生きている」と感じる段階がある、ともいいます。要するに、当時の人々は、死などの現象に際して、人格のある精霊を考えるのではなく、不可解な力の存在を感じることで、そこから宗教が生まれたのではないかというのが、この説なのです。

三つめの説は、「原始一神教説」と呼ばれるものです。これは、アフリカや南アジア、北極圏などに住むいくつかの民族の文化を、発展段階の観点からもっとも原初的な「原文化圏」に属するとして、その宗教形態についての研究から打ち出された意見です。それによれば、彼らの文化圏では、世界と人間をつくり出した「至上神」が崇拝されており、人類の最初の宗教形態も、同じように至上神の崇拝から始まったのではないか、としています。ただしこの説には、異論もあります。世界と人間をつくり上げた存在を至上神と呼んでいるが、これはキリスト教の神である唯一神、絶対神の概念を、無理に当てはめたものだ。実際にはこの存在は、世界と人間を生み出した後、世界や人間たちに対してなにも影響を及ぼしていない。だから人々も、この存在に対して、祈ったり崇拝の儀式をおこなったりしないではないか。つまりこの存在は、至上神というよりも、世界が生み出された理由を説明するために考え出されたものにすぎない。そういう意見もあるのです。

宗教の起源については、これらのほかにも、前述の三つを統合した説、祖先崇拝説、自然崇拝説をはじめとする、さまざまな説が出されています。ただし、どれも一長一短があり、ひとつに確定することはなかなかむずかしい、といえるでしょう(『宗教学入門』)。

人間の「認知システム」が宗教を生む?

以上は伝統的な宗教学上の議論ですが、近年では、心理学や脳科学などを応用した認知科学の分野からも、意見が出されるようになってきました。たとえば、アメリカ・タフツ大学のダニエル・C.デネット教授は、人間の持ついくつかの「認知システム」が、宗教のようなものを生みだすきっかけになったのではないか、と述べています(『解明される宗教』)。

それによれば多くの生物は、なにかが動いたときに、それが生物によるものなのか、そうでないのかを識別する本能があるといいます。これによって、食料となる獲物を見つけたり、自分に襲いかかろうとしている生き物の存在を察知したりすることができるからです。人間

も同様です。デネット教授らは、これを「行為主体探知システム」と呼んでいます。

さらにこのとき、多くの生物は、自分が存在を察知した相手が、これからどのように動くかを予想するといいます。そこでは多くの生物が、相手も、周囲の世界に対する知識を持ち、自分自身の欲求や目的を知り、その知識と欲求などを考慮して合理的な行動を取る存在だ、と見なしているというのです。こうした認知のあり方は、「指向的構え」と呼ばれています。さらに人間の場合、自分の直感に反するようなできごとを、よく記憶するという特徴もあります。その中でもとくに、自分たちが好むジャンルのできごとであれば、よりよく記憶されるといいます。これが「記憶管理システム」です。

では、こうした複数の認知システムが結びつくとどうなるでしょうか。それが「物語」あるいは「空想」「仮説」「虚構」の誕生だと、デネット教授らは説明しています。

フィクション

こんな例があります。宗教が生まれる前の時期、近くでがさっと物音がしたのを聞いた人間がいた、としましょう。彼は考えます。「そこにいるのは誰だ?」「たぶん友人のサムだ」「いや、オオカミだ」「いや違う、枝が落ちてきたのだ」「その枝は歩けるのかもしれない」

「そうだ。今の物音は、歩ける木が立てた音なのだろう」。

こうして、物音を聞いたことで始まった行為主体の探知という行為から、「歩ける木がいる」という仮説が生まれた可能性もあるのです。

おそらく太古の時代の人類は、こうした仮説を無数に生み出したことでしょう。もちろんこれらの空想や仮説のほとんどは、すぐに消えてしまいます。彼らのそれまでの経験や周囲の状況などと、あまりにも合致しないからです。しかし、生き残り、時間とともに強化される観念もあります。

デネット教授によれば、「ある日あることが、しかるべき瞬間にしかるべき鮮明さを備えて生じ、一回や二回だけではなく何度も繰り返される場合」(「解明される宗教」阿部文彦・訳)には、宗教の下地となる「観念」が生じる可能性がある、といいます。

さらにこれらの観念は、宗教の創始者の心の中に何度も生じることによって、「自己複製」する力を持つこともあるのです。自己複製を始めた観念のうちのあるものは、その後、個人の心を離れ、人間社会の中で少しずつ広がり始めます。そこから、人間を超越した宗教というものが始まっていったのかもしれない、というのがデネット教授らの説明です。

もちろんこれは、まだ研究途上の学説であり、正しい説だと言い切ることはできません。しかし、納得できる側面もあります。

いずれにしても、厳しい生存環境の中で、病気や事故、戦い、気候の悪化や食料の欠乏、

そして死といった現象に直面していた原始時代の人類が、宗教を生み出すことで、それを、自分や家族、自分の属する集団の幸せを願う心のよりどころにしたことは、間違いないでしょう。

宗教とはなにか

ここで、宗教とはどのようなものなのか、その定義についても見てみましょう。

これに関して、一九世紀後半から二〇世紀前半にかけて活躍した人類学者のジェームズ・G.フレイザー卿は、宗教を「自然および人間生活のコースを左右し支配すると信じられている人間以上の力に対する融和・慰撫」(「宗教学入門」)だと述べています。

つまりこの世には、人間よりも大きな力があり、それが自然や人間の生活を司っている。宗教は、その大きな力に祈ったりすることで、自分たちに不幸がおよばず、幸せがもたらされるよう、働きかけることだ、というのです。

これは、ある意味で納得させられる定義かもしれません。

多くの宗教では、神や精霊などに対して、祈ったり、犠牲をささげたりすることなどで、自分や家族、自分たちの集団を守ってもらえるよう、願いをかけるからです。

しかし、世界の宗教のあり様はさまざまで、この定義に該当しない宗教もあります。

たとえばあとで紹介するように、釈尊が開いた初期の仏教は、修行などを通していわゆる「悟り」を得ることを目的としています。そこでは、「縁起」(すべてが原因と結果の鎖でつながっているという関係性)というものがこの世を形づくっており、人間の側から働きかけることで人間を守ってくれる人格的な力、などというものはいっさい認めません。さらに、世界をつくった「創造主」の存在も明確に否定しています。

このように、世界の宗教は多様です。ひとまずはフレイザー卿の定義を、おおまかには正しそうだ、とした上で、そこに当てはまらない宗教もある、と考えるのがよさそうです。

記録に残った最古の宗教

その概念や制度などが記録に残された最古の宗教は、シュメール人たちのものです。

シュメールを含むメソポタミアは、現在のイラクなどを流れるティグリス川、ユーフラテス川にはさまれた地域を指しています。そもそもメソポタミアという言葉は、「川の間の土「地」を意味しているのです。そして、メソポタミアの中の北部地域を「アッシリア」、南部地域を「バビロニア」と呼び、さらにバビロニアの中の北部を「アッカド」、南部を「シュメール」といいます。そのシュメールで、古代文明が花開いたのです。

バビロニアに人々が定住を開始したのは、紀元前五〇〇〇年頃。その周辺にあるザグロス山脈の山麓地域では、すでにその三〇〇〇年ほど前から、雨水を使った農業が始まっています。そして灌漑技術の普及とともに、バビロニアの乾燥地帯でも農耕がおこなわれるようになったのです。さらに、農耕が始まったことで、この地に人が住みつづけることができるようになりました。

この地域には最初、小規模の町や村を中心とした「ウバイド文化」といわれる素朴な文化が誕生します。紀元前四〇〇〇年前後のウバイド文化期後期には、大きな町も建設させるようになり、人々の経済活動や交易なども、しだいに活発になっていきました。

その後、紀元前三五〇〇年頃になると、のちにシュメール人と呼ばれるようになった人々が侵入し、本格的な都市を建設するようになります。中でもウルクという都市が中心的な役割をはたしていたので、この時期を「ウルク文化期」と呼んでいます。

ウルクを中心に文化が栄えていた時期、人々の間では、支配階級や専門職人が登場するなど、社会階層が分化していきます。そこでは、第Ⅲ章でも紹介するように、川から農業用水を引いてくるための灌漑設備が建設されるなど、大規模な土木工事もおこなわれました。

こうした工事の一環として、「ジグラト」と呼ばれる巨大な神殿がいくつも建てられます。これが旧約聖書に登場する「バベルの塔」のモデルになった、という説もあるのです。

この説には賛否両論ありますが、ジグラトの復元図などを見ると、モデルになった可能性がある、という意見にもうなずかされます。

さらにウルクでは、第Ⅰ章でも紹介したように、それまで記録手段として使われていた「トークン」などに替わって、「文字」が誕生しました(五八ページ参照)。

文字が誕生した時期、シュメール人はすでに宗教を持っていたことがわかっています。文字が登場してまもない頃の粘土板に、三柱の「主神」と、同じく三柱の「天体神」についての伝承、今では詳細のわからない多数の神々の名前などが書かれていたからです。シュメール人は、文字が登場するはるか以前から宗教を持ち、多くの神々を信仰していたのです。シュメール人の宗教神話には、この世界のはじまりも描かれています。

ただし、シュメールでは、いくつも都市国家が分立していた時期があるので、そこには複数の神話があり、これらの内容は少しずつ食い違っています。

シュメールの研究者である小林登志子氏によれば、そうした神話の内容を総合すると、まず最初に存在していたのは、ナンムという

「原初の海」の女神だといいます。

ナンムは、海そのものであり、彼女は、天と地をひとつに結合する巨大な「宇宙的山」を産みました。そこから、人間と同じ姿をした天空の神アンと大地の神キが誕生するのです。

やがてアンとキは結婚し、大気の神エンリルが誕生します。この時期まで、天と地は一体となっていました。その天と地を分けたのがエンリルです。このとき、父親であるアンは天を運び去りますが、息子であるエンリルは地を運び去ったとされています。これは彼が、自分の母親を運び去ったことにほかなりません。

そして神話では、エンリルが母親キと結合し、そこから宇宙と人間が誕生し、人間の文明が成立した、というのです(『シュメル神話の世界』)。

ただしこうした宇宙や人間の誕生神話は、この時期の一般の人々にとっても、彼らの日常生活とはかなりかけ離れた物語だったようです。その証拠に、当時の人々は個人の守護神である「個人神」を持っていましたが、それはアンやエンリルといった高位の神ではなく、別の神々、いわゆるより庶民的な神々がなることが一般的でした。

個人神は、「人間の運命」を神格化したもので、人の体の中にいると信じられていたものです。人々は、自分や家族などの幸せをこうした個人神に祈っていたのです(『五〇〇〇年前の日常』)。また、都市にも、「都市神」と呼ばれるそれぞれの守護神がいました。

メソポタミアの神々の最高位は、時代によって変わっていきます。

記録に残る最古の時代には、天空の神アンが神々の頂点にいましたが、のちには、大気の神エンリルがその地位につきます。さらに紀元前二〇〇〇年前後になると、シュメール人の都市国家が滅び、新たに侵入したアモリ人が、シュメール人の文化を吸収しつつ、この地を治めるようになりました。この時期を「古バビロニア時代」と呼びますが、ここでは首都バビロンの都市神マルドゥクが最高神となります。

ちなみに、このときの王朝の創始者が、「目には目を」の「ハンムラビ法典」で名高いハンムラビ大王ですが、今に残る彫像には、彼がこうした神々の一柱である太陽神シャマシュから、法典を構成する法を伝えられる様子が刻み込まれています。

 今変わらないと滅亡しかないということ 最後は 簡単にやってくる
 制度の単純化
 豊田市図書館の3冊
209『137億年の物語』宇宙が始まってから今日までの全歴史
209『岩波講座 世界歴史22』冷戦と脱植民地化Ⅰ 二〇世紀後半
361.2『社会学の歴史Ⅱ』他者への想像力のために


『第二次世界大戦』

2023年10月08日 | 4.歴史
 209.74チヤ『第二次世界大戦』

湧き起こる戦雲 ウィンストン・チャーチル

アドルフ・ヒトラー

〈失明した上等兵/無名の指導者/一九二三年ミュンヘン一揆/『マイン・カンプ』/ヒトラーの抱えていた難/ヒトラーと共和国軍/シュライヒャーの策謀/経済の猛吹雪の影響/ブリューニング首相/立憲君主制/軍備平等権/シュライヒャーの容喙/ブリューニング退陣〉

一九一八年一〇月、フランスのコミーヌ付近で、ひとりのドイツ共和国軍上等兵が、イギリス軍のマスタードガス攻撃によって一時的に失明した。その上等兵がポメラニアの病院で床についていたあいだに、敗北と革命がドイツを席巻した。上等兵は無名のオーストリア税関上級事務官の息子で、青年時代には偉大な芸術家になるという夢を抱いていた。ウィーンの造形美術大学の入学試験に落ちたあと、彼はウィーンにとどまって貧窮生活を送り、のちにミュンに移住した。ときには住宅塗装工として働いたが、ほとんどの場合、日雇い労働者で、体を壊し、世間が自分の成功を阻んでいるのだと、ひそかに激しい恨みを抱いた。この不遇は、彼を共産主義者陣営に向かわせなかった。きっぱりと反対側を向き、もっと異常な民族的忠誠という感覚と、ドイツとドイツ民族への熱烈かつ神秘主義的な賛美を心に抱いた。戦争が勃発するといそいそと入営し、バイエルンの連隊で四年間、伝令兵として西部戦線で軍務に服した。それがアドルフ・ヒトラーの人生前半の浮き沈みだった。

一九一八年冬、光を失い、無力な状態で病院のベッドに横たわっていたとき、ヒトラーは自分自身の失敗とドイツ国民すべての不幸が同化したように感じた。敗北の衝撃、法と秩序の崩壊、フランスの勝利が、静養中のヒトラーに耐えがたい苦痛を味わわせ、彼という存在を呑み込んで、人類の救済滅亡のどちれがある禍々しい強大な悪鬼の軍勢を創り出した。ドイツはありきたりの過程で零落したのではないと、ヒトラーは考えていた。それでは説明がつかない。どこかに極悪非道の大きな裏切りがあったのだ。孤独で自分の内に閉じこもりがちだった小柄な上等兵は、ドイツの惨状の原因を自分の限られた経験を拠り所にして考え、憶測した。ヒトラーはウィーンでドイツの過激な国粋主義者集団と交流し、宿敵であるユダヤ人が、北方人種を食い物にし、悪意に満ちた活動で飲んでいるという話を聞かされていた。ヒトラーの愛国的な怒りは、金持ちと成功者へのねたみに煽られて、とてつもなく激しい憎悪に変わった。

ヒトラーは、取るに足らない一患者としてようやく退院した。まるで学童のように得意げに軍服を着たまま、うろこの落ちた目で彼が見たのは、惨憺たる光景だった!敗北が恐ろしい激動をもたらしていた。絶望し、狂乱した周囲の状況のなかで、共産主義革命のけばけばしい特徴が目についた。装甲車がミュンヘンの通りを突進して、あてどなくさまよい歩く人々にパンフレットか銃弾をばら撒く。ヒトラーのかつての戦友たちが、反抗のしるしの赤い腕章を軍服につけて、彼がこの世で大切だと思っている物事すべてに対して怒りのスローガンを叫んでいた。まるで夢のなかのように、すべてがはっきり見えた。ドイツはユダヤ人に背中を刺され、ひきずり倒されたのだ。銃後で金儲けしたやから、策略をめぐらしていたやから、ユダヤ人知識階級の国際的陰謀に加担している憎きボリシェヴィキに殺られたのだ。目の前で自分の責務が燦然と輝くのをヒトラーは見た。これらの害悪からドイツを救い、不当な仕打ちの仇を討ち、神が長らく示してきた神意に向けて支配者民族を導くのが自分のつとめなのだ。

ヒトラーの連隊の将校たちは、兵卒たちの反政府的・革命的な傾向に警戒を強めていたので、すくなくともひとり、道理をわきまえているように思われる兵卒を見つけてよろこんだ。ヒトラー上等兵は、軍に残ることを望んでいたので、“政治教育教官〟に任命された。要するにスパイだった。この見せかけで、ヒトラーは反乱や反政府の企てに関する情報を収集した。ほどなく上官の保全将校の指示で、ありとあらゆる毛色の地元政党の会合に出席するようになった。一九一九年九月のある晩、ヒトラーはミュンヘンのビヤホールでひらかれたドイツ労働者党の集会へ行き、そこではじめて、参加者たちが、ユダヤ人、投機家、ドイツを奈落の底に落下させた”一一月の犯罪者ども”に対する彼のひそかな確信と似通った話をするのを聞いた。九月一六日、ヒトラーはドイツ労働者党に入党し、しばらくすると軍の活動に沿うようなプロパガンダを行なった。一九二〇年二月、ドイツ労働者党初の大規模集会がミュンヘンで行なわれ、アドルフ・ヒトラーが進行を宰領して、二五ヵ条の党綱領を発表した。ヒトラーはいまや政治家だった。ドイツを救済すると称した運動が開始されていた。四月にヒトラーは共和国軍から除隊し、拡大した党の活動に傾注するようになる。翌年半ばには党の当初からの指導者たちを排除し、彼に心服していた仲間をその情熱と天賦の才で説得して、党の独裁権をのにした。ヒトラーはすでに指導者”だった。経営不振に陥っていた《民族的観察者》紙が買収され、党機関紙になった。

共産主義者はすぐにこの敵の存在に気づいた。共産主義者が会合を妨害しようとしたため、ヒトラは一九二一年末に突撃隊〟の最初の部隊を編成した。この時期まで、運動はすべてバイエルンの地元団体内で行なわれていた。だが、ヒトラーの党が大戦後数年のあいだにドイツ国民の生活に貢献したことで、このあらたな思想に耳を傾ける人々が旧ドイツ帝国中で増えていた。一九二三年のフランスによるルール占領に、ドイツ人すべてが激しい怒りをたぎらせていたため、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)と改称していたヒトラーの党の支持者は幅広い層で急増した。マルク急落でドイツの中産階級の生活基盤が破壊され、窮乏した人々の多くが新党に入党して、みじめな状態からの救いを熱烈な憎悪と復讐と愛国心に求めた。

当初、ヒトラーは、敗北の屈辱から生まれたヴァイマル共和国に対する攻撃と暴力で権力を得ると明言していた。一九二三年一一月、指導者〟は決意の固い集団を擁し、なかでもゲーリング、ヘス、ローゼンベルク、レームが抜きんでていた。これらの行動派の男たちが、バイエルン政府を乗っ取る潮時だと決断した。フォン・ルーデンドルフ将軍が、一揆を先導し、この冒険的行動に軍の威信を授けた。戦前には、“ドイツには革命はない。なぜなら、ドイツでは革命が厳しく禁じられているからだ〟といわれていた。この格言がミュンヘンの地元官憲によって復活した。警察部隊はまっすぐに行進してくるルーデンドルフ将軍には危害を加えないよう慎重に発砲して、丁重に身柄を拘束した。デモ隊の約二〇人が銃撃で殺された。ヒトラーは地面に伏せ、幹部数人とともにしばらく逃亡していた。一九二四年四月、ヒトラーは五年の禁固刑を宣告された。

ドイツの官憲は秩序を維持し、法廷は罰を加えた。だが、当局が生身のドイツ人に襲いかかり、ドイツにもっとも忠実な若者たちを外国との駆け引きのために犠牲にしたという見方が、ドイツ全土にひろまった。ヒトラーの刑期は五年から一三ヶ月に減刑された。しかし、ランツベルク要塞に禁固されていたその歳月は、一揆の失敗について自分の政治哲学を論じた『マイン・カンプ』(『わが闘争』)の概要をまとめるのに役立った。その後、ヒトラーが権力を握ったときに、連合国の政治・軍事指導者たちはこの本をもっと念入りに研究すべきだった。すべてそれに述べられているドイツ復興計画、党のプロパガンダの技法、マルクス主義と戦う計画、国民社会主義国の概念、ドイツの正当な地俺は世界の頂点であること。それはヒトラーの信念と戦争の聖なる教典だった。わかりにくく、冗長で、まとまりが悪いが、重大な意図をはらんでいた。

『マイン・カンプ』の主題は単純だった。人間は戦う生き物であり、したがって国家は戦士の共同体であり、戦闘部隊である。生存のために戦うのをやめる生命体は絶滅する。同様に、戦うのをやめる国や人種は、死滅する運命にある。人種の戦う能力は、その純度に左右される。したがって、外国人の血によって汚されるのは避けなければならない。ユダヤ人はどこの国にもいるので、平和主義者・国際主義者にならざるをえない。平和主義は、存在をかけた戦いで人種が降伏する原因になるので、もっとも恐ろしい罪である。したがって、すべての国の第一の責務は、大衆を国粋化することである。個々の知性は最重要ではない。意志と決意が、最優先される特質である。指揮官に生まれ付いた人間は、無数の部下よりもはるかに貴重な存在である。軍事力のみが人種を確実に生存させるから、各兵種の軍隊が必要になる。人種は戦わなければならない。のうのうとしている人種は、錆付き、朽ち果てる。ドイツ人種が適切な時機に一致団結していたら、とっくに地球の支配者になっていたはずだ。新ドイツ帝国は、ヨーロッパに分散しているドイツ民族の小集団をすべて取り込まなければならない。敗北を喫した人種は、自信を取り戻せば救済される。なによりも、自分たちが無敵であることを確信するように軍隊を教化する必要がある。ドイツ国家再興のためには、武力によって自由を取り戻すのが可能だということを、国民に得心させる必要がある。貴族政治の原理は根本的に適切である。主知主義は望ましくない。教育の最終目標は、最低限の訓練で兵士に仕立てあげることができるドイツ人を生み出すことだ。狂信的で異様なまでに激しい情熱という原動力がなかったら、史上最大の激動を引き起こすことはできない。平和と秩序というありふれた美徳では、何事も動かせない。世界はそういう激動に向けて進んでいるし、新ドイツ国家は、ドイツ民族がこの地球上でもっとも偉大な最後の決断を下す覚悟を決めるように仕向けなければならない。

外交政策は節操のないものになるかもしれない。国家が勇猛果敢に倒れるのを傍観せずに繁栄して生き延びるよう気を配るの外交官の仕事である。ドイツの同盟国になりうるのはイギリスとイタリアだけだ。民主主義者やマルクス主義者が牛耳っている臆病な平和主義国と同盟を結ぶ国はどこにもない。つまり、ドイツが自力でやっていかなかったら、だれも面倒を見てくれないだろう。神に心から祈ったり、国際連盟で善人ぶって願ったりしても、失われた領土は取り戻せない。領土回復は武力のみによって可能なのである。ドイツは敵国すべてと同時に戦う過ちを犯してはならない。もっとも危険な敵を選り出し、全力を挙げてそれを攻撃しなければならない。イツがさまざまな権利において平等の立場を回復し、陽の当たる場所に戻ったときにはじめて、各国は反ドイツではなくなるだろう。ドイツの対外政策に感情的な要素があってはならない。感情的な理由からフランスを攻撃するのは愚かだ。ドイツはヨーロッパにおける領土を拡大する必要がある。ドイツの戦前の植民地政策は間違っていたし、打ち捨てるべきである。ドイツはソ連に向けて拡大することをもくろみ、とりわけバルト海諸国の併呑を考慮すべきだ。ソ連との同盟は許されない。ソ連とともに西欧に対する戦争を行なうのは論外である。なぜなら、ソ連は国際ユダヤ主義の勝利を示しているからだ。

これらが、ヒトラーの政策の〝御影石の柱“だった。

アドルフヒトラーのたゆまぬ闘争と、しだいに国家的な重要人物として台頭したことは、ほとんど戦勝国の目には留まらなかった。戦勝国はそれぞれが抱えている問題や党の政争に圧迫され、悩まされていた。この長い幕間が過ぎる前に、“ナチ”と呼ばれていた国民社会主義は、ドイツ国民、ド-ツ軍、国家機構の大多数、共産主義に当然の恐怖を抱いている企業家のかなりの部分をがっちりと掌握して、ドイ日常生活における一大勢力になり、全世界が刮目せざるをった。一九二四年末に刑務所から解放されたとき、運動を再編するには五年かかると、ヒトラーは述べた。

ヴァイマル憲法の民主主義的な一条項は、国会が四年ごとに選挙を行なうよう規定していた。この条項は、ドイツ国民の大多数が議会を永続的に完全に抑制できることを願うものだった。当然ながら、現実には激しい政治的興奮状態が生じて、選挙運動が切れ目なくつづくことになる。これらの選挙の結果は、ヒトラーとその教義の発展を如実に示している。一九二八年にはヒトラーは国会で一二議席しか得られなかった。それが、一九三〇年には一〇七議席に、一九三二年には二三〇議席に増えた。やがてドイツのすべての機構に国民社会主義党の行動と規律が浸透し、ユダヤ人に対するありとあらゆる脅迫と侮辱と蛮行がはびこるようになった。

そういった熱狂、悪行、浮沈をここですべて述べて、複雑怪奇な恐るべき展開を年代記的に述べる必要はないだろう。ロカルノ条約の弱々しい陽光が、しばらくはそういう状況を照らしていた。アメリカの巨額の借款を使うことで、繁栄が戻ったような錯覚が生じていた。その時期にはヒンデンブルク元帥がドイツを統率し、シュトレーゼマンが外相を務めていた。ドイツ国民の過半数を占める理性的でまっとうな人々は、ヒンデンブルクの堂々とした絶大な威厳が根っから大好きで、元帥が息を引き取るまで、それにしがみついていた。だが、ヴァイマル共和国は、安全保障が維持されているとい意識はもとより、国の栄光や復讐のよろこびを国民にあたえることができなかった。そして、国民の目がよそに向いているあいだに、べつの強力な勢力が活動を強めていた。

ヴァイマル共和国の政府機関と民主主義の機構は、戦勝国から押しつけられたもので、敗北という汚点にまみれていた。その薄っぺらな見せかけの蔭に、ドイツの真の政治勢力が潜んでいた。ドイツ帝国の骨格をなす共和国軍参謀本部は、戦後もしぶとく生き延びていた。参謀本部には、大統領や閣僚を任命したり辞任させたりする力があった。彼らはヒンデンブルク元帥を自分たちの力の象徴、自分たちの意図の仲介者にした。だが、一九三〇年にヒンデンブルクは八三歳になっていた。この時期から、ヒンデンブルクの精神力と知的理解力は、見る見る衰えていった。偏見が強まり、独断的にな

り、老耄がはじまった。戦争中にヒンデンブルクの巨大な木像が創られ、愛国者はそれに打ち込む釘を買って崇敬を示すことができた。ヒンデンブルクが〝生気のない巨人〟になったことを、いまではそれが如実に示していた。元帥は高齢であり、だれもが納得するような後継者を早急に見つけなければならない。将軍たちはだいぶ前からそう考えていた。だが、国民社会主義運動の力が猛烈に拡大し、ヒンデンブルクに代わる象徴を探す動きはそれに呑み込まれた。一九二三年のミュンヘン一揆に失敗したあと、ヒトラーはヴァイマル共和国の枠組みのもとで、公には完全に合法的な計画を唱えていた。しかし、それと同時に、ナチ内で軍隊と準軍事組織の編成と拡大を促し、立案していた。“褐色シャツ隊〟とも呼ばれた突撃隊は、当初はごく小規模な訓練中核組織だった。いっぽう、親衛隊は人数と行動力が増大し、その活動と兵力が増大する可能性に共和国軍が重大な危惧を抱くようになっていた。突撃隊を指揮していたのは、共和国軍大尉のエルンスト・レームだった。闘争の歳月を通じて、レ―ムはヒトラーの同志でなおかつ親しい友人だった。突撃隊参謀長に任命されたレームは、能力と勇気があることを実証していたが、個人的な野望と性的指向の虜になっていた。権力の座への過酷で危険な道のりを歩んでいたときには、レームの悪癖はヒトラーが協力を求める障害にはならなかった。ブリューニング首相が苦情を述べたように、突撃隊は一九二〇年代にバルト海沿岸とポーランドでボリシェヴィキと戦った義勇軍や、国家主義者の退役軍人から成る鉄兜団のような、昔ながらのドイツ国家主義者組織の大半を吸収していた。

ツ国内の大きな潮流を注意深く熟考した共和国軍は、自分たちの主な社会階級からして、もはやナチ運動に対抗する組織としてドイツを支配することはできないと、不承不承、確信するに至った。共和国軍もナチの武装組織も、ドイツを奈落の底から引きあげ、敗北の復讐を果たすという決意は共通していた。しかし、共和国軍がドイツ皇帝の秩序正しい機構そのもので、ドイツ社会の封建制の領主、貴族、地主、裕福な階級を代表していたのに対し、突撃隊は、怒りを沸々とたぎらせ、苦い思いを胸に抱いた反政府分子の不満や、破産した男たちの絶望に煽られて、ほとんど革命的な運動になっていた。そして、彼らが公然と非難するボリシェヴィキとは、北極と南極ほどかけ離れていた。

ナチと反目すれば、敗戦国ドイツをまっぷたつに引き裂くことになるというのが、共和国軍の見方だった。一九三一年と一九三二年の共和国軍上層部は、自分たちと国のために、国内問題に関して、ドイツ人の杓子定規で厳格な気質とまったく相反する勢力であるナチと手を結んだ。ヒトラーには破城槌をもって権力の砦に押し入る覚悟があったが、若いころに崇敬と忠誠を捧げた光り輝く偉大なドイツの指導者になるという目的が、つねに目の前にあった。したがって、ヒトラーと共和国軍の協定の条件は、双方とも現状維持の月並みなものばかりだった。共和国軍上層部は、ナチの力は強く、ヒンデンブルクの後継者としてドイツを率いることができるのはヒトラーしかいないと、しだいに悟った、ヒトラーのほうも、自分のドイツ復興計画を実行するには、共和国軍を支配している選ばれた人々との同盟が不可欠だと知っていた。取り決めが結ばれ、共和国軍の指導者たちは、ヒトラーを将来のドイツ首相の候補と見なすよう、ヒンデンブルクを説得した。そのために、突撃隊の活動を抑制し、参謀本部に従属させて、最終的には解隊することが合意された。ヒトラーはドイツを支配する勢力と同盟を結び、公式な首班による支配選挙による独裁)「制とも呼ばれる、を確立し、ツ国家が首領によって統べられ

るという体制に逆戻りする可能性が濃厚になった。一介の上等兵が、ついにそこまでになったのだ。

しかしながら、まだ複雑な内訌の種が残っていた。ドイツの国内勢力すべてに使える万能の鍵が参謀本部だったとするなら、その一本の鍵を数人が奪い取ろうとしていた。この時期、クルト・フォン・シュライヒャー将軍が、隠然たる影響力を有し、ときには決定的な影響力を行使した。シュライヒャーは、ひそかに温存されて支配力をふるっていた小規模な軍人集団の政治の師だった。シュライヒャーはあらゆる部局や派閥から不信の目を向けられ、参謀本部の教範に記されておらず、軍人がふつうなら知る由もない知識に通じている、抜け目のない有用な政治的策士と見なされていた。シュライヒャーはだいぶ前からナチ運動の重要性を見抜いていて、それを芽のうちに摘むか、抑制しなければならないと確信していた。そのいっぽうで、突撃隊という増大する私兵を擁するこの攻撃的な集団には、参謀本部の同志が適切に扱えば、ドイツの偉大さを再現し、自分を偉大な存在に押しあげるのに使える攻撃手段があると見なしていた。その武器とはレームのことだった。そういう思惑で、シュライヒャーは一九三一年に、ナチ突撃隊参謀長のレームとひそかに陰謀をめぐらしはじめた。つまり、大きな物事が二重になって進行していた。参謀本部はヒトラーと取り決めを結び、そのさなかでシュライヒャーが、ヒトラーの右腕でその競争相手になりうるレームとともに、みずからの策謀を押し進めていた。シュライヒャーは、ナチの革命的な勢力、とりわけレームと接触をつづけていたが、三年後にヒトラーの命令によっていずれも射殺された。それによって政治的状況は単純になり、生き残ったものが置かれている状況もおなじになった。

その間も、経済の猛吹雪がこんどはドイツを苦しめていた。アメリカ国内での支払いに追われているアメリカの銀行が、ドイツに対する不用意な貸し付けを増やすことを拒んだ。そのため、ドイツ全土で工場が廃業し、ドイツの平和な復興の基盤だった数多くの事業が突然、破綻した。一九三〇年冬、ドイツの失業者は二三〇万人にのぼった。それと同時に、賠償金があらたな段階に達した。それまでの三年間、アメリカ代表部のS・パカー・ギルバートが、私がアメリカ財務省にそっくりそのまま伝えたイギリスへの支払いも含めて、連合国が要求する巨額の賠償金の徴収を担当していた。この制度が長つづきしないことは目に見えていた。一九二九年夏、対独賠償国際委員会のヤング委員長が、パリでひらかれた会議で重要な賠償軽減案を組み立て、提案し、交渉した。この案は賠償金支払いに年限を設けるだけではなく、ドイツ帝国銀行とドイツ鉄道を連合国の統制からはずし、対独賠償国際委員会を撤廃して、国際決済銀行を利用するとしていた。これに対し、ヒトラーと国家主義運動は、実業界や商業界の派閥と手を組んだ。いずれも、獰猛で移り気な大物実業家アルフレート・フーゲンベルクの息がかかっている勢力だった。連合国が差し出した広範におよぶ寛大な軽減案に反対する無益な荒々しい運動が開始された。ドイツ政府は最後の力をふりしぼって、二二四票対二〇六票の僅差で、ヤング案”に国会の承認を得た。一九二九年に脳卒中のために急死するシュトレーゼマン外相は、条約が求める期限よりもはるかに早い時期に連合軍をラインラントから完全撤退させることに合意を取り付けた。それがシュトレーゼマンの最後の業績になった。

しかし、ドイツの国民大衆は、戦勝国の大幅な譲歩にはおおむね冷淡だった。その譲歩がもっと早い時期か、明るい雰囲気のときに行なわれていれば、和解に向けて大きく前進し、ほんとうの平和が戻ってくると称賛されたかもしれない。しかし、いまやドイツの国民大衆は、失業といういっかな消えようとしない暗い恐怖に襲われていた。マルクから資本が逃避したことによって、中産階級はすでに破産し、荒々しい激流に投げ込まれていた。外交で活躍していたシュトレーゼマンは、国際経済の圧迫により、国内での政治的立場が危うくなっていた。ヒトラーのナチとフーゲンベルクの大物資本家たちの痛烈な攻撃により、シュトレーゼマンが失脚し、ミュラー首相が退陣に追い込まれて、一九三〇年三月二八日、カトリック系の中央党のハインリヒ・ブリューニングが首相に任命された。

ブリューニングは、ヴェストファーレン出身のカトリック教徒の愛国者で、現代風の民主主義の装いのなかで、以前のドイツを復活させようとした。暗殺される前にラーテナウが画策していた戦争のための工場準備計画を、途切れさせることなく進めた。また、混乱が激化するさなかで、財政の安定を目指して悪戦苦闘した。ブリューニングの経済政策と、公務員の数と給与を減らす計画は、不人気だった。憎悪の奔流が、いっそう荒れ狂うようになった。ヒンデンブルク大統領の支持を得て、ブリ・ニングは対立する国会を解散させ、一九三〇年に総選挙を行ない、過半数を得た。ブリューニングはそこで最後の注目すべき努力を行なった。ドイツの守旧派の残党を糾合し、力を盛り返した暴力的で品格のない国家主義者の扇動に対抗しようとしある。そのために、ヒンデンブルク大統領の再選を図ろうとした。ブリューニングは、これまでにない明確な解決策に目を向けていた。ドイツの平和と安全と栄光は、皇帝の復活のみによって実現すると考えていたのだ。そのあと、高齢のヒンデンブルク元帥を説得する。ヒンデンブルクが再選されたら、摂政として最後の任期を務めてもらう。ヒンデンブルクが死ぬときには、事実上、君主制が復活していることになる。この政策が実現すれば、ヒトラーがいま明らかに狙っているドイツ国家の元首の空位を埋められる。あらゆる状況に鑑みて、それは正しい方策だった。だが、はたしてブリューニングは、ドイツをそこまで導くことができただろうか?ヒトラー寄りに流れていた保守勢力をヴィルヘルム二世の復位によって呼び戻すことは可能だったかもしれない。しかし、社会民主主義者や労働組合は、元ドイツ皇帝や皇太子が地位を回復することに肯んじなかっただろう。ブリューニングの計画は、第二帝国の再現ではなく、イギリス式立憲君主制を望んでいた。皇太子の息子のひとりが、適切な候補になるかもしれないと期待していた。

一九三一年一一月、ブリューニングは、すべてを左右する力があるヒンデンブルクに自分の計画を打ち明けた。高齢の元帥はたちまち激しい不快感を示した。仰天し、断固として反対した。“余はあくまでもドイツ皇帝の管財人だ”と、ヒンデンブルクはいった。“それ以外の策は余の軍歴の名誉を汚す。皇族のひとりを選んで帝位に就けるというのは余の信奉する君主制の基本概念に反する。正統性を侵してはならない。また、ドイツ国民が皇帝の復位を受け入れることはありえないから、余しかいない。これに余は依拠する。妥協の余地はない!〟「余はここにいて、ここにとどまる」。ブリューニングは熱烈に説得した。老兵に対して、長広舌をふるった。ブリューニングには、強力な論拠があった。正統性に欠けるかもしれないが、君主制という解決策をヒンデンブルクが受け入れないと、ナチが革命によって独裁制をものにするに違いないと論じた。同意には達しなかった。だが、ブリューニングがヒンデンブルクを翻意させることができるかどうかはべつとして、ドイツ国家がただちに政治的に崩壊するのを避けるためには、是が非でもヒンデンブルクが大統領に再選される必要があった。その最初の段階では、ブリューニングの計画は成功した。一九三二年三月に大統領選挙が行なわれ、決選投票でヒンデンブルクが最多得票を獲得して、政敵のヒトラーと共産主義者のエルンスト・テールマンを破った。ドイツは国内の経済状況とヨロッパ諸国との関係の両方に取り組まなければならなかった。ジュネーヴ軍縮会議が行なわれている折、ヒトラーはヴェルサイユ条約でドイツが受けた屈辱に抗議する運動を燃えあがらせて勢力をのばした。

ブリューニングは、慎重に考慮したうえで、ヴェルサイユ条約を改変する広範な計画を創案した。一九三二年四月にブリューニングはジュネーヴでこれを発表し、思いがけず好意的に受けとめられた。ブリューニング独首相、マクドナルド英首相、スティムソン米国務長官、ノーマン・デイヴィス米無任所大使の会談では、合意に達しそうな雰囲気だった。ブリューニングの案は、ドイツとフランスの〝軍備平等権〟という、控え目にいってもさまざまな解釈ができる奇妙な原理に基づいていた。本書のあとの章で論証されるが、こういうものを基礎に平和を築くことができると思慮深い人物が思い込んだことには、あいた口がふさがらない。この重要な主張が戦勝国に認められたら、ブリューニングは苦境を脱していたかもしれない。そして、つぎの段階―巧妙に仕組まれていたつぎの一歩―は、ヨーロッパ復興のための賠償帳消しということになる。もちろん、そういう合意はブリューニングの地位を高め、偉業を成し遂げたと見なされるに違いなかった。

アメリカの全般的な外交を担当していたノーマン・デイヴィス無任所大使が、フランスのタルデュ首相に電話をかけて、急いでパリからジュネーヴに来てほしいと頼んだ。だが、ブリューニングにとって不運なことに、タルデューはべつの新情報をつかんでいた。ベルリンであれこれ画策していたシュライヒャーが、ブリューニングはまもなく失脚するので交渉の相手にすべきではないと、フランス大使に警告していた。それに、“軍備平等権〟方式におけるフランスの軍事的立場を、タルデューが危惧していたのも一因だったかもしれない。とにかくタルデューはジュネーヴに赴かず、五月一日にブリューニングはベルリンに戻った。間が悪いときに、手ぶらで帰ったことは、致命的だった。ドイツの国内経済は崩壊に瀕し、それに対処するには思い切ったきわどい手段を講じなければならなかった。ブリューニングの不人気な政府には、そういう手を打つような力がなかった。五月いっぱいブリューニングは苦戦し、そのあいだに刻々と変化するフランスの議会政治は、エドゥアール・エリオに取って代わられていた。

 生きるって本当に連続なのディスクリートとしか思えない

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『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

2023年10月07日 | 4.歴史
 『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

フォルクスゲマインシャフト―共同体と排除

国家権力は、ナチ党が思い描いた再生ドイツの実現にとって必要な条件でしたが、これだけでは不充分でした。第4章で見てきたように、ナチ党の政治理論とプロパガンダに用いられた決まり文句のひとつに、国家はそれ自体が目的ではなく、目的を達成するための手段であるというものがありました。その目的とはドイツ民族の歴史的運命の実現でした。ナチ指導のもと、統一された国民・人種の共同体、つまりフォルクスゲマインシャフトを築くというのです。フォルクスゲマインシャフトという言葉自体はドイツの政治論ではごく一般的なものでしたが、ナチ・ドイツでそれが具体的になにを意味したのかについては歴史家のあいだでかなりの論争になってきました。論争を呼んだのは、ドイツ人の信念と考え方を支配したナチ・イデオロギーの力について、そしてドイツ人のためという名目で実施された暴力による政治的・社会的実験に国民がどの程度同意していたのかについての、根本的な問いと密接に関係しているからです。

フォルクスゲマインシャフトを理解する

国民国家の時代には、国民や民族を、それを構成する個人を超えて、より崇高な目的へと向かわせる集合体と見なすことがよくあります。ナチ党の思い描いたフォルクスゲマインシャフトは、このなじみのある魅力的な枠組みのなかにありました。当時、第一次世界大戦後のドイツは、軍事的敗北、社会不安、経済危機によって国が分断され、将来どこへ向かえばいいのかを見失っていました。しかしナチ党は、一貫性はないにしても、フォルクスゲマインシャフトに新たに何層かの意味をつけ加えました。権利、交換、選択を重視する、社会的統合による現代的な大量消費主義の市場モデルが国際的に勢力を拡大していましたが、ナチ党はそれに代わるものとして、人種選択的で闘志にあふれ、経済的な自給自足を目指す国民連帯のモデルを提案したのです。“ドイツ人の「血と土」(ブル・ト・ボーデン)”というナチ党の古めかしい言い方にもかかわらず、そのモデルはおそらく反近代的な構想というよりむしろもうひとつの現在を提案したものであり、人種の純粋性と人口の拡大のためのナチ独自の似非科学に基礎を置いていました。

とはいえ、ナチ政権がドイツ国民に受け入れられたのはイデオロギーに説得力があったおかげではありませんでした。むしろ、前向きで新しいなにかを創造したという、一九三三年以降ナチ政権がとりわけ声高に繰り返し宣伝した自慢のひとつが国民の心をつかんだのです。そのなにかとは、有機的でありながら競争のある共同体(ライストゥングスゲマインシャフト)であり、成果に応じた報酬を与える能力主義を採用し、過去の抑圧的な社会階層を消し去ったと宣伝されました。フォルクスゲマインシャフトの一員になるための新たな人種的・社会的な基準に一致し、応分の負担を果たした人びとは、この特権的な民族共同体の貴重な一員として満足のいく自己像を得ることができました。疑い深い人びとでさえ、独立独歩の新生ドイツで、政権が共同体と責任分担について主張した魅力的な公約に心惹かれました。公約には、完全雇用の実現と生活・福祉の水準向上、社会的な規律と家族の安定、男女間の秩序ある関係の確立、富と地位という不平等ではなく能力と努力の競争による人生の可能性の獲得などが謳われていました。

歴史家は、こうした主張を人びとが生きた現実にほとんど即していないプロパガンダ的な煙幕として扱いがちでした。この見方では、階級のない新たな社会というナチ党の主張は、ドイツの労働者が新しい国民共同体に統一されておらず、労働者の政治団体および職場での自由を暴力で破壊することで彼らを脅して従わせていた事実を無視していました。フォルクスゲマインシャフトについて止めどなく発信しつづけたのは、階級区分の根深さを見えにくくし、新たな社会階層と経済格差が生み出されたことを否定するためでした。また、戦争による世界制覇というヒトラーの野望の隠れ蓑ともなったのです。その実現には頼りになる確かな銃後の守りが必要不可欠でした。強制的同質化―ドイツの機関や団体をナチ化された団結した統一体に組み込んで連携させることという詐欺的な策略の陰で、現実には、人びとは小集団に細分化され、停滞した不平等にはまり込んで抜け出せない状態にありました。富と財産は再分配されませんでした。実質の時間給はほんのわずかしか上がらず、住宅建設は再軍備のため断念されました。権力が新たな党エリート層に移譲されると同時に、大衆迎合的な主張とはうらはらに、旧体制の資本家階級と貴族階級は地位と権威の多くをもちつづけていました(そして自分たちの信念も保っており、上流階級のドイツ人ナショナリストは、自分たちが政権の座に就くのを後押しした粗野な指導者たちを見下して軽蔑を強めていた)。その一方で、この解釈によると、無力な大勢の国民は空約束で買収され、「治安」をテロ行為の別名とする警察国家で服従に追い込まれ、戦争が避けられない運命だった、ということになります。

この見方は政権自体の主張よりも現実に即したものでしょうか?一九三三年時点でのナチ政権の第一の目的は、左派を壊滅させ、力のある政治的反対勢力を抑え込むことだったのは明らかです。それと同様に、社会の主要な不平等はそっくりそのまま残しておいて、新たな不平等をつくり出しながら、国民の同意があったというイメージをでっちあげて押しつけようとしたこともまた明白でしょう。とはいえ、イデオロギーはプロパガンダがすべてだと単純化できるものではありません。「ナチ」を、「ドイツ人」という受け身の大衆に向けた指示と政策の立案者とし、ドイツ人には従うか抵抗するかのどちらかしか道はなかったと断定するのでは、単純化しすぎているのです。これは、それまで集団として共有していたアイデンティティと表現方法が突然否定されてしまった社会において、社会生活および私生活の実感と実体験が充分に考慮された見方とは言えません。かつて階級と抵抗の限界に集中していたナチ・ドイツの歴史研究が人種政治をより考慮するようになるにつれて、私たちの見方の角度も変わってきました。社会的カテゴリーと政治的忠誠によってではなく、新たな生政治的な区分によって定義された社会における、アイデンティティと帰属の問題に注目が高まりました。ナチ・ドイツの日常生活史をじっくり見てみると、国民社会主義を徐々に植えつけた入り組んだルートが浮き彫りになります。多様な政治的背景をもつ、あらゆる階級のドイツ人の生活とアイデンティティに、政党、イデオロギー、言語、政策として、国民社会主義を浸透させていったのです。国民社会主義のもとで失ってしまった自由と引き換えに、何百万もの人びとが選択的にイデオロギーを無視し、自分が手に入れのを数えるほうを選ぶことができました。拡大する経済で生まれた勤め口、民族的な権利を与えられた安心感、ヴェルサイユの「恥辱」を経験したのちのドイツの軍事力と国際的地位にいだいた愛国的誇りが得られたのです。それからほどなくして、同じドイツ人でありながら、自分たちに選択権がないと気づいた人びとが数十万いましたが、大多数はそうした人びとが払う代償は胸におさめてしまってかまわないと考えました。

境界線を引く

帰属意識で結ばれたこの共同体が第一の礎としたのは、一員として受け入れる価値がないと判断された全員を強制的に排除することでした。ナチ政権は前代未聞の抜本的な措置を講じる用意ができていました。ドイツ社会のモザイクのような多様性を力ずくで叩きつぶし、人口増加、人種闘争、領土拡大に向けた手段につくり変えるためです。能力不足や不要と見なされた人びとは、フォルクスゲマインシャフトから切り離され、物理的にも言葉のうえでも壁の向こうに閉じ込められることになりました。そして承認と共感というごく普通の感情はその壁を越えることができなくなったのです。

このように、フォルクスゲマインシャフトの根本原則は、帰属するにふさわしい者とそうでない者のあいだに境界線を引き、取り締まることでした。「個人」や「市民」といったリベラルな概念は、Volksgenosse(民族同胞)という生物学的な分類に取って代わられました。これも一九三三年以降に公的な場で盛んに語られるようになった多くの言葉のひとつで、イデオロギーがたっぷり詰まっており、英語にはまったく同じ意味の言葉がありません。たとえば「ethniccomrade」など、不自然な直訳にしかならないのです。その中心となる意味は政治的権利や公民権ではなく、生物学的適応度という意味での「血」でした。ここで言う血とは、有機的共同体の生命と成長のための民族同胞の人種的・優生学的価値のことでした。民族同胞の範疇からはずれた人びとはすべて「その他の人びと」と位置づけられ、フォルクスゲマインシャフトは彼らから守られなければならない、彼らを追放しなければならないとされました。こうした人びとはartfremd(「[人種的な]異種」)やgemeinschaftsfremd(「共同体にとって異質」、つまり「反社会的」共同体異分子)、erbkrank(遺伝病)と指定されました。国は生物学的に健康な(かつ政治的に好ましい)ドイツ人が繁栄し、子孫をつくるのを奨励する一方で、文字どおりに言えば、こうした政治的身体〟である国民に害を及ぼしかねない欠陥があるとみなしたすべての人びとを排除していったのです。ナチが「人種衛生学」と呼ぶのを好んだ優生学の教義と実践は決してナチ・ドイツに限られたものではありませんでした。優生学は二〇世紀初めのヨーロッパとアメリカ合衆国では科学と社会政策に当たり前のように採り入れられており、ドイツでは一九三三年以前にすでにいくらか進歩していました。しかし批判的な発言が禁じられたナチ・ドイツでは、歯止めが効かない状態になり、強制的な計画を進めるための新たな急進的合意と推進力が形成されていきました。医学的な野心が正式に承認された人種イデオロギーと次第に一致し、不適応の問題を生政治上の集団的自己防衛という緊急課題として扱うようになりました。一九三四年にナチ党のある幹部がずばり言ったように、国民社会主義は「応用生物学」にすぎなかったのです。

「反社会的分子」と犯罪者

「反社会的分子」とは社会の基準から逸脱したり、反抗的だったりする個人や集団をひとまとめにした分類で、人種的には「アーリア人」でも、ハイドリヒが一九三八年に言ったように「犯罪に限らず、共同体にとって有害な行動をとおして共同体に順応するつもりのないことを明らかにする人びと」を指しました。危険なほど弾力性のある定義です。政敵の大量拘束がボリシェヴィズムの脅威から共同体を守るためだと公然と正当化されたのと同じように、嫌われ者で取るに足らない逸脱者集団の拘禁は、「犯罪との戦い」であるだけでなく、社会を蝕む危険から国民を守るための緊急措置とされました。

一九三六年、バイエルン政治警察が標的として列挙したのは、そのほとんとがすでに長いあいだ公的な嫌がらせを受けてきた人びとの寄せ集めでした。「物乞い、放浪者、ジプシー、路上生活者、労働忌避者、なまけ者、売春婦、不平家、常習的な大酒飲み、ごろつき、交通違反者、いわゆるサイコパスや精神病患者」だったのです。彼らは一斉に逮捕されて刑務所や労役場、強制収容所に入れられ、何万人もの危険とされた「常習的」あるいは「遺伝的」な犯罪者も、予防拘禁の新たな権限によって同じ運命にさらされました。まず、シンティとロマ(ジプシー))が路上生活者や労働忌避者として迫害されましたが、一九三八年にヒムラーが出した命令では、彼らが厄介者であるばかりではなく、異人種でもあると恐ろしげに説明されました。強制収容所はこうした人びとでいっぱいになり、一九三九年には二万一〇〇〇人の収容者のうち、政治犯は三分の一以下に減っていました。過酷な労働と厳しい規律によって「再教育」された収容者が共同体に復帰するというかすかな可能性も残されたものの、ほとんどの収容者にとってそれは幻想にすぎませんでした。

性、ジェンダー、生殖

「反社会的分子」と犯罪者も、ドイツの人口とその質を高めるための別の優先度の高い計画の標的にされていました。一九三三年七月、「遺伝病」があると認定されたすべての人を強制的に断種する法律が制定されました。知的障碍からアルコール依存症、先天性の聾や盲目まで、広い範囲におよぶ身体・精神にかかわる障碍が遺伝病とされました。実施の際の基準はさらに弾力的に運用され、「反社会的分子」とされた人びとや数は少ないもののアフリカ系ドイツ人にも適用されました。アフリカ系ドイツ人のほとんどは、第一次世界大戦後のラインラントに駐留していた、フランスのアフリカ人部隊〔フランス植民地のアフリカから派遣されていた〕の兵士とドイツ人女性のあいだに生まれた人びとでした。

一九三九年までにおよそ三二万人のドイツ人女性と男性が断種されており、男性対象の処置が「ヒトラー切開」という皮肉な異名をとるほど、断種政策は人びとの意識に急速に浸透しました。

“不適格者”に子孫を残させないことは、第一次世界大戦以来低下していたドイツ人の出生率を回復させるための政策に緊密に結びつけられていました。出生率の低下はナチ党の目には人種的な自殺行為という悪夢に見えたのです。遺伝的に「健康な」男性と女性の断種は禁じられる一方、ドイツですでに違法だった妊娠中絶は取り締まりと刑罰がさらに強化され、避妊手段は利用しにくいものになりました。結婚は、一九三三年六月に始まった結婚奨励貸付金制度を皮切りに、国が課した人種・思想の基準によってますます規制されるようになりました。結婚の資格は人種によって制限されるとともに、結婚した女性は有給の仕事からの退職を義務づけられ、子をひとり出産するごとに貸付金の返済額が減免されました。一九三五年に制定されたいわゆるニュルンベルク法のもと、「ユダヤ人」と「ドイツ人ないし〝同種”(artverwandtes)の血をもつ国籍所有者」との結婚および性交渉が禁止されました。同年、生物学的に「望ましくない」と見なされた結婚も禁止されています。このように生殖活動に対して新たに規制が課せられたのは、一九二〇年代のフェミニズムの躍進を帳消しにする意図もありました。性差による役割分担という慣例的な思想に女性を従わせ、母親になることを共同体に対する義務として強制しようとしたのです。

ヒムラーが陣頭指揮を執った男性同性愛者への激しい迫害は、彼らが共同体に対する子づくりの義務を拒否しているという通俗的な思い込みも理由のひとつになっていました。女性は受け身の性とされていたため、女性同性愛者は守られました。子をつくれる可能性が完全に失われたわけではなかったからです。しかし彼女たちも、男性性と女性性しか存在しないとする、ヒムラーの厳格な道徳観による攻撃にさらされやすくなっていました。ドイツでは男性同士の性交渉が以前から長らく犯罪とされており、一九三五年になると、男性同士の性的親密さという定義が曖昧な状態も犯罪に含まれるよう刑法が拡大されました。大勢の男性同性愛者が裁判にかけられ投獄されましたが、一九三三年から四五年にかけては、約一万五〇〇〇人が強制収容所に送られ、親衛隊の看守からも同じ立場であるはずの囚人からも迫害を受けました。さらには人体実験の犠牲者となりました。

国家が新たに発令した人種衛生上の命令は、個人の選択や倫理観をまったく考慮せず、とりわけ女性を対象に、個人の性交歴や病歴、家系についてひどく立ち入った調査を認めました。人びとの価値観や職業上の規範、言語がゆるやかに変化していくにつれて、抵抗と疑念は徐々に弱まり、新しい現実に批判が及ばないようになっていきます。そして一九三九年以降にいっそう重大な医学的な倫理違反が起こる素地がつくられてしまうのです(第9章参照)。「われわれ対あいつら」という二項対立的な区別を強いることで、政権の政策は、汚名を着せた集団を通常の社会的交流から遠ざけ、抑圧や迫害に対して無防備な状態へと追い込みました。その一方で、彼らの反対側にいる人びとは優越感に浸ることができ、それによってさらにインサイダーとアウトサイダーの距離は広がっていったのです。おそらく、この感情がフォルクスゲマインシャフトを支える最も揺るぎない柱となったのでしょう。しかし、「アーリア人」のドイツ人が受ける資格のある保健福祉計画はコインの片面にすぎませんでした。その提供は、すべての個人をフォルクの単なる生物学的単位として扱う人種的・優生学的差別の原則にまさに左右されていたのでユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

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『14歳から考えたいナチ・ドイツ』

2023年10月03日 | 4.歴史
フォルクスゲマインシャフト―共同体と排除

国家権力は、ナチ党が思い描いた再生ドイツの実現にとって必要な条件でしたが、これだけでは不充分でした。第4章で見てきたように、ナチ党の政治理論とプロパガンダに用いられた決まり文句のひとつに、国家はそれ自体が目的ではなく、目的を達成するための手段であるというものがありました。その目的とはドイツ民族の歴史的運命の実現でした。ナチ指導のもと、統一された国民・人種の共同体、つまりフォルクスゲマインシャフトを築くというのです。フォルクスゲマインシャフトという言葉自体はドイツの政治論ではごく一般的なものでしたが、ナチ・ドイツでそれが具体的になにを意味したのかについては歴史家のあいだでかなりの論争になってきました。論争を呼んだのは、ドイツ人の信念と考え方を支配したナチ・イデオロギーの力について、そしてドイツ人のためという名目で実施された暴力による政治的・社会的実験に国民がどの程度同意していたのかについての、根本的な問いと密接に関係しているからです。

フォルクスゲマインシャフトを理解する

国民国家の時代には、国民や民族を、それを構成する個人を超えて、より崇高な目的へと向かわせる集合体と見なすことがよくあります。ナチ党の思い描いたフォルクスゲマインシャフトは、このなじみのある魅力的な枠組みのなかにありました。当時、第一次世界大戦後のドイツは、軍事的敗北、社会不安、経済危機によって国が分断され、将来どこへ向かえばいいのかを見失っていました。しかしナチ党は、一貫性はないにしても、フォルクスゲマインシャフトに新たに何層かの意味をつけ加えました。権利、交換、選択を重視する、社会的統合による現代的な大量消費主義の市場モデルが国際的に勢力を拡大していましたが、ナチ党はそれに代わるものとして、人種選択的で闘志にあふれ、経済的な自給自足を目指す国民連帯のモデルを提案したのです。“ドイツ人の「血と土」(ブル・ト・ボーデン)”というナチ党の古めかしい言い方にもかかわらず、そのモデルはおそらく反近代的な構想というよりむしろもうひとつの現在を提案したものであり、人種の純粋性と人口の拡大のためのナチ独自の似非科学に基礎を置いていました。

とはいえ、ナチ政権がドイツ国民に受け入れられたのはイデオロギーに説得力があったおかげではありませんでした。むしろ、前向きで新しいなにかを創造したという、一九三三年以降ナチ政権がとりわけ声高に繰り返し宣伝した自慢のひとつが国民の心をつかんだのです。そのなにかとは、有機的でありながら競争のある共同体(ライストゥングスゲマインシャフト)であり、成果に応じた報酬を与える能力主義を採用し、過去の抑圧的な社会階層を消し去ったと宣伝されました。フォルクスゲマインシャフトの一員になるための新たな人種的・社会的な基準に一致し、応分の負担を果たした人びとは、この特権的な民族共同体の貴重な一員として満足のいく自己像を得ることができました。疑い深い人びとでさえ、独立独歩の新生ドイツで、政権が共同体と責任分担について主張した魅力的な公約に心惹かれました。公約には、完全雇用の実現と生活・福祉の水準向上、社会的な規律と家族の安定、男女間の秩序ある関係の確立、富と地位という不平等ではなく能力と努力の競争による人生の可能性の獲得などが謳われていました。

歴史家は、こうした主張を人びとが生きた現実にほとんど即していないプロパガンダ的な煙幕として扱いがちでした。この見方では、階級のない新たな社会というナチ党の主張は、ドイツの労働者が新しい国民共同体に統一されておらず、労働者の政治団体および職場での自由を暴力で破壊することで彼らを脅して従わせていた事実を無視していました。フォルクスゲマインシャフトについて止めどなく発信しつづけたのは、階級区分の根深さを見えにくくし、新たな社会階層と経済格差が生み出されたことを否定するためでした。また、戦争による世界制覇というヒトラーの野望の隠れ蓑ともなったのです。その実現には頼りになる確かな銃後の守りが必要不可欠でした。強制的同質化―ドイツの機関や団体をナチ化された団結した統一体に組み込んで連携させることという詐欺的な策略の陰で、現実には、人びとは小集団に細分化され、停滞した不平等にはまり込んで抜け出せない状態にありました。富と財産は再分配されませんでした。実質の時間給はほんのわずかしか上がらず、住宅建設は再軍備のため断念されました。権力が新たな党エリート層に移譲されると同時に、大衆迎合的な主張とはうらはらに、旧体制の資本家階級と貴族階級は地位と権威の多くをもちつづけていました(そして自分たちの信念も保っており、上流階級のドイツ人ナショナリストは、自分たちが政権の座に就くのを後押しした粗野な指導者たちを見下して軽蔑を強めていた)。その一方で、この解釈によると、無力な大勢の国民は空約束で買収され、「治安」をテロ行為の別名とする警察国家で服従に追い込まれ、戦争が避けられない運命だった、ということになります。

この見方は政権自体の主張よりも現実に即したものでしょうか?一九三三年時点でのナチ政権の第一の目的は、左派を壊滅させ、力のある政治的反対勢力を抑え込むことだったのは明らかです。それと同様に、社会の主要な不平等はそっくりそのまま残しておいて、新たな不平等をつくり出しながら、国民の同意があったというイメージをでっちあげて押しつけようとしたこともまた明白でしょう。とはいえ、イデオロギーはプロパガンダがすべてだと単純化できるものではありません。「ナチ」を、「ドイツ人」という受け身の大衆に向けた指示と政策の立案者とし、ドイツ人には従うか抵抗するかのどちらかしか道はなかったと断定するのでは、単純化しすぎているのです。これは、それまで集団として共有していたアイデンティティと表現方法が突然否定されてしまった社会において、社会生活および私生活の実感と実体験が充分に考慮された見方とは言えません。かつて階級と抵抗の限界に集中していたナチ・ドイツの歴史研究が人種政治をより考慮するようになるにつれて、私たちの見方の角度も変わってきました。社会的カテゴリーと政治的忠誠によってではなく、新たな生政治的な区分によって定義された社会における、アイデンティティと帰属の問題に注目が高まりました。ナチ・ドイツの日常生活史をじっくり見てみると、国民社会主義を徐々に植えつけた入り組んだルートが浮き彫りになります。多様な政治的背景をもつ、あらゆる階級のドイツ人の生活とアイデンティティに、政党、イデオロギー、言語、政策として、国民社会主義を浸透させていったのです。国民社会主義のもとで失ってしまった自由と引き換えに、何百万もの人びとが選択的にイデオロギーを無視し、自分が手に入れのを数えるほうを選ぶことができました。拡大する経済で生まれた勤め口、民族的な権利を与えられた安心感、ヴェルサイユの「恥辱」を経験したのちのドイツの軍事力と国際的地位にいだいた愛国的誇りが得られたのです。それからほどなくして、同じドイツ人でありながら、自分たちに選択権がないと気づいた人びとが数十万いましたが、大多数はそうした人びとが払う代償は胸におさめてしまってかまわないと考えました。

境界線を引く

帰属意識で結ばれたこの共同体が第一の礎としたのは、一員として受け入れる価値がないと判断された全員を強制的に排除することでした。ナチ政権は前代未聞の抜本的な措置を講じる用意ができていました。ドイツ社会のモザイクのような多様性を力ずくで叩きつぶし、人口増加、人種闘争、領土拡大に向けた手段につくり変えるためです。能力不足や不要と見なされた人びとは、フォルクスゲマインシャフトから切り離され、物理的にも言葉のうえでも壁の向こうに閉じ込められることになりました。そして承認と共感というごく普通の感情はその壁を越えることができなくなったのです。

このように、フォルクスゲマインシャフトの根本原則は、帰属するにふさわしい者とそうでない者のあいだに境界線を引き、取り締まることでした。「個人」や「市民」といったリベラルな概念は、Volksgenosse(民族同胞)という生物学的な分類に取って代わられました。これも一九三三年以降に公的な場で盛んに語られるようになった多くの言葉のひとつで、イデオロギーがたっぷり詰まっており、英語にはまったく同じ意味の言葉がありません。たとえば「ethniccomrade」など、不自然な直訳にしかならないのです。その中心となる意味は政治的権利や公民権ではなく、生物学的適応度という意味での「血」でした。ここで言う血とは、有機的共同体の生命と成長のための民族同胞の人種的・優生学的価値のことでした。民族同胞の範疇からはずれた人びとはすべて「その他の人びと」と位置づけられ、フォルクスゲマインシャフトは彼らから守られなければならない、彼らを追放しなければならないとされました。こうした人びとはartfremd(「[人種的な]異種」)やgemeinschaftsfremd(「共同体にとって異質」、つまり「反社会的」共同体異分子)、erbkrank(遺伝病)と指定されました。国は生物学的に健康な(かつ政治的に好ましい)ドイツ人が繁栄し、子孫をつくるのを奨励する一方で、文字どおりに言えば、こうした政治的身体〟である国民に害を及ぼしかねない欠陥があるとみなしたすべての人びとを排除していったのです。ナチが「人種衛生学」と呼ぶのを好んだ優生学の教義と実践は決してナチ・ドイツに限られたものではありませんでした。優生学は二〇世紀初めのヨーロッパとアメリカ合衆国では科学と社会政策に当たり前のように採り入れられており、ドイツでは一九三三年以前にすでにいくらか進歩していました。しかし批判的な発言が禁じられたナチ・ドイツでは、歯止めが効かない状態になり、強制的な計画を進めるための新たな急進的合意と推進力が形成されていきました。医学的な野心が正式に承認された人種イデオロギーと次第に一致し、不適応の問題を生政治上の集団的自己防衛という緊急課題として扱うようになりました。一九三四年にナチ党のある幹部がずばり言ったように、国民社会主義は「応用生物学」にすぎなかったのです。

「反社会的分子」と犯罪者

「反社会的分子」とは社会の基準から逸脱したり、反抗的だったりする個人や集団をひとまとめにした分類で、人種的には「アーリア人」でも、ハイドリヒが一九三八年に言ったように「犯罪に限らず、共同体にとって有害な行動をとおして共同体に順応するつもりのないことを明らかにする人びと」を指しました。危険なほど弾力性のある定義です。政敵の大量拘束がボリシェヴィズムの脅威から共同体を守るためだと公然と正当化されたのと同じように、嫌われ者で取るに足らない逸脱者集団の拘禁は、「犯罪との戦い」であるだけでなく、社会を蝕む危険から国民を守るための緊急措置とされました。

一九三六年、バイエルン政治警察が標的として列挙したのは、そのほとんとがすでに長いあいだ公的な嫌がらせを受けてきた人びとの寄せ集めでした。「物乞い、放浪者、ジプシー、路上生活者、労働忌避者、なまけ者、売春婦、不平家、常習的な大酒飲み、ごろつき、交通違反者、いわゆるサイコパスや精神病患者」だったのです。彼らは一斉に逮捕されて刑務所や労役場、強制収容所に入れられ、何万人もの危険とされた「常習的」あるいは「遺伝的」な犯罪者も、予防拘禁の新たな権限によって同じ運命にさらされました。まず、シンティとロマ(ジプシー))が路上生活者や労働忌避者として迫害されましたが、一九三八年にヒムラーが出した命令では、彼らが厄介者であるばかりではなく、異人種でもあると恐ろしげに説明されました。強制収容所はこうした人びとでいっぱいになり、一九三九年には二万一〇〇〇人の収容者のうち、政治犯は三分の一以下に減っていました。過酷な労働と厳しい規律によって「再教育」された収容者が共同体に復帰するというかすかな可能性も残されたものの、ほとんどの収容者にとってそれは幻想にすぎませんでした。

性、ジェンダー、生殖

「反社会的分子」と犯罪者も、ドイツの人口とその質を高めるための別の優先度の高い計画の標的にされていました。一九三三年七月、「遺伝病」があると認定されたすべての人を強制的に断種する法律が制定されました。知的障碍からアルコール依存症、先天性の聾や盲目まで、広い範囲におよぶ身体・精神にかかわる障碍が遺伝病とされました。実施の際の基準はさらに弾力的に運用され、「反社会的分子」とされた人びとや数は少ないもののアフリカ系ドイツ人にも適用されました。アフリカ系ドイツ人のほとんどは、第一次世界大戦後のラインラントに駐留していた、フランスのアフリカ人部隊〔フランス植民地のアフリカから派遣されていた〕の兵士とドイツ人女性のあいだに生まれた人びとでした。

一九三九年までにおよそ三二万人のドイツ人女性と男性が断種されており、男性対象の処置が「ヒトラー切開」という皮肉な異名をとるほど、断種政策は人びとの意識に急速に浸透しました。

“不適格者”に子孫を残させないことは、第一次世界大戦以来低下していたドイツ人の出生率を回復させるための政策に緊密に結びつけられていました。出生率の低下はナチ党の目には人種的な自殺行為という悪夢に見えたのです。遺伝的に「健康な」男性と女性の断種は禁じられる一方、ドイツですでに違法だった妊娠中絶は取り締まりと刑罰がさらに強化され、避妊手段は利用しにくいものになりました。結婚は、一九三三年六月に始まった結婚奨励貸付金制度を皮切りに、国が課した人種・思想の基準によってますます規制されるようになりました。結婚の資格は人種によって制限されるとともに、結婚した女性は有給の仕事からの退職を義務づけられ、子をひとり出産するごとに貸付金の返済額が減免されました。一九三五年に制定されたいわゆるニュルンベルク法のもと、「ユダヤ人」と「ドイツ人ないし〝同種”(artverwandtes)の血をもつ国籍所有者」との結婚および性交渉が禁止されました。同年、生物学的に「望ましくない」と見なされた結婚も禁止されています。このように生殖活動に対して新たに規制が課せられたのは、一九二〇年代のフェミニズムの躍進を帳消しにする意図もありました。性差による役割分担という慣例的な思想に女性を従わせ、母親になることを共同体に対する義務として強制しようとしたのです。

ヒムラーが陣頭指揮を執った男性同性愛者への激しい迫害は、彼らが共同体に対する子づくりの義務を拒否しているという通俗的な思い込みも理由のひとつになっていました。女性は受け身の性とされていたため、女性同性愛者は守られました。子をつくれる可能性が完全に失われたわけではなかったからです。しかし彼女たちも、男性性と女性性しか存在しないとする、ヒムラーの厳格な道徳観による攻撃にさらされやすくなっていました。ドイツでは男性同士の性交渉が以前から長らく犯罪とされており、一九三五年になると、男性同士の性的親密さという定義が曖昧な状態も犯罪に含まれるよう刑法が拡大されました。大勢の男性同性愛者が裁判にかけられ投獄されましたが、一九三三年から四五年にかけては、約一万五〇〇〇人が強制収容所に送られ、親衛隊の看守からも同じ立場であるはずの囚人からも迫害を受けました。さらには人体実験の犠牲者となりました。

国家が新たに発令した人種衛生上の命令は、個人の選択や倫理観をまったく考慮せず、とりわけ女性を対象に、個人の性交歴や病歴、家系についてひどく立ち入った調査を認めました。人びとの価値観や職業上の規範、言語がゆるやかに変化していくにつれて、抵抗と疑念は徐々に弱まり、新しい現実に批判が及ばないようになっていきます。そして一九三九年以降にいっそう重大な医学的な倫理違反が起こる素地がつくられてしまうのです(第9章参照)。「われわれ対あいつら」という二項対立的な区別を強いることで、政権の政策は、汚名を着せた集団を通常の社会的交流から遠ざけ、抑圧や迫害に対して無防備な状態へと追い込みました。その一方で、彼らの反対側にいる人びとは優越感に浸ることができ、それによってさらにインサイダーとアウトサイダーの距離は広がっていったのです。おそらく、この感情がフォルクスゲマインシャフトを支える最も揺るぎない柱となったのでしょう。しかし、「アーリア人」のドイツ人が受ける資格のある保健福祉計画はコインの片面にすぎませんでした。その提供は、すべての個人をフォルクの単なる生物学的単位として扱う人種的・優生学的差別の原則にまさに左右されていたのでユダヤ人

ナチ党のフォルクスゲマインシャフト構想の犠牲となった人びとのうち、最も執拗な迫害を受けたのがドイツのユダヤ系市民でした。一九三三年、ユダヤ人と認定されたドイツ人の数は五〇万三〇〇〇人ほどで、人口の〇七六パーセントに相当しました。そのうち三分の二以上がフランクフルトやベルリンといった大都市に住んでいたため、都会的なブルジョアという典型的なユダヤ人像が生み出されました。教育を受けたユダヤ人が知的専門職や金融と商業、芸術と文学で頭角を現わす一方で、それほど社会的地位の高くない人びとは熟練工や商店主、工場労働者として生計を立てました。一九二〇年代にはユダヤ人が正式に解放され、社会への統合が進められてから一世紀以上が経っており、異教徒であるキリスト教徒との結婚の比率も高くなっていたため、高度に同化が進んだ共同体ができあがっていました。たとえば、一九三三年のヴァイマル市では九〇人のユダヤ人住民のうち三分の一がキリスト教徒と結婚していました。慣例的に「ユダヤ人社会」とひと括りにして言うものの、ユダヤ系ドイツ人は階級と宗教観によって分かれていました。多くの古くからの家系は自由主義的あるいは世俗的な考え方をしており、「東方ユダヤ人」(オストユーデン)と呼ばれる少数派を見下しがちでした。東方ユダヤ人とは、わりと新しく東ヨーロッパから移住してきたユヤ人のことで、国籍をもたず、貧しく、ユダヤ教の戒律をきわめて厳格に守る傾向がありました。

あらゆる種類のユダヤ系ドイツ人が新たに過激な反ユダヤ主義にさらされることは、一九三三年には既定路線となっていました。はっきりしていなかったのは、それがどのようなかたちと方向性になるかだけだったのです。政権はまず、ほかのヨーロッパの国ぐにと同様にドイツにも広がっていた反ユダヤ主義に基づく偏見、とくに公職においてユダヤ人がもっていたとされる「不釣り合いなほどの影響力」に対する人びとの憤りを利用することができました。この有力とされた異人種集団の存在が、ナチ党がドイツのために完全に「解決」すると決定した「ユダヤ人問題」となったのです。その実現までに政権が意図したのは、平等と同化の道筋を閉じて国外移住を奨励し、普通の生活を営み、追い求めることからユダヤ人を除外することだけではありませんでした。「ユダヤ人」と「ドイツ人」のあいだに決してとおり抜けられない壁を打ち立てることも目指したのです。これは人種隔離国家をつくるという意味ではありません。存在するとされたユダヤ人的なちがいは、その構造からして、空間を隔ててふたつの共同体を無理に共存させるのには適しておらず、ユダヤ人の「いない」ドイツにするのがふさわしいとされたのです。とはいえ、その実現方法は、断固たる戦略によって生み出されたというより、ナチ・ドイツにおける権力行使の特徴となっていた競争力学と敵対意識によってもたらされたものでした。

それにしても、「ユダヤ人」とは実際には誰だったのでしょう?このきわめて重要な問いは、通俗的な偏見の問題だけにしておくわけにはいかず、ある種の適用可能な定義が必要になりました。レイシズムの例にもれず、ナチ党の反ユダヤ主義はイデオロギー、疑似科学、頑迷さの寄せ集めだったため、絶対的な正確さや科学的な確証はありませんでした。しかし決定的だったのは、ナチが不当に定義づけをおこない、ユダヤ人が自らのアイデンティティを主張する権利を奪ったことでした。一九三三年以降、「血」を基準にユダヤ人が決定されるようになりました。つまり、キリスト教へ改宗しても人種的にユダヤ人と見なされるのを防ぐことはできず、疑いの余地が残るケースの確定には乱暴な生理的基準が適用されました。ユダヤ人の意見はもはや考慮されなくなりました。一九三三年の初めての人種による公職追放では、「非アーリア人」の子孫かどうかは、両親と祖父母の宗教が根拠となりました。この「アーリア条項」はその後、広範囲に適用され、反ユダヤ主義に基づく差別と迫害が染みのようにドイツ社会に広がっていったのです。

自分の名前から結婚相手、教育を受けられる場所から職業選択、住む場所から余暇の過ごし方まで、なにからなにまで同じ原則で決められるようになりました。また、同じ原則によって、非ユダヤ系のすべてのドイツ人は祖先がユダヤ人の「血」で穢されていないと証明することが求められ、家系調査(Sippenforschung)という新たな巨大産業が生み出されました。

一九三五年九月の毎年恒例のナチ党党大会で開かれた特別国会でニュルンベルク法が採択され、さらに複雑で広範囲な規制が生まれました。「ドイツ人の血と名誉を守る」法はユダヤ人と「ドイツ人ないし同種の血をもつ国籍「所有者」――非ユダヤ人に対して好まれた正式呼称との結婚と性交渉を禁じました。ユダヤ人への完全な市民権を制限する新しい法律とともに、こうした規制が法的にユダヤ人の地位を二級市民へと貶めました。法律の付則では、以前より厳格ではない「完全ユダヤ人」(Volljude)の定義が決められたばかりではなく、複雑な下位区分もつくられ、何万という部分的ユダヤ人、つまり「混血」(Mischlinge)をつくり出し、その混血という地位は引こうとしていた境界線を曖昧にしただけでした。「血」の科学のでたらめぶりが露見すると、分類は結局、正式な宗教的帰属に基づきおこなわれました。

一九三三年以降、ドイツ系ユダヤ人が経験したことは、民衆レベルのテロ行為と国家が認めた迫害が絡み合う予測不可能な力学によって決まりました。同胞のドイツ人が距離を取るにつれ、ユダヤ人の社会的孤立が深まったことも状況を悪化させました。ナチ活動家による剥き出しの暴力が一部の人びとの失望をさそったものの、ユダヤ人の法律違反者に首からプラカードをかけさせて引きまわしたり、明らかにユダヤ人経営とわかる商店をボイコットしたりするなど、儀式化された侮辱と辱めは、非ユダヤ人共同体の連帯を確認する大衆デモをおこなう機会になることもありました〈図版4〉。反ユダヤ主義を煽るプロパガンダは生活のすみずみまで溶け込み、「ドイツ人」と「ユ「ダヤ人」がお互いについて考えたり、人種の境界線を越えてコミュニケーションを取ったりすることができる言葉そのものをつくり変えました。案内板やお知らせで「ここはユダヤ人お断り」や「この町にユダヤ人はいない」とそっけなく告知されました。「ドイツ系ユダヤ人全国代表部」は「在ドイツ・ユダヤ人全国代表部」へと名称変更を余儀なくされ、報道機関も同様に「ドイツ系ユダヤ人」の存在をにおわせる言葉を避けるよう命じられました。

ユダヤ人は国勢調査や住民登録といった書類上で分離され、一九三八年一月からはユダヤ人とわかる身分証明書の所持が義務づけられ、ユダヤ人のパスポートには「J❲ユダヤ人を意味すJudeの頭文字❳」の文字が大きく押印されたのです。

こうした戦略の目的は、ドイツ系ユダヤ人を「ユダヤ人」としてだけ見えるようにし、ドイツ人が彼らを個人としてではなくユダヤ人として、文字どおり異人種として認識するよう促すことでした。ユダヤ人自身にとっては、ドイツ人としての主観的かつ疑問の余地のないアイデンティティをこのように破壊されるのはひどく侮辱的でつらいことでした。「政治でなにが起きようと、私は心のなかで決定的に変わった」と一九三八年一〇月、ドイツに同化したユダヤ人学者で勲章も授与された退役軍人のヴィクトーア・クレンペラーは書き記しています。「何人も私のドイツ人らしさを奪うことはできないが、私のナショナリズムと愛国心は永遠に失われてしまった」

一九三〇年代末になる頃にはすでに、ユダヤ系ドイツ人は学校や大学から追放されており、ユダヤ人が手がけた文化的作品は舞台やコンサートの演目や曲目、図書館、アートギャラリーから一掃されていました。「ユダヤ人」の歴史や人種的特徴についての、反ユダヤ主義の立場からの研究は学術的な地位を得ました。ユダヤ人は勤め先や専門的職業から締め出され、公職から追放されました。ユダヤ人の店や会社はボイコットされ、倒産に追い込まれました。財務当局はユダヤ人の財産を没収する強制的な「アーリア化」に加担し、ユダヤ人納税者から徹底的に搾り取り、そうして得た利益を再軍備活動へ回しました。ユダヤ系ドイツ人はかつての友人と同僚から避けられ、裏切られ、自由と自尊心に対して予想外の攻撃にさらされました。クラブなどの各種の団体から追い出され、映画館、公園水泳プールやそのほかの施設への立ち入りを禁じられました。ほとんどのユダヤ人はさらに密に団結することで、こうした戸惑うばかりの仕打ちに対処しました。地理的には、小さな共同体を捨てて大都市に匿名性の高い環境を求め、社会的には、家族やシナゴーグ、新たに結成された自助組織のなかに安全を求めたのです。

ユダヤ人に対する国外移住への圧力は、ハイドリヒ率いる親衛隊保安部が陣頭指揮を執った政策であり、激しいものでした。ただし同時に、着々と進められていたユダヤ人の貧困化が計画の妨げになっていました。祖国を捨て、家族の絆を断ち切り、財産を国に明け渡し、どこかの知らない国で、おそらくは歓迎してもらえない国で人生をやり直すべきかどうか。ユダヤ系ドイツ人は身を切るような決断を迫られました。出国すると決めた場合でも、どこの国境も閉鎖されており、なかなか出国はできませんでした。一九三七年末までにユダヤ人人口のおよそ四分の一しか出国できす、政策立案者とナチ活動家は一様にいらだちを募らせます。ヒトラーは、一九三七年のニュルンベルク党大会で激しい反ユダヤ演説をおこない、この状況に怒りを爆発させました。これをきっかけに地元の活動家による新たな反ユダヤ暴動が起き、経済活動の隙間市場に残っていたユダヤ人を追い出すためのさらなる差別的な措置が実施されました。政権が戦争の準備を着実に進めるなか、ユダヤ人の

だいこれつ「第五列」をドイツ人社会から強制退去させることは喫緊の優先事項となります。併合されたオーストリアでは一九三八年三月以降、すさまじい暴力と急激に激しさを増した迫害が発生し、ドイツの大都市では反ユダヤ暴動が起きたため、国を脱出するユダヤ人の数は回復しましたが、それでもまだ政権にとっては少なすぎたのです。この行き詰まりによって、反ユダヤ政策は引き返せない地点から前のめりになっていきました。

一九三八年一一月七日、パリのドイツ大使館職員がユダヤ人少年ヘルシェル・グリュンシュパンによって狙撃されました。少年の両親は一〇月末にポーランドへ帰るよう国外退去命令がくだされた大勢のなかのふたりでした。折しも併合されたオーストリアでの急速な進展とは対照的にドイツ国内で遅々として進まない反ユダヤ対策に対して、草の根レベルのナチの不満が高まっていました。ゲッペルスはこの暗殺事件をその不満を利用する好機と捉えました。ヒトラーの承認を得たゲッベルスとナチ党幹部は、一一月九日夜から翌一〇日にかけてドイツ各地でポグロムを周到な準備のうえで展開する一方で、これをユダヤ人の犯罪に対する民衆の復讐心から自然に発生した行為だと公然と発表したのです。

凄惨な暴力がドイツのユダヤ人を呑み込みました。特別に招集された党員たちに扇動され、平服姿の突撃隊と親衛隊の隊員たちがそれを実行しました。

群衆は見守っていましたが、なかには暴力行為に加わる者もいました。警察はただ見ているだけでした。この「水晶の夜(クリスタルナハト)」はそれ以前のなにをも凌駕していました。暴力が恐ろしいほどエスカレートするなか、ドイツにあった一〇〇〇ヵ所ものシナゴーグが冒潰され、破壊され、何千というユダヤ人経営の商店や会社が滅茶苦茶に壊され、略奪され、住居は侵入され、家財が盗まれ、男性も女性も容赦なく攻撃されました。ヴァイマルでは、最後のユダヤ人経営の商店だった小さな文房具店が突撃隊と親衛隊に荒らされ、店主の高齢女性は乱暴な扱いを受けました。ドイツ全国で少なくとも九一人が殺害され、自ら死を選んだ人は何人いたのかわかっていません。ヴァイマルからの一二人を含む、およそ二万六〇〇〇人のユダヤ人男性が過密状態の強制収容所に入れられ、そこで間もなく数百人が亡くなりました。ブーヘンヴァルトのある収容者は彼らの到着をこう描写しています。「何十もの、車両いっぱいの、数百、数千ものユダヤ人。人生のあらゆる段階の人びと――けが人、病人、身体に障碍のある人、手足を骨折した人、眼を失った人、頭蓋骨を骨折した人、死にかけている人、死人」。生き残っても、有効な国外移住の書類を手に入れていたことを証明できた場合にしか釈放されませんでした。

暴力行為に参加しなかった人びとの反応は静かなものでした。多くの非ユダヤ系ドイツ人が暴力の規模と財産の理不尽な破壊に受け、恥じてさえいたのですが、介入しようという人はほとんどいなかったのです。恐怖だけではなく、反ユダヤ感情の広がりとユダヤ人孤立化の成功を物語る反応と言えるでしょう。ナチ幹部のあいだでは、ゲッベルスの民衆を扇動する手法が完全に建設的とは見られていなかったものの、それによって政権内に反ユダヤ主義の活力が解き放たれると、迫害、財産没収、国外移住の各政策間の関係を体系化しようとする多くの過酷な措置が導入されました。今度は、混乱と破壊を厳しく批判していたゲーリングが政権内の反ユダヤ政策の調整をヒトラーから任されます。それでも根本的な矛盾が残りました。ゲーリングが責任者を務める経済計画「四ヵ年計画」のためにユダヤ人財産の没収を優先事項とすることは政権の統制が及ぶ範囲にありましたが、大量国外移住というハイドリヒの目標は、人数が著しく増加していたにもかかわらず、どうにもならなかったのです。ヒトラーやそのほかのナチ党の代表者たちは、いらだちまぎれであれ、外国政府を脅迫するつもりであれ、ドイツ国内にとどまるユダヤ人に対するいっそう露骨な脅しを口にするようになりました。それと同時に、プロパガンダでは、ドイツの破壊をもくろむ世界じゅうのユダヤ人から自国を守るのに不可欠な共同体として、フォルクスゲマインシャフトがますます盛んに喧伝されるようになったのです。

 金曜日 以来の図書館 また15冊借りてしまった本が重たくて うろうろ できない 新作のコーヒーフラペチーノ
 やっとうな丼にありつけた エプロンで中国産うなぎ 1匹 800円 そのままレンジで温めて添付のたれをつけて うな丼 ラーメンどんぶりに山盛り いっぱい 自分で料理することのメリットは味には文句をつけれない 自分で作って自分で食べるんだから これが本来、基本です
 vFlatで街の情報探索 単なる写真とは異なり 情報を損害 得られる デジタル化もできる

 歴史ほど面倒なものはない 詳細から概要に戻す 側面があまりにも多い 詳細に意味があるのかというところから始まっていく

 豊田市図書館の14冊
209『世界の歴史⑦』宋と中央ユーラシア
209『世界の歴史⑨』大モンゴルの時代
209『世界の歴史⑪』ビザンツとスラヴ
209『世界の歴史⑭』ムガル帝国から英領インドへ
209『世界の歴史⑯』ルネサンスと地中海
209『世界の歴史⑰』ヨーロッパ近世の開花
209『世界の歴史⑱』ラテンアメリカ文明の興亡
007.3『メタ産業革命』メタバース×デジタルツインでビジネスが変わる
516.71『新幹線全史』「政治」と「地形」で解き明かす
329.67『ニュルンベルク裁判1945-46』
236.9『リスボン大地震』世界を変えた巨大災害
302.34『ドイツの現状』
134.2『判断力批判(上)』
134.2『判断力批判(下)』
奥さんへの買い物依頼
お好み焼き   178
うすピーナ    128
カップラーメン 128
ソース焼きそば          168
リンゴ6個    598
スイートコーン            199
うなぎ          800

新『もういちど読む 山川世界史』

2023年10月02日 | 4.歴史
新『もういちど読む 山川世界史』

イスラーム世界

普遍性と多様性

7世紀のアラビア半島に成立したイスラーム世界は,その後,時をへるにしたがって拡大し,今日では東南アジアから西アフリカにいたる広大な地域がこの世界にふくまれる。イスラーム世界は、初期をのぞいて政治的に統一されることはなく,10世紀頃からは,シリア・エジプト,イベリア半島・北アフリカ,イラン,トルコ,インドなどの地域がそれぞれ独自の歴史的発展をとげてきた。しかし,一方ではイスラームという共通の信仰と法をうけいれることにより,一つの世界としてのまとまりをも維持してきた。この世界では,交易巡礼・遊学などをつうじて人や物の移動,学術・情報の交流がさかんにおこなわれた。社会は開放的で柔軟性にとみ,さまざまな出自の人びとが民族の枠にとらわれることなく活躍した。ギリシア・ローマ・イラン・インドなどの古代文明の栄えた地に成立したイスラーム世界は,これら古代文明の伝統を継承して融合し、独自のイスラーム文化を発展させたのである。

1イスラーム世界の成立

預言者ムハンマド

7世紀の初め、唯一神アッラーの啓示をうけたと信じ、神の使徒であることを自覚したムハンマド(570頃~632)は、アラビアのメッカで,偶像崇拝をきびしく禁ずる一神教をとなえた。これがイスラーム教のはじまりである。その聖典『クルアーン(コーラン)』は、ムハンマドにくだされた啓示を,彼の死後あつめ、編集したものである。

イスラーム教の特質

イスラーム教はユダヤ教・キリスト教の流れを汲む一神教であり,『クルアーン(コ―ラン)』の内容も『旧約聖書』『新約聖書』の物語に近い。モーセやイエスも預言者として登場し、両聖書も『クルアーン』と同様に聖典とされる。ただし、最後の預言者ムハンマドを最良の預言者とし、最後にくだされた啓示『クルアーン』を最良の啓示とする。

教義は,正しい信仰をもつだけでなく,その信仰が行為によって具体的に表現されなければならないとするもので,「六信五ぎょう行」といわれる。「六信」とは(1)アッラー,(2)神の啓示を運ぶ天使(3)神の啓示を書き留めた啓典,(4)それを人びとに伝える預言者(5)最後の審判後にやってくる来世,(6)神の予定の実在を信じることで,「五行」とは(1)信仰告白(2)礼拝(1日5回メッカにむかっておこなう),(3)喜捨(富者が貧者にほどこしを与える)(4)断食(ラマダ―ンとよばれるイスラーム暦の月に、1カ月間,夜明けから日没までのすべての飲食と性行為を断つ),(5)巡礼(義務ではなく余裕のあるものがおこなえばよい)を実行することである。六信の成立は10世紀後半,五行の成立は8世紀初頭とされる。

以上は神と人間の関係における規定であるが、信者同士の人間関係の規範も定められている。そこでは,売買,契約,利子,婚姻,離婚,相続にはじまり,賭け事の禁止、禁酒や豚肉を食べないなどの飲食物の禁忌,殺人をしない,秤をごまかさない,汚れから身を清める,女性は夫以外の男性に顔や肌をみせないようにするなどの倫理的徳目や礼儀作法などが問題とされる。たとえば「禁酒」の場合,イスラーム発生期のメッカの住民がことあるごとに酒を飲むようになり、その弊害が目につくようになったことからムハンマドは禁酒の啓示を何回かうけたあと,ついに全面禁酒の啓示(『クルアーン』の5章90~91節)をうけることになった。

多神教を信じるメッカの人びとの迫害をうけたムハンマドは,622年,メディナに移住(ヒジュラ〈聖遷〉)し,この地に彼自身を最高指導者とする信徒の共同体(ウンマ)をつくった。この622年はイスラ―ム暦の元年とされている。その後ウンマの拡大に成功したムハンマドは,彼にしたがう信徒をひきいてメッカを征服し,多神教の神殿カーバから偶像をとりのぞいて,これをイスラーム教の聖殿とした。こうしてムハンマドが死ぬまでには,アラビア半島のほぼ全域がその共同体の支配下にはいった。

アラブ帝国

ムハンマドの死後,イスラーム教徒(ムスリム)は全員で新しい指導者を選んだ。この指導者のことをカリフ(後継者代理の意)とよぶ。最初の4人のカリフは選挙で選ばれ,正統カリフとよばれる。カリフの指導のもとでアラブ人ムスリムは征服活動(ジハード〈聖戦〉)を開始し,7世紀のなかばまでにササン朝をほろぼし,シリア・エジプトをビザンツ帝国からうばった。多くのアラブ人が新しい征服地に移住した。征服地が広がると,カリフ位をめぐって争いがおこった。その結果,第4代カリフのアリー〈位656~661>が暗殺され,彼と対立していたウマイヤ家のムア―ウィヤ〈位661~680>がカリフとなって,ダマスクスを首都とするウマイヤ朝(661~750年)をたてた。ムアーウィヤは息子を後継カリフに指名し,以後カリフ位は世襲されるようになった。

ウマイヤ朝は8世紀の初め、東方では中央アジアの西半分とインダス川下流域,西方では北アフリカを征服し,やがてイベリア半島に進出して西ゴート王国をほろぼした(711年)。さらにフランク王国にまで進出したが,トゥール・ポワティエ間の戦いに敗れ,ピレネー山脈の南側に領土はかぎられた。この広大な領土をもつ帝国では,征服者アラブ人のムスリムが特権的な地位にあり、膨大な数の被征服民を支配していた。国家財政をささえる地租(ハラージュ)と人頭税(ジズヤ)は征服地の先住民だけに課され、彼らがイスラーム教に改宗しても免除されなかった。その意味で,正統カリフとウマイヤ朝カリフが統治した国家はアラブ帝国ともよばれる。

イスラーム帝国

シーア派の人びとやイスラーム教に改宗してもなお不平等なあつかいをうけていた被征服民など,ウマイヤ朝の支配に反対する人びとは,8世紀初め頃から反ウマイヤ朝運動を組織した。ムハンマドの叔父の子孫アッバース家はこの運動をうまく利用してウマイヤ朝をほろぼし,イラクを根拠地としてあらたにアッバース朝(750~1258年)をたてた。まもなく建設された新首都バグダードは国際商業網の中心として発展し,王朝はハールーン・アッラシード〈位786~809〉の時代に最盛期をむかえた。

9世紀頃までに,宰相を頂点とする官僚制度が発達し、行政の中央集権化が進んだ。イラン人を主とする新改宗者が政府の要職につくようになり,アラブ人ムスリムだけが支配者とはいえなくなった。イスラーム教徒であればアラブ人以外でも人頭税は課されず,征服地に土地を所有すればアラブ人にも地租が課されるようになった。イスラームの信仰のもとでの信徒の平等という考えが徐々に浸透していった。また,イスラ―ム法(シャリーア)の体系化も進み,この法を施行して,ウンマを統治することがカリフのもっとも重要な職務となった。アラブ人だけではなく,イスラーム教徒全体の指導者となったカリフが統治するこの時期のアッバース朝国家は,イスラーム帝国ともよばれる。

スンナ派(スンニー)とシーア派

イスラーム教には、大別すると、スンナ派とシーア派という二つの宗派がある。今日,全イスラーム教徒のうちの9割はスンナ派に属する。この両派の対立は、元来,アラブ帝国のカリフの位をめぐる政治的なものだったが,その後,教義の解釈をめぐって宗教的にも意見の相違がみられるようになった。スンナ派は,ムハンマド死後の代々のカリフの政治的な指導権を認めるいっぽう、イスラーム教徒の行動の是非はイスラーム教徒全体の合意によって判断されるべきだと考える。その際,判断の基準として用いられるのが,『クルアーン(コーラン)』と伝承として残されているムハンマドの言行(スンナ)である。この伝承の範囲,解釈の仕方のちがいによって,スンナ派内部に四つの学派がある。

これに対してシーア派は,アリーおよびその子孫のうちの特別な人物だけが、『クルアーン』を真に解釈することができ,政治的にも宗教的にもイスラーム教徒の最高指導者であるとする。彼らには一般の人びとにはない神秘的な力がそなわっていると考えられ,カリフの権威やイスラーム教徒の合意は認めない。シーア派は,このように,アリーの血統を重視するため,最高指導者の地位が子孫のうちのどの人物に伝えられたと考えるかによって,多くの派閥にわかれた。

このうち、今日のイランを中心とした地域に広まっている十二イマーム派では,9世紀の後半に姿をかくした12代目の最高指導者が、正義を実現するために、いつかふたたびこの世にあらわれると信じられている。また、この指導者がかくれているあいだは,徳が高く,学識の豊かな法学者・宗教学者がその権限を代行するものとされている。1979年の革命後のイランで,ホメイニをはじめとする法学者・宗教学者が大きな権限をもっているのはこのためである。

2イスラーム世界の変容と拡大

2イスラーム世界の政治的分裂

アッバース朝の成立後まもなく、後ウマイヤ朝(756~1031年)がイベリア半島に自立した。一つの政治権力が支配するにはイスラーム世界は拡大しすぎていた。9世紀になるとアッバース朝の領内でも各地で地方王朝が自立するようになった。このうち,中央アジアに成立したサーマ―ン朝(875~999年)は,トルコ人奴隷貿易を管理し,経済的に繁栄した。また,この王朝のもとでペルシア語がアラビア語とならんで用いられるようになり,のちに発展するイラン・イスラーム文化の芽生えがみられた。チュニジアにうまれ、のちエジプト・シリアを征服して新都カイロを建設したシーア派のファーティマ朝(909~1171年)の支配者は,建国当初からカリフと称し,アッバース朝と正面から対立した。

このような政治的分裂にくわえ,9世紀頃からカリフの親衛隊として用いられるようになった,トルコ系の奴隷であるマムルークが,やがてカリフの位を左右するようになりアッバース朝カリフの威信は低下した。

国家と社会の変容

946年、シーア派のブワイフ朝(932~1062年)がバグダードを征服し,カリフから大アミール(軍事司令のなかの第一人者)に任じられて政治・軍事の実権をにぎった。アッバース朝カリフはこれ以後実際の統治権を失い、イスラーム教徒の象徴としての役割をはたすだけとなった。

ブワイフ朝の時代,軍隊への俸給支払いがむずかしくなると、俸給にみあう額を租税として徴収できる土地の徴税権を軍人にあたえる制度がうまれた。これをイクター制という。イクター制は,セルジューク朝(1038-1194年)にひきつがれ、やがて西アジア・イスラーム社会でひろく用いられるようになった。

元来ユーラシア草原の遊牧民であったトルコ人は,10世紀頃からしだいに南下し,11世紀には,その一派で,イスラーム教スンナ派に改宗したセルジューク朝が西アジアに進出した。1055年,ブワイフ朝を追ってバグダードにはいったトゥグリル・ベク〈位1038~63>に,カリフはスルタン(支配者)の称号をあたえた。セルジューク朝はビザンツ帝国領だった小アジアを征服し,以後,小アジアはしだいにイスラーム化・トルコ化していった。彼らは領内の主要都市にマドラサ(学院)を設けてスンナ派の法学・神学を奨励した。しかし,王族のあいだでの権力争いが激しく、統一は長続きしなかった。

11世紀以後の西アジア・イスラーム社会では,修行によって神との合一をめざす神秘主義思想が力をもつようになった。12世紀になると,神秘主義者(スーフィー)とその崇拝者たちを中心として各地に神秘主義教団が組織され,都市の手工業者や農民のあいだに熱心な信者をえた。教団は貿易路にそってアフリカやインド・東南アジアに進出し,これらの地域にイスラームの信仰を広めていった

東方イスラーム世界

13世紀初め,東方からモンゴル人が西アジアに進出してきた。フラグにひきいられたモンゴル軍は,1258年,バグダードをおとしいれて,アツバース朝をほろぼし,イル・ハン国(1258~1353年)をひらいた。イル・ハン国は,モンゴル人やトルコ人など軍事力をもつ遊牧民を支配者とし、これにイラン人の都市有力者が行政官僚として協力して成り立っていた。このような国家体制は,これ以後サファヴィー朝(15011736年)にいたるまで同じ地域に成立した諸国家にうけつがれていく。ただし,遊牧民支配者間での争いがたえず,総じて国家の寿命は短かった。イル・ハン国のモンゴル人支配者は,ガザン・ハン〈位1295~1304>のときまでにほぼイスラーム化し,イランイスラーム文化の成熟に寄与した。

1370年,チャガタイ・ハン朝の混乱に乗じてサマルカンドで位についたティムール〈位1370~1405〉は,その後西アジアにはいってイラン全域を征服し,オスマン帝国やマムルーク朝領,北インドやキプチャク草原にまで兵を進めた。ティムール朝(1370~1507年)の時代,成熟しつつあったイラン・イスラーム文化と中央アジアの伝統文化が結びつけられ,文学建築などの分野で特色あるティムール朝文化が花開いた。16世紀の初め、分裂していたティムール朝は北方の草原から南下したトルコ系のウズベク人によってほろぼされた。ウズベク人は,ブハラ,ヒヴァ,コーカンドなどの都市を中心に19世紀なかばまで続く国家をたてた。

16世紀初め,イラン高原にサファヴィー朝が成立した。この国家も、トルコ系遊牧民とイラン系都市有力者の協力のうえに成り立っていたが,シーア派を国教とし,住民の改宗を強要した点がそれまでのこの地域の国家とは異なっていた。イラン人の多くがシーア派をうけいれるのは,サファヴィー朝時代のことである。

1587年に即位したアッバース1世〈位15871629>は,多くの政治・軍事改革をおこなって王朝の最盛期をきずいた。この王の時代に首都となったイスファハーンは,絹・綿織物・香料などの国際交易の中心として「世界の半分」といわれるほど栄え,モスク(礼拝所)・マドラサ(学院)・キャラヴァンサライ(隊商宿)・橋・庭園などが数多くつくられた。

エジプト・シリアの諸王朝

11世紀の末,シリアの沿岸に十字軍(115ページ参照)が進出してきた。セルジューク朝の一侯国の武将サラーフアッディーン(サラディン〈位1169~93〉)は12世紀後半に自立してアイユーブ朝(1169~1250年)をひらき,エジプトのファーティマ朝を倒して,スンナ派を復興させた。彼は十字軍のイェルサレム王国を攻撃してイェルサレムの奪回に成功した。

1250年,アイユーブ朝のマムルーク(奴隷出身の軍人)軍団が権力をうばい、マムルーク朝(12501517年)が成立した。この国家では君主の位が世襲されることは少なく,有力なマムルークがあいついで君主となった。マムルーク朝は軍事制度と農村支配の体制をととのえ,モンゴル軍や十字軍勢力へのジハードを進めた。また,アッバース朝カリフの一族をカイロにむかえて保護するとともに,メッカ・メディナを領有して,イスラーム世界の中心であることを自認した。首都のカイロはバグダードにかわってイスラーム世界の政治・経済・文化の中心地として栄え,東西の香辛料貿易に活躍する商人もあらわれた。

イベリア半島とアフリカの諸王朝

イベリア半島の後ウマイヤ朝(756~1031年)は,10世紀のなかばに最盛期をむかえ,その文化は中世ヨーロッパ世界に大きな影響をあたえた。しかし、この王朝がおとろえた11世紀以後は,小王国が分立し,しだいにキリスト教徒の国土回復運動(レコンキスタ)が進展した。

これに対抗して,11世紀なかばベルベル人のあいだでおきた熱狂的な宗教運動を背景に,北西アフリカを拠点として誕生したムラービト朝(1056~1147年),そして同じベルベル系のムワッヒド朝(1130~1269年)がイベリア半島に進出することもあった。1492年,グラナダのナスル朝(1232~1492年)がほろびると,イスラーム教徒の政権は、イベリア半島から姿を消したが,アルハンブラ宮殿にみられるようなイスラーム文化の影響は,その後も長く残った。

ナイル川上流には,前8世紀に一時エジプト王朝をほろぼしたアフリカ人のクシュ王国(920年頃~後350年頃)があり,メロエに都をおいた時代には製鉄と商業で栄えた。しかしエチオピアのアクスム王国(紀元前後頃~12世紀)によってほろぼされた。

西アフリカでは,ガーナ王国(7世紀頃~13世紀なかば頃)が金を豊富に産したことから繁栄し,イスラーム商人との交易もおこなった。そのためイスラーム商人の居留地ができていたが,ムラービト朝の攻撃によってガーナ王国が衰退すると,住民のイスラーム化がいっそう進み,マリ王国(1240~1473年)やソンガイ王国(1464~1591年)などの黒人イスラーム教徒による国家が,北アフリカへ金・奴隷を輸出して発展した。とくにソンガイ王国の中心都市トンブクトゥは黄金の都,イスラームの学問都市として有名である。

東・東南アフリカの海岸には,ザンジバル・マリンディ・キルワなどの海港都市がインド洋貿易の拠点として存在した。9世紀頃からはイスラーム教徒の商人がこれらの町に住みつくようになり,アラビア・イラン・インドなどとの交易に従事した。

オスマン帝国

13世紀末,トルコ化・イスラーム化が進んでいた小アジアにおこったオスマン帝国は,バルカン半島のキリスト教世界に進出し,1453年にはコンスタンティノープル(以後イスタンブルの呼称が一般化した)を征服して,ビザンツ帝国(111ページ参照)をほろぼした。その後,マムルーク朝をほろぼしてシリアとエジプトをあわせ(1517年),メッカ・メディナをその保護下において,スンナ派イスラームスルタンを頂点とする中央集権的な行政機構がしだいに整備され,スレイマン1世〈位1520~66>のときにオスマン帝国は最盛期をむかえた。彼は南イラクと北アフリカに領土を広げるいっぽう,ハンガリーを征服し,1529年にはウィーンを包囲してヨーロッパ諸国に大きな脅威をあたえた。またプレヴェザの海戦(1538年)でスペイン・ヴェネツィアの連合軍を破って地中海の制海権をにぎった。これ以後,オスマン帝国はフランスと同盟しつつ,ヨーロッパの国際関係と密接なかかわりをもつようになった。

しかし,17世紀にはいると国内政治に乱れがみえはじめ、同世紀末の第2次ウィーン包囲に失敗して以後は,対外的にもヨーロッパ諸国に対してしだいに守勢にたつようになった。

オスマン帝国では、領土の拡大にともなって大幅に増大した領内のキリスト教徒やユダヤ教徒を,それぞれの信仰に応じて宗教別の共同体(ミッレト)に組織し,これに自治をあたえた。また,キリスト教徒の少年を徴発して宮廷で専門教育をおこない,高級官僚やイェニチェリ(新軍)とよばれるスルタンの常備軍に採用した。これらは,異民族・異教徒をもひろくうけいれて共存をはかり,活用してきた西アジア・イスラーム世界に伝統的な政策の特徴をよく示している。

多民族・多宗教国家オスマン帝国

オスマン帝国は、長いあいだ「オスマン・トルコ」とよばれてきた。オスマン帝国はトルコ人の国だと認識されていたのである。しかし、現在は,「オスマン・トルコ」ではなく、「オスマン帝国」や「オスマン朝」という呼称が用いられるようになっている。

オスマン帝国の全臣民は、民族単位ではなく、宗教単位で識別されることが多かった。オスマン帝国内の大多数の非イスラーム教徒(非ムスリム)はギリシア正教徒であったが,そのほかにも、バルカン諸民族,アラブ地域のマロン派ネストリウス派などが存在していた。各集団は,それぞれ属する教会組織のもとで従来の信仰が認められてきた。もともと,イスラーム(ムスリム)諸王朝においては,キリスト教徒やユけいてんたみダヤ教徒は、啓典の民として保護民(ズィじんとうぜいンミー)と位置づけられ,人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由が認められてきた。オスマン帝国もこの原則を踏襲したのである。

まざまな人材を登用することにより,その支配を盤石にしていった。当初,オスマン帝国軍の主力を担っていたのは,トルコ系遊牧民軍人であったが,それに並んで君主に忠誠を誓う官僚・軍人が必要とされた。15世紀なると,これらの人材には、組織的な人材登用方法が考案された。それが,デヴシルメ制である。オスマン帝国は、バルカン半島における8~20歳のキリスト教徒を容姿身体・才能などを基準として,イスラーム教に改宗していないことを条件ちょうようくっきょうに徴用した。その後,イスラーム教に改宗させたうえで,トルコ語とムスリムとしての生活習慣を身につけさせた。そのなかで頭脳明晰な者は宮廷官吏に、身体屈強な者は軍人に選出されるなど,オスマン帝国の国政にとって必要不可欠な存在となった。1453年から1600年までに大宰相を務めた36名中,トルコ人と思われる者がわずか5名にすぎないという事実は、オスマン帝国の多民族国家としての特質を象徴している。


3イスラーム文化の発展

イスラーム文化の特色

ギリシア・イラン・インドなど古代の先進文化が栄えた地域に成立したイスラーム文化は、征服者のアラブ人がもたらしたイスラーム教とアラビア語を縦糸,征服地の諸民族が祖先からうけついだ文化遺産を横糸として織りあげられた新しい融合文化であった。インド・イラン・アラビアギリシアなどに起源をもつ説話が,16世紀初め頃までにカイロで現在のようなかたちにまとめられた『千夜一夜物語』はその典型的な作品といえる。

固有の学問として,伝承学・法学・神学・歴史学・アラビア語学などが発達するいっぽう、ギリシア語文献の翻訳をつうじて,哲学・論理学・地理学・医学・天文学など外来の学問も積極的にとりいれられ,それらはやがてギリシアの水準をはるかにこえるようになった。11~12世紀,イブン・シーナーやイブン・ルシュドに代表される哲学者は,とくにアリストテレスの哲学を研究し、合理的で客観的なスンナ派神学体系をうちたてるとともに,中世ヨーロッパのスコラ学派(124ページ参照)にも影響をあたえた。また,インド起源のゼロの観念と十進法・アラビア数字の導入によって発達した数学は,錬金術光学で用いられた実験的方法とともにヨーロッパに伝えられ,近代科学の発展をうながした。

イスラーム教徒の学者はあらゆる学問につうじた知識人で、広大なイスラーム世界の政治的国境をこえて活動することが多かった。詩人として名高いウマル・ハイヤームは,同時にすぐれた天文学者であったし,北アフリカにうまれ,シリア・エジプトで活躍した14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンは,政治家・法学者としても有能だった。大旅行家で『三大陸周遊記』をあらわした法学者のイブン・バットゥータもこのような知識人の一例である。

イスラーム文化の多様性

アラブ人の征服とともに成立した普遍的なイスラーム文化は,9世紀以後,イスラーム世界の政治的分裂にともなって,全体としての統一は保ちながらも,地域ごとに独自の発展をとげた。文化の基調となる言語を例にとると,エジプト・シリアや北アフリカでは,『クルアーン(コーラン)』の言葉,アラビア語が日常生活でも使用され続けたのに対して,10世紀以後のイラン・中央アジアではペルシア語,オスマン帝国ではトルコ語が使われるようになり,これらの言葉で書かれた歴史書・文学作品が数多く残された。

イスラーム世界全域でみられる建築物であるモスクも、共通の特徴を保ちながら、各地域ごとに異なった素材や様式が用いられた。素朴で重厚な石造アーチ式回廊をもつアラブ型(古典型)モスク,ササン朝以来の伝統をもつ煉瓦造りのドームと青や黄の彩色タイルが美しいイラン型モスク,ビザンツの影響をうけた石造大ドームととがった光塔(ミナレット)が特徴的なトルコ型モスクなどはその例である。

イスラーム教は偶像崇拝を禁じたため,彫刻は発達しなかったが,装飾文様としてのアラベスクがうまれ、各地で独特のデザインをもった文様が建築物の表面を飾るいっぽう,じゅうたんや陶磁器の図柄としても用いられた。13世紀以後発達するミニアチュール(細密画)も,地域ごとに特有の主題と画風をもっていた。

イスラーム教と男女の平等

イスラーム教を批判する際によく用いられるのが、男女が不平等で、女性は家のなかに押しこめられ、外出する際には髪や肌を隠すためにヴェールを身に着けなければならない、という類の言説である。

歴史的にみて、イスラーム教徒(ムスリム)の女性の社会的な立場は決して低かったわけではない。たとえばもっとも初期の事例としてムハンマドの妻ハディージャ(619年没)があげられる。彼女は富裕な商人として知られ、その経済的・精神的援助によイスラーム教がおこったといっても過言ではない。また彼女は、もっとも早くイスラーム教の教えをうけいれた信者であった。

その一方で,「クルアーン(コーラン)」には「男は女の擁護者(家長)である」(第4章第34節)とあり、男、女の社会的な役割のちがいを強調している。イスラーム法によれば、婚姻は男女間の個人の契約とされるが,夫は婚姻時の婚資の支払いと妻・家族を扶養する義務を負うかわりに、妻は夫に服従することが求められる。しかし、20世紀にはいると、女性の法的・社会的な地位の向上を求める運動が各地域でもりあがり、管理職の女性や企業家としての経済活動はもちろんのこと、医者や弁護士,大学などの教員として活躍する女性も多い。このような背景のもとで,イスラーム法の規定の合理的執行が模索されている。

イスラーム教と女性に関する問題の象徴の一つとしてよくとりあげられるのが,女性のヴェール着用の問題であるが,現在トルコやエジプトをはじめとする多くの国では,ヴェールを着用するか否かは個人の判断にゆだねられている。実際に女性のヴェ―ル着用が義務づけられているのは,サウジアラビアやイランなどのいくつかの国だけである。しかし,そのような状況にあるにもかかわらず,1990年代以降イスラーム復興の潮流のなかで,ヴェールを着用する女性の数は増加傾向にある。そこにみられるのは、西洋的な文明や生活様式に触れるなかでこれに対して疑問をもち,イスラ―ム教徒としてのアイデンティティを主張する象徴としてヴェールを着用するという傾向である。

4インド・東南アジアのイスラーム国家

イスラーム教徒のインド支配

インドでは,8世紀初めにウマイヤ朝のアラブ軍がインダス川下流域を占領したが,それ以上の進出はみられなかった。イスラーム教徒の組織的なインド征服がはじまったのは,アフガニスタンにガズナ朝(977~1187年)とゴール朝(1148頃~1215年)があいついでおこってからである。これら両王朝は10世紀末からインド侵入をくりかえし,ヒンドゥー教徒の諸王国を破って,しだいにインド支配の足場をかためた。そして13世紀初めに,ゴール朝の解放奴隷出身の将軍アイバク〈位1206~10〉によって,デリーにインド最初のイスラーム王朝(奴隷王朝,1206~90年)が創始された。

その後の約3世紀間,デリーには五つのイスラーム王朝が興亡し(デリ・スルタン朝),14世紀初めには,半島最南端部をのぞくインド亜大陸の大部分がその支配下にはいった。イスラーム勢力進出の初期には仏教を弾圧しヒンドゥー教の寺院を破壊することもあったが,信仰を強制することはなく,経済・文化面など,のちのムガル帝国の基礎をつくった。